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Love and Peace 2007年 その時々のオサムカラムコラム
Imagine all the people living life in peace John Lennon
               
(赤字はワンポイントイメージのためで、リンクではありません。)

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12月21日(金)
イルミネーション
敬虔なクリスチャンが多い平和なキリスト教国日本では、今まさにイエス・キリストの生誕を祝って、あちこちにクリスマスの飾りやイルミネーションが輝き、クリスマスソングが町に流れている。
なぁに、後10日もすれば神社仏閣に詣でる信心深き仏教徒に変身するのもやはり戦後変わらぬ平和日本の姿なのであるのだ。
ただし、あちこちで銃器の犯罪やおぞましい事件があるのを平和とは言わないと言われればそれまでだが、いずれにしても平和な国を目指すのは素晴らしいことだ。
しかし最近ちょっと気になるのはさまざまな恐ろしい事件や、救済されない薬害肝炎や、国民を救済しないで何兆円もかけてやる意味があるのかミサイル防衛網構想や、格差社会や、原油高に喘ぐ日本国民はほったらかしにして置いて、しゃかりきになってなんとしても通そうとしている戦争に使われる給油問題、は置いといて、平和日本の象徴のようなイルミネーションだ。
いつの頃からか商店街などでなく、一般家庭でも色とりどりのイルミネーションが見られるようになった。数年前にはどこそこの商店街の通りのイルミネーションがすごいとか、駅前通りの街路樹の飾り付けがきれいだとか楽しませてくれたものだが、今は商店街よりも一般家庭のほうが華やかだ。
数年前、知人の家でイルミネーション―それもそれほど派手でなくささやかな物だった―を飾ったら、その家の息子が「キャバレーやスナックみたいでいやだ」と言ったので撤去したということがあった。
当時はイルミネーションが輝いているのはその種類の飲食店だけだったのであるが、その知人の家に間違って酔客が入ってきたとは聞いてないが、そんなに古い話ではない。
それが今ではどうだ、あちこちで派手さを競っている一般家庭のイルミネーション。今後ますます派手になっていくであろうが、かなりやりすぎだ。
地球温暖化を危惧して一政府のみならず地球規模でさまざまな温暖化防止策を提唱していて、例えば、白熱電球は電力を消費し過ぎるから製造中止にして、蛍光ランプに換えていくことを日本政府は決めた。
また、電力会社のコマーシャルでは、電気はこまめに消しましょうとか、温水トイレの蓋は閉めておくと電力消費の節約になるとか、冬はカーテンを二重にするほうが暖かいとか、夏は簾を下げて直射日光を避ければそれだけクーラーの消費電力が少ないとか個人や家庭でできる節約方法―二酸化炭素排出量削減―を呼びかけている。電力会社は消費者が無駄に電力を使えば使うほど儲かるのにだ。
電力会社に限らず、直接石油を消費する車の走行方法なども節約的方法があるし、ハイブリッドカーを開発している日本の企業は環境問題の優等生になっている。
そんな風にあちこちでそれこそありとあらゆる節約術で二酸化炭素の排出量を減らそうと呼びかけている。
それなのにだ、昨今のあの過度の装飾のイルミネーションについては誰も何も言わない。賞賛、感嘆の話題のみだ。おかしいと思う。
ささやかに家庭や国家の平和を祈り、一時期きれいなイルミネーションを飾るのは否定しない。しかし、最近のイルミネーションは明らかにやりすぎだ。弩派手で、しかも飾りつけの期間も長い。
たぶん敬虔なクリスチャンであろう「不都合な真実」のアル・ゴア氏は日本だけでない世界中のイルミネーションの洪水をどう思うんでしょうね。
