ロクロウと言う名のインド人 1回目 |
私の名は岸本六郎、六郎と書いてムツオと読みます。 歳は五十三で、関東発条株式会社と言う、中堅のバネを製造する会社に勤めています。 その男の話を聞いたのは、一年ほど前でした。 「部長をたずねて、インド人が来ましたよ」 「インド人?」 「ええ、インドから来て、キシモトロクロウさんを捜していると言ってましたが、自分の名前は聞いても言わないので、訳ありだといけませんから、当社にキシモトロクロウさんと言う人はいないと答えておきました」 「そうですか、う〜ん、誰だろう、思い当たらんなあ」 三十年ほど前にインドへ行き、しばらく暮らした事はありましたが、今頃になって訪ねて来るような人の心当たりも無く、その事はすぐに忘れてしまいました。 それから二ヶ月ほどたった頃。会社の帰りの事です。 男の後ろから夕日が射し顔は見えませんでしたが、背が高く足の長い細い体形で外国人だと解りました。 「こんばんは。」 彼は私をチラッと見て頭を下げ、流暢な日本語で挨拶し通り過ぎて行ったのです。 私も彼を見ました。その時は顔の色が黒いので、インド人ではないかなと思ったくらいで、気にも留めませんでした。 駅近くの大衆食堂更科の前を通っていたら、何となくカツどんが食べたくなり、久しぶりに店に入ったのです。 入口でレジを打っていたおかみは、私より三つか四つ年上で、二十年以上も前に、この町へ来た時から知っています。 「あ〜ら、ロクちゃん、どこで浮気していたの」 「うん、あっちこっちね、やっぱり、ここのカツどんが一番美味いのを思い出して来たのよ」 「もっと頻繁に思い出してよ」 店の中は、客で半分ほどの座席はうまり、 意外にも、あの背の高いインド人風の男が働いていたのです。 おかみは私の座った席に寄って来て、 「ロクちゃん、いらっしゃい」 働いているインド人風の男を呼んだのです。 「え、ロクちゃんって言うの?」 「そうよ、うちの新しい店員、週五日のバイトだけどね。この人インドの留学生で、ロクロウって言うの、筑波の大学に行ってるのよ」 「いらっしゃいませ、私、インドのロクちゃんです、以後万端よろしくお願いします」 「こっちは日本のロクちゃん、以前は毎日みたいにカツどんを食べに来てくれていたのよ。カツどんに目が無いので、カツどんのロクちゃん」 「ははは、歳のせいか、この頃はさっぱり肉を食べなくなりました。この近くに住んでるの?」 「はい、歩いて20分の所に、アパートを借りてます」 「筑波は遠いでしょ。もっと近くが便利じゃないの」 「私もそう言ったのよ、この町が気に入ったみたいなの。彼、立派なのよ。親から仕送り無しの苦学生、日本に七年も居るんですって、頭はいいみたいなんだけど、問題はお金と出席日数なのよ、来年は何とか卒業できるといいんだけどね」 「頑張っているんだ」 「いらっしゃいませ」 彼は客の注文を取りに行き、私はおかみに顔を近づけて小声で話しました。 「インド人は動かないって聞くけど、役にたってるの」 「文句は言わないし、何を言っても、はいはい聞くしよく働くわよ。あんな賢い人を、こんな店で安く働かせていいのかって思っちゃうわね」 「そりゃ良かった。じゃいつものカツどん貰おうかな、後でビール1本」 「ロクちゃん、カツどん一つ」 「はーい、カツどん一つ」 それが私と、インド人ロクちゃんとの初めての会話でした。 それから二度ほど、会社の帰り道で、インド人のロクちゃんと顔を合わせた事がありました。 彼はいつも、にこやかな笑顔で挨拶してくれたのです。 「こんにちは」 「こんにちは、今から学校ですか」 「いえ、今日は休みです、これから更科さんでアルバイトします」 「そうですか、大変ですね」 「又、カツどん食べに来て下さい」 「あははは、はい、その時はよろしく」 そんな事があって、何日も経たない夜の事でした。 風呂から上がり、タオルで頭を拭く私を、居間の窓から外を見ていた妻が呼んだのです。 「あそこ見て」 「ん?、なんかあるのか、何にも見えないな」 回りは何の変哲も無い住宅地で、家々が並び、道と庭の低くなった隙間から、200メートルほど先に、古いアパートの二階がポツンと飛び出しているのが見えるくらいです。 「あそこのアパートの窓から、夜中にコッチを見ている人がいるのよ。うちを覗いているんじゃないのかしら、気持ち悪いわ」 言われればなるほど、二階の角部屋だけ明かりがついていて、人影が写っていました。 「あははは、何の理由でうちを見張るんです?、そんな人はいないでしょ」 「だって、昨日も、おとといも見ていたのよ、もっとずっと前から見てたんじゃないかしら」 「外を見ているだけでしょ、うちを覗いて何の得があるんです、気のせいですよ」 「そうかしら」 私は妻の言葉に取り合いませんでした。 