山松ゆうきち の小屋

インド日記2
 <2月16日>

インド日記 3<2月17日>

インド日記 4
 <2月18日>

インド日記 5
  <2月19日>

インド日記 6
<2月20日>


自己紹介

インド、コルカタで漫画教室

宇宙人はいない

ある高名な大先生

ヴァナラシの戦い 

ロクロウと言う名のインド人 1
ロクロウと言う名のインド人2
ロクロウと言う名のインド人3
ロクロウと言う名のインド人 4

インド日記 

インドで英語版発売PR旅行 

& コミックコン

& 漫画教室

       <デリー、ムンバイ、コルカタ>

2011年6月。
「インドへ馬鹿がやって来た」を、
インドのBlaft Publications(ブラフト・パブリケーションズ)で、英語版に変えて出版する話が、日本文芸社からメールで送られて来た。
OKする。

11月
インドのブラフト社?のラケーシュさんなる人から、出版にあわせてインドヘ来れないかとメールをもらうが、
”太平洋を泳いで渡るくらいの暇はあるが、ビリー(15円くらいで4〜50本も入っている、安い葉巻きタバコ)を買うほどの小銭しか持っていない”
ヒンディー語に精通している、石川まゆみさんにメールし、翻訳して送ってもらう。

2012年、1月16日。
ラケーシュさんから、
”グッドニュース。
私達は飛行機代を払うことに合意した。
「インドへ馬鹿がやって来た」の出版に合わせて、コミックコンのイベントがあるので、
2月の15日から21日まで、インドのデリーに来れないか”
と言うメールが来る。
OKを返事して、まもなく羽田から北京へいき、デリー、ムンバイ、コルカタ(カルカッタ)を回ってデリーへ戻り、
北京、羽田へ帰る飛行機のチケットがメールで送られて来た。

コルカタ(カルカッタ)で、日印文化交流の漫画ワークショップをやってくれた、ラノジットさんにメールを入れる。
”デリーからムンバイ、コルカタに行く事になりました。
デリーでコミックコンのイベントがあるようですが、マノジットさんはいらっしゃいますか?”
ラノジットさんからは即メールがあり、携帯もかかってきた。
”マノジットは、デリーに行くと思います。
急なのであまり用意は出来ませんが、コルカタに来たら1週間くらい、漫画ワークショップは出来ますか?”
と聞かれ、これも即OKを出し、飛行機のチケットを1週間伸ばしてもらう事にする。
(ラノジット(弟)さんは日本の工学博士で、コンピューターのソフトを作る会社 Kriyetic Japanを、
マノジットさん(兄)は、インドコルカタで漫画出版社 KRIYETIC studio を経営しています)

”私達は、貴方を待っています”
不定期に、英文、あるいはアルファベットでヒンディー語、片言の日本語の混じったメールが送られて来るが、
<俺自体は英語ヒンディー語共に解からないので、無料の翻訳で確かめるが、ほとんど意味不明で石川さんに丸投げ>
待てど、待てど、チケットは送られて来ない。
”何度メールしても、インドから送られて来るのは、1週間滞在のチケットのコピーと、歓迎しますと言う文章しか解からないのですが、2週間にチェンジしてもらうのは無理なのでしょうか”
と石川さんに連絡。
「私からもメールしたのですが、それについての返事はありません。書き換えが面倒なのか、別途料金がかかるのか、何らかの理由があると
思いますが、1週間の招待が、何故2週間になるのか解からないのかも知れませんね」
「行くと言ったのですから、インドへは行きますが大変そうだな。コミックコンてサイン会の事ですか?」
「さあ何でしょうね。そのへんの事情はわたしにも解かりません」
ラノジットさんからも、あるいはマノジットさんからも、ラケーシュさんに連絡を取ってもらい、滞在延長を話してもらうが、
ラケーシュさん自体が、出版社の人なのか、翻訳をした人なのか、雇われた交渉人なのかも解からない。

2月14日、
やっとこ、2週間滞在のチケットが届く。
インドへ行く同じ2月15日、メールのやり取り一切をお願いしていた石川さんは、通っていた外語大の卒論を提出して、グアムの田舎へ旅立つので、以後メールは出来なくなる。今までの交渉のいきさつや、インドで注意する事を細かく書いてくれた最後の連絡をもらう。
”山松さんの人柄で、いつものようにさほど問題にならずに、うまくいくであろうことを願っています。今回も何とかなると思います”
え〜?、俺のインドは人柄で何とかしてたの?
思ってもいない事を言われてびっくりする。