地球温暖化の元凶が二酸化炭素排出量増大というのが真実であるなら、未来の地球にとって貢献大の国は夜真っ暗で、冬は暖房もなく、夏はもちろん冷房も使えないと言われている北朝鮮だということを否定できるだろうか。もちろん核や拉致問題は別にしてだ。かの将軍様が「わが国は電力消費を抑えて地球環境保護に努めているので、ゴア氏に授賞するなら私にもノーベル平和賞をくれ」と要求するかもしれないぞ。
わが社では一昨年からささやかにLEDのイルミネーションを飾っていたが、今年はやめて、その代わり自宅に昨夜から飾った。明日の夜にはわが母を囲んで母の子、孫、ひ孫どもが我が家に集合し、賛美歌などを歌うのが毎年の慣わしだからだ。(別に敬虔なクリスチャンではないけれどね)
昨夜、96歳の母に窓を開けて見せたら、「きれいだ、きれいだ」と言って喜んでいた。
平和、飽食、金満日本を満喫するのも少しはいいけれど、ちょいと控えめにして二酸化炭素排出量を減らしましょう。
12月12日(水)
うそつき
一国の大臣や弁護士がああも簡単に嘘をついていいものだろうか、いやいけません。嘘つきは泥棒の始まりだと申します。それを言うと泥棒さんが政治家と一緒にするなと怒ります。
舛添厚労相と橋下弁護士。厚労相は消えた年金問題で来年の3月までに名寄せ完了と大見得を切っていたのに、ないものはないから不可能と開き直り、福田総理も「解決すると言いましたかねぇ」などととぼけていた。橋下氏はつい11日朝まで大阪知事選には出ないと明言しておきながら、いとも簡単に今度はハイやっぱり出ますだと。
こんな嘘つきオッパッピーどもが政治をやっていいものだろうか、いやいけません。

「ねぇあなた、この間買ってくれると言ったヴィトンのバッグどうしたのよ、嘘ついたのね」
「そうじゃないよ、あの時はほんとに買ってやるつもりだったけど、そ、その、財布の中身が予想外に少なくて」
「なに言ってんのよ、私のこと愛してるって言ったのも嘘だったのね」
「い、いや、ていうかぁ、あの時はホントに愛していると思ってたのさ」

テレビではコメンテーターがこのことについて「国民はバカじゃないぞ」と言って憤っていたが、そんなことはありません、私たち国民はバカです。すっかりなめられています。ずうっと騙され続けています。
12月11日(火)
正当な評価
今シーズン1試合も出場しなかったプロ野球オリックスの清原和博選手が来シーズンの契約更改をした。大幅ダウンといってもなんと年俸1億1千万円プラス出来高払いだという。今シーズンは年俸2億円だったらしい!1試合も出場しないでも2億円貰えるのでしょうか。
清原はPL学園卒業以来長年やっているので、そこそこの実績はあるが、タイトルといえば三振記録を更新中ということくらいで、ここ何年かは明らかに所属球団にとってはお荷物選手だ。
そんな選手にこの原油高の時代に1億円以上も出すとは!?原油高は関係ねぇか?
これも一種の賞味期限偽装だと思えるのだが、この場合は金持ちの球団が趣味で(?)払うと言っているのだからしょうがないか。オリックスの株主は株主総会でこの清原の高級年俸の抗議をしないのだろうか。リース代をまけてもらいたいという人も出てくるのでは。もうこうなったら疑問だらけである。
今年中日に移籍して日本シリーズでMVPを獲得した中村紀洋選手は、最初育成選手として年俸400万円、その後支配下選手として600万円だった。来期は今期の活躍もあって年報は3月の新規契約時より733%アップの5000万円だという。これが正当な評価というものだ。
清原選手がいくら人気があるといっても活躍しないのでは何の意味もないし、まして試合に出ないのではどうしようもない。そんな選手が人気があるということもどうも納得いかない。日本のプロ野球ファンよ、正当な評価を!(あ、そうそう、ボクシングもだ。)
さらに分からないのは、野球協約では1億円を超える選手の減額幅は、40%を超えてはならないと定められているらしいのに、今回の清原選手もそうだが、その協約違反契約がかなりあるというのはどういうことなのか。野球協約ってなぁに?拘束力はないの?
(清原選手ネタ、また来年もここに書くようかな)
12月6日(木)
新聞投稿欄
新聞は毎、朝夕刊東京新聞をほぼすべてのページを読んでいる。もちろん自分好みのページがあるのでその欄は丹念に読むことが多く、逆にあまり興味のない記事はさっと読み飛ばしたりしている。
読者投稿欄はそれほど熱心に読むこともないが、世の中の人はどんな意見を持っているのかをある程度知っておかなければと、全然無視することもない。
東京新聞の投稿のページには社説も載っているので、社としてはかなり気合が入っているページだと推測できる。
その12月1日(土)の同欄の「サタデー発言」というコーナーになんだかわけが分からない投稿が載っていた。しかも2段抜きでかなりの行数で。
題は「猫背のすすめ」。書いたのは神奈川県茅ヶ崎市に住むエンゾ・早川という人で、作家・イラストレーターとなっていた。
オイラにはさっぱり分からない内容で、分からないなりに要約してみると、
氏は子供の時から”背筋を伸ばした良い姿勢”というのを疑っていた。立派な人、偉い人、かっこいい人はみんな猫背でそれは大人になった今でもそう思っていると言う。猫背には首だけ落ちている「2D猫背」と背中全体が丸みを帯びていて首と背が同時に前方に出ている「3D猫背」があると言うのだ。前者は仕事も出来ず、人の役にも立たず、体系も崩れ不健康な人生を送るのに対して、後者は持久的に仕事が出来、我慢強く血圧が低く、健康的な生活を送る。そして氏は小泉純一郎氏を支持し、安倍晋三氏を早々に見切ったと言う。その意味で福田康夫氏をよしとするのだとも言っている。しかもそのあとで、福田・小沢両氏の一世一代の賭けをアゴの上がった民主党の議員たちが理解できなかったのはやむを得ないことかも知れないと。もうこうなってくると前文も途中も後の文も何がなんだかさっぱり分からない
さらに最後に体型に関する自著の宣伝までしている。ということは、分からない人はこの本を買って読めということなのかな。
社説はともかく投稿はいつも判り易い内容が載っているのが普通だが、この投稿文はオイラにはさっぱり意図が分からない。それより不可解なのはこんな意味不明の投稿を採用した東京新聞の編集局の考えもさっぱり分からない。しかも出版社が違う書名まで載せているのだ。
投稿内容についての賛成反対、同意不同意の前に、オイラの理解度が足りないのか?それとも今、世の中では「猫背」というキーワードがあるのか、流行っているのか?
皆様、この投稿、東京新聞のHPを引っ張り出して全文をぜひ読んでみて下さい。
12月4日(火)
ミスター赤ヘル
野球をやっている国は世界では少数派なので北京五輪を最後に野球競技は五輪では無くなるという事からか、北京出場権をかけたアジア選手権(といっても4カ国)をマスコミはかなりオーバーな取り上げ方をしている。
いや、日本においてはやはり野球はスポーツの王様で、これで3戦全勝で北京五輪出場を決めたのだから、大いに取り上げ、喜ぶべきなのだろう。
バレーボールは芸能人まで使ってのこれこそが異常な取り上げ方だが、結局出場どころの話ではない負け方に比べれば、出場チームが少ないということを割り引いても野球は立派か。
画面に映る星野監督は相変わらずの情熱的采配で、大きな声を上げたり、かなりの激しい身振り手振りで選手を鼓舞していた。あまりの動きに、手で自らの帽子を飛ばしたりしたシーンも映っていた。
星野監督はまあユニホーム姿が様になっていたが、情けなかったのが我が広島カープの元ミスター赤ヘルこと山本浩二だ。
山本浩二の華々しい経歴を少しでも知っているファンとしては、コーチャーズボックスに立つあの出っ腹スタイルはどうもいただけない。おまけにメガネがずり落ちそうだし、台湾は寒いのかどうか知らないが、まるで防寒としか思えないような大げさな手袋をしてランナーに指示を出していたりブロックサインを出していた。
現役を引退したプロ野球選手のマスターズリーグでは観客を故意に笑わそうとして珍妙なプレーや自己の体型などをことさら強調したりするシーンがあるが、昨夜は真剣勝負、なんともちぐはぐな姿と思ったのは私だけ?
みんなが見ているぞ。プロはコーチ、監督でも格好良く!