毎年春の新学期が始まる前に、大学に行く長女と、高校に通う次女と妻と私の4人で、ささやかなバーベキューを庭でやります。 妻は二百メートルほど先のアパートを見て、 「ほら、見てる。私たちを見ているわ、間違いないわ、かなり大きな男よ」 「たまたまこっちを見てるだけじゃないのか」 「お母さん、気にし過ぎるのよ」 「そんなの気にしていたら、料理が美味しくないわよ、食べましょ」 その時も、妻は不安がりましたが、私も娘も、気にする事は無いと言って取り合いませんでした。 我が家を見張っているという確証は無く、仮にそうだとしても、何の目的で見張るのか、思い当たる節は無く、策のほどこしようも無いので、静観するしかなかったのです。 それから何日か経って、私の帰りを待っていたかのように、妻は玄関まで飛んで来て、 「貴方、大変な事が解かったわ」 「何かあったの?」 「ええ、あのアパートの人、インド人なの」 「え、、、、、」 「久恵さんが教えてくれたの。貴方には言わなかったけど、あの黒い人、毎日朝早くと、夜遅くにここの前を通ってるよ、アパートから真っ直ぐ駅に行けば近いはずなのに、どうして大回りして行くのよ」 「う〜ん、どうしてかな」 「うちを見張っているのよ、決まっているじゃない」 「そうかな。」 「おかしいわよ。私はもうこんなの嫌、耐えられないわ。背筋が寒くて悪寒が走るの。ねえ貴方何とかして」 「そう言われてもなあ、どうしようもないでしょう」 「毎日夜中に家を見張られて、表の道をうろつかれて、何とも思わないの」 「、、、、、、、、、。」 次の日の朝、私は三時間ほど早く起きました。 「貴方、来たわよ」 妻に促され、箒を持って掃除する真似をしながら、近づいて来る彼を待ったのです。 「おはようございます、暖かくなってきましたね」 インド人の若者は、私を見てにこやかに挨拶しました。 「おはようさん、毎日こんなに早くに大学に行くのですか、遠くて大変ですね」 「いいえ、そんなことはありません。電車でもどこででも、本や新聞を読むのは同じですから、全然苦になりません」 「そうですか、、君は、、その、君のアパートからこの道を通るのは、大回りじゃないのかね」 「ぇ、ええ、、はい、、、何となく、この道が好きなんです。日本らしいです、なつかしいのです。いいえ違います、、美しいです、素敵で気が休まるのです」 青年は、私の質問が意外だったのか、ちょっととまどい、躊躇しながら答えたのです。 私は言いにくい事を告げました。 「その、、何と言うか、妻がね、、女房が、君が大回りしてここを通って駅に行くのは不自然だと言うんだ。できればここを通らないでもらいたんだが」 「あ、、ああ、、、、、。ええ、、、そうですか、、そうですよね、、解りました、すみませんでした」 そう言って微笑み、インド人らしく首を斜めに傾けてうなずき、頭を下げて行ったのです。 「どうして、妻が不安がるなんて言ったの、私にもしもの事があったらどうするのよ」 「ぅ、うん、ああ、ごめん、つい言ってしまったよ。駅前の更科でアルバイトして働いている、素直ないい学生だよ、何事も起こらないだろう」 「そうかしら、犯罪はそう思っていて起こるものよ」 「、、、、、、。」 妻は尚も不安がり、夜中、青年のアパートを覗いていたようでしたが、人影は見えず、前の道を歩く事も無くなったのでした。 十年ほど前まで使っていたカメラは、何処にしまったのだろうかと捜していたら、昔のアルバムが目に入ったのです。 五年ごとに高校の同窓会があり、白髪になり頭が剥げ、皆がだんだんに老けていく様を、なつかしく思いながら、何気になくアルバムをめくっていたのでした。 その時、物入れの下から、インドへ滞在していた時の写真と手帳が出て来ました。 「インドでも、ロクさんと呼ばれていたな。インド人のロクちゃんか、気になる名前だ。、ロクロウ、、むつお、、、、ロクちゃん、、、、んん、、あっ」 ふと、インドへ行っていた事と、ロクロウの名が重なったのです。 「もしや、、、。いや違う、そんな事はない、絶対にありえない」 ありえない話でしたが、ロクロウと言う名は、日本人でも多くはありません。 ロクロウなるインドの青年が、私の近くに来て住んでいる。 会社に訪ねて来た男が、あの青年だとしたら、偶然ではない。 全ての話のつじつまが合うのです。 「彼は、私に会いに来たのだ」 そう思い、愕然としました。 (1回目終わり) |
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