2月15日
立川からバスで羽田へ向かい、10時20分着。
時間はたっぷりあった。
タバコを吸って、10分百円のネットでメールを送り、新聞を読み、ぽけ〜と天を仰いで時を待つ。
羽田から13時50分発の、AIR CHINA 航空機は、15時20分頃中国へ飛び立つ。
北京到着予定は16時45分だったが、大幅に遅れて着陸。

インドへは言葉が不安なので、多少割高でもデリー成田直通で三回行った。
4回目は、二年前(2010年)タイ経由でコルカタへ行ったが、英語がペラペラで海外慣れしている伊藤さんに付いて行けば良かった。
競艇場の警備は2週間の休みを取り、
「自慢する訳ではないが、俺は英語もヒンディー語も20か30位の単語しか知らない、北京で飛行機の乗り換えは初めてなんだけど大丈夫だろうか。中国語はシェーシェーしか知らない」
と言ったら、松平さんだったかな、
「大勢が中国で乗り換えるんじゃないですか。インドに行く日本人を捜して、後について行けば良いんですよ」
中々に賢い答えを見つけてくれた。
「うお〜、よしそれで行こう。これで大舟に乗った気分で飛行機に乗れる。何の不安も無くなった」

北京発は20時35分。時間はたっぷりある。
日本人に混じってパスポートを見せ、ゲートをくぐり長〜い通路に出た。
意外に思うかも知れないが、俺はすこぶる慎重で、いつも石橋を叩きながら間違いのないように、一つ一つ何度も確かめながら行動する。
「インドに行きたいのですが、デリー行きの待合はどこでしょう、ここを進めばいいのですか?」
ゾロゾロ列を作って進む日本人は、怪訝そうに俺を見るが、誰一人返事をしてくれない。
ばび〜ん。誰だ。日本人は世界一親切だって言ったのは。

「どうしましたか?」
さっき、羽田から北京間の飛行機に乗っていた、スチュワーデスが足を止め声をかけてくれた。
「インド行きの飛行機に載りたいのですが、どこで待てば良いのか解からないのです。皆に付いて行ってあっちへ行けばいいですか」
「貴方は、すでに中国に入国していますよ」
「へっ?」
何を言っているのか混乱する。
「おかしいじゃないですか。俺は中国のピザは申請していませんよ。誰がいつそんな手続きをしたのでしょうか」
「中国へはピザはいらないんです。買い物だけする人や、用事のある人が入国してすぐ引き返す事も出来るんです」
「え、ええっ?」
う〜〜ん、何てこった。どう対処したら良いのか困った。
「誰だよ、日本人に付いて行けって言ったのは」
中国旅行中に、軍事機密にあたる禁止場所で写真を撮ったと言われて、何日か取調べを受けた日本人がいて、ニュースになった事が頭に浮かび、厳しい中華思想のイメージと、ピザなしで気楽に入国できる事が混ざり、更に混乱する。
昔、大映と言う映画会社に、藤村志保と言う切れ長の眼をした、気品に満ちたか細い声の女優がいた。
顔立ちも声も藤村志保に良く似たスチュワーデスは、俺より身長が少し高い。
今しがた歩いた通路を戻り、
「さっきあのゲートをくぐりませんでしたか」
「え、、はい、くぐったように思います」
「あそこにエレベーターが見えますよね」
「エレベーター?」
そんなものに乗ったかな?
一つ上の階まで荷物を運ぶクレーンはあるけれど、エレベーターは見えない。
「エレベーターを上がって、一番右から入って下さい」
「はい右ですね、エレベーターはどこでしょう? インド行きの飛行機に乗るのに何と言えばいいのでしょう?」
「xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx」
英語のようだが、とても覚えられない。
「えっ、すみません、もう一度ゆっくりお願いします」
「xxxxxxxxx」
一言ずつ繰り返して問い、持っていた封筒にメモした。
「海外は初めてですか」
「いえ、5回目です」
「インドの言葉は喋れるのですか」
「ほとんど日本語だけです」
スチュワーデスは、切れ長の目を丸くし、しばらく俺を見て、
「じゃ、付いて来て下さい」
と言って、クレーンだと思っていたエレベーターまで案内してくれ、頼りないと思ったのか一緒に上がってくれた。
エレベーターの前には机が並び、スチュワーデスの後から一番右を通って入ろうとしたら、制服を着た女性に止められ、申し訳なさそうに掲示板を見せ、一度出たら戻れない事を告げたようだった。