12月1日(土)
許される範囲
2004年8月12日のこの欄でも書いたのだが、相変わらず日本列島は、ニセ、ウソ、偽装のオンパレードで、しかもそれが伝統や格式を誇ってきた老舗メーカーにも及んでいるから驚きだ。
日本の食品メーカーだけでなく、マクドナルドも問題ありとかで、こうなってくると賞味・消費期限や製造年月日表示なんてものは全く当てにならないので、それらをすべて廃止してギャートルズの時代に戻り、カビが生えていたからだめだとか、カビが生えててもそこだけ取っちゃえば大丈夫だとか、この程度の臭いなら煮れば平気とか、もう各々の判断に任せるしかないというね。
ギャートルズの石器時代に戻らなくても、そうしていたのはそんなに昔のことじゃないのだ。
いつだったかわが冷蔵庫に1ヶ月ほど消費期限の切れたまだ封を切ってない牛乳があった。何しろすでに賞味期限の切れている女房といまだに一緒にいるというもったいない精神のあるオイラは(この文、女房には内緒)、その牛乳を見て、「まだ大丈夫じゃねえか」と独り言を言いながら匂いを嗅いでみたのである。案の定あの腐った牛乳独特の臭いがしない。「おお、ラッキー、これはまだ飲める」ということで一応沸かしてみても固形化しなかったので有り難く頂いたのでありました。もちろんお腹もなんともなかったのでありますが、賞味期限が切れているものを飲んでなんともなかったのは得した気持ちと一緒に、一か月経っても変化しない牛乳とは?とかえって恐ろしくもなったのでありました。(この文章、前にも書いたことがあるような気がするなあ。注:調べたらやはり1月16日に書いてました))
印刷業界でも再生紙なんてものは印刷物の片隅に「再生紙」と記せばもうそれは再生紙になっちゃうのであって、現代の製紙技術は素晴らしいので、一見しても再生紙かどうかなんていうことは分からない。(もちろん当社は指定があれば正直に高額な再生紙を使用しています)
再生紙は環境破壊という問題はここでは取り上げないが、かつて入間市役所から注文された封筒に、前回注文された業者が役所の指示通り入れたらしいのだが片隅に「古紙100%」の表示があった。当時、といってもほんの何年か前だが、封筒メーカーは古紙100%の封筒は製造していなかったので存在するわけがなかった。当社は担当者に、「古紙100%の封筒はありません。今は最高でも70%です。これは不当表示だから削除したほうがいいのでは」と指摘したのであった。
担当者は驚くというよりすぐ納得して「あ、そうですか、それでは古紙70%を使用し、その旨表示して下さい」とサラリと言ったのであった。
まあ、表示なんてそんなもので、これは封筒だからいいものの食品ならやはり問題になるケースだろう。
かなり頭髪の薄い人がかつらを使用しているのを隠して結婚し、夫婦はたいそう幸せな生活をしていたのだが、ある時ちょっとしたきっかけでそれがばれてしまい、「まあ、あなた、よくも今まで私を騙していたわね。これは結婚詐欺だわ、離婚よー!」と逆上した妻に言われた夫は、「何言ってんだい、俺なんて毎朝起きる時に違う女といるかと思ったほどお前の化粧はものすごいぞ、お互い様だー!」
で、結局また元の鞘に収まったというね。
大体この世の中あらゆる物に「もどき」という物があるので、何事も許される範囲とそうでない範囲というものがあるのさ。
(守屋防衛省元事務次官がらみの贈収賄事件は果たして政治家まで波及するのか。これは許される範囲はないぞ!)
11月15日(木)
国会見学
下の続き。
国会の見学者入り口を入ると金属探知機のゲートをくぐるのだが、手荷物は体から放して所持品のバッグなどと一緒に脇のテーブルの上に置く。ブザーが鳴らず無事くぐるとすぐ係りの衛視が荷物を渡してくれる。その際不思議に思ったのは、手荷物のバッグの中身のチェックを全然しないことだ。
例えば刃物やピストルや爆弾を持っていたと仮定して、着ている物の内ポケットなどに隠していてもそれは金属探知機ですぐ分かるだろう。では、それらをバッグに入れていたらどうなるだろう。結論、フリーパスです。本人がチェックされてもバッグをチェックしないのでは何の意味もないと思うがどうなんだろう。身に着けているものよりバッグの中身のほうが危ないと思わないのだろうか。
バッグに危険物を入れておいてパスしたら、どこか植え込みにでも隠しておいて、国会開会中の次の見学の機会に、打ち合わせておいたテロリストが見学者として入り、隠しておいたブツで犯行、という筋書きなんて子供でも出来る。
国会前の道路の物々しい警備を考えるとなんともちぐはぐな対応ではないか。もちろん具体的には今回の国会見学に我々の仲間に不埒な輩はいないし、見学者の身元もある程度知れているので安心といえば安心だ。しかしそれは我々参加者の間で言えることで、衛視にとっては我々がどんな人物かは殆ど知らないはずだ。しかも、我々同士も参加者が商工会支部に所属する会員事業所のメンバーであっても、その事業所の従業員あるいは関係者の素性までは分かるのはある程度であって、詳しくはもちろん分からない。
大野官房副長官の紹介なので信用されているのかもしれないが、それなら金属探知機ゲートもパスさせてほしかった。それに、何しろ鳩山法務大臣友人の友人はアルカイダという例もある。油断は禁物だ。
警備は犯行後の犯人を捕まえるためではない、犯行を未然に防ぐためにあるのだ。
なぜこんなことを書くかというと、国会で荷物の中身をチェックしない時には「あれ、いいのかな?」とチェックされる方が皆一様に思った。そして国会の後、東京都庁の展望階へのエレベーターに乗る時には、男性も女性もボディーチェックはされなかったけれど、しっかりと係官にバッグを開けさせられて中身をチェックされたからだ。
国会より都庁のほうが厳しいというより、国会のほうが甘い。日曜日で偉い人は誰もいないからいいのかな?時限爆弾という手もあるぞ!