エレベーターでさっきの場所へ戻る。
「私は用事があるので付いて行けませんが、貴方は中国へ入国していますから、この通路をまっすぐ行って、羽田から出発した時と同じように、出国手続きを取って下さい」
「ああそうですか。まっすぐ行けばいいのですね」
そこへパイロットらしき中国人風の男が通りかかり、中国語か英語で彼女と長い事話し合い。
「付いて来て下さい」
3人で電車に乗り、エスカレーターで上って下りて、ターミナルをグルッと回ったのだろうか。
建物の外では、大勢の中国人が行き来し、その先には車も走っている。
せっかく中国へ入国したのだから、チョット外に出て、証しに何か食ってみたり、写真ぐらい撮りたいと思うが、そんな贅沢が言える立場には無かった。
こう言う事には慣れていないのか、時々パイロットとスチュワーデスは立ち止まり、何やら相談して、
「こっちに来て下さい。あそこでパスポートを提示して下さい」
なるほど成田と同じような受付がならんでいる。
「私達はバスがあるので付いて行けませんが、一人で行けますよね、解かりますね」
40分か50分くらいだったろうか、もっと長かったかも知れない。
待合室までの道順を聞いて封筒に書き、礼を言って別れるが、
引き返して二人の名前を聞き、写真を一枚撮らせてもらう。
ボディチェックして、電車に乗って、出国手続きをしてゲートに行く。

  親切なスチュワーデス<パーサー>は松田さん
                             パイロットは徐仁寧<シュホンマー>さん

乗り場へ向かうゲートに並び、時計を見ると8時20分(20時20分)。
北京発は20時35分。
たっぷりとあった時間が間に合わなくなっていた。
「タイムアウト、オーバー」
インド人らしき男に問うと、
「大丈夫、ジャパンとは1時間違う」
と日本語で言ってくれ、ホッとする。
途中、喫煙所があり、ポケットに入っていたライターで火を付けて吸う。
「日本も中国も、危険物チェックは大した事無いな」
と思いながら、二本目のタバコに火を付けた所で、男が寄って来てライターを没収された。
後から入って来た男は、マッチを使って火を付けていたので、マッチは危険物にならないのかと思う。

18時35分発のデリー行きは、20時をはるかに過ぎて出発した。
機内でイミグレーション(入国審査)の用紙をもらうが、斜め前に座る親切なインド人に1行ずつ聞き、解からない所は書いてもらう。
デリー空港着は1時35分になっていたが、
俺の時計はすでに5時を回っている。
時差を3時間半戻せば大体予定通りだろうか?
入国審査は一年前とは様変わりしていて、人も多く1時間もかかった。
カバンを探し、改札を出て行ったり来たりうろついていると、
「ユキチサン」
モヒカン刈りの白人に声をかけられ、
「マイネーム、ラケーシュ、xxxxxx、xxxxxxxxx」
おいおいおいおいおい、ラケーシュしか言葉が解からんよ。
まあいいか、俺がユキチで、相手がラケーシュ。
解からないなりに挨拶して、車に乗ってホテルへ直行。
「マエン、アメリカン、ハーフxxxxxxxxxxxxxxxxxx」
私はアメリカ人とインデアンの混血と言ったように思うが、ラケーシュさんの言葉は聞き取りにくい。
頭はてっぺんが黒くて、横が金髪なのでモヒカンに見えただけだった。
部屋は八畳間ぐらいだろうか。
バス、トイレ付きで、二人が寝ても余るくらい大きなダブルベットが一つ。
小さな冷蔵庫と机、何故か椅子が4脚もある。
「カルxxxx、コミックコンxxxxxxx、パーンチバジェxxxxxx」
カルは明日。パーンチバジェは5時。
「明日の夕方5時にコミックコンがあるのね、オーケイ」
食事はこのホテルで食べる。
自分は、近くのホテルに泊まっていると言っているようだが?何故彼がホテルに泊まる必要があるのかは解からない。
まあ無事インドに着いた事だし、細かい事はいいか。
聞いても解からないし、言っても無駄だと思ったのか、掲示板のように必要最小限の事を言って、そそくさと帰った。
今日は丸一日起きていた事になる。
疲れた。
どんよりと汗をかき蒸し暑いので、シャワーを浴びてバタンキュー。
シャワーを浴びたら寒くなって、中々寝付かれない。
敷布を半分に折って中に入り、シャツを着て寝付くのを待つ。

─ 続く ─