今のところ平和な日本、心配しすぎかな。
11月13日(火)
下の続き
昨日の続き
その見学者チェックが大いに問題ありと思ったのだが、なぜかは後で書くとして、今朝の朝刊にお久しぶり、安倍前総理の消息が出ていましたね。どうやら安倍氏はすでに退院して自宅療養しているらしく、今日の衆院本会議での新テロ特措法の採決には這ってでも出席すると言っているらしい。
一昨日の国会議事堂見学で、衆院本会議場は日曜日なので照明を落としてあったのだけれど、上の傍聴席から見ると小泉氏や中山氏や森氏よりは当選回数が少ないので前の方だったけれど、確かに安倍晋三氏の名札もぼんやりと見え、「安倍さん、どうしてんだろうね」とみんなで噂し合ったところであったので、何はともあれ病状も回復しているようなのでおめでたいところだが、ここはあまり無理せず一層の健康の回復に努めたほうがいい。とたまには素直に書いたりして。   ・・・続く。
11月12日(月)
国会見学
昨日(11日)、テレビや新聞やラジオで毎日おなじみなのに、まず行くことがない謂わば非日常の世界、国会議事堂へ行って来た。(田舎者の東京見物
入間市商工会のわが支部の研修日帰り旅行の日程の一部で、大野官房副長官の紹介である。
小学生の時の遠足で行って以来なので、その時から内装その他ほとんど変化してはいないと言われてももちろん覚えていないので、いつもテレビに映る場面の場所に行くと、「へえ、ここがそうか」とか、素直に感嘆したり、福田総理以下議員の皆さんがいつも歩いている1m2万円掛かるという赤絨毯の上を歩いて満足?したり、国会は化石の宝庫ということ(議員のことではありません、本物の化石です)で、石柱や石壁のあちこちにある化石を見たりとなかなかの勉強になったのでありました。
それはそれとして、見学前にまず不思議に思ったのが警備の問題。
国会の周囲の道路には警備の車や警察官が至る所にいたのは当然といえば当然だ。見学者入り口でも当然警備上厳しく見学者の所持物をチエックするのであるが、実はそれほど厳しくなかった。
見学者は金属探知機のゲートをくぐるのであるが、その際所持品はゲートの脇のテーブルに置いて見学者は何も持たないでゲートをくぐる。  ・・・・・・続く
11月7日(水)
少年野球チーム
「かんちゃん、かんちゃん、大変だよ、いっちゃんが『誰も俺の言うこと聞かないからキャプテンやめる』って言ってるよ」
「え、そうなの、
またわがまま言ってるの?みんなに内緒で勝手に相手チームのキャプテンとなんだか分からない約束したくせにね。二人きりで会うなんてよっぽど何か人に言えないまずいことでもあるんじゃないの。それじゃあ、もしかしたら仲良しを何人か連れて相手チームに行っちゃうかもしれないよ。そうじゃなきゃ新しいチームを作っちゃうかも知れないし。で、どうする?ゆきおちゃん」
「いいよ、いいよ、ほっとけば、いっちゃんはきっと僕たちが
やめないでって言って来るのを待ってるんだよ。そのうち『やっぱりやるよ』って言って来るんじゃないの。どうせついて行く人なんてあんまりいないし、相手チームだって大勢じゃなきゃ移ってこられても困るしね」
「でも、やっぱりウソでもいいから、言うこと聞くから戻って来てよって言った方がいいんじゃないの?はっきり言って
いっちゃんと離れるいいチャンスだけど、相手チームの手前『じゃあ早くやめてよ』とも言えないしさ。それにあれだけ皆の前でやめるって言ったんだから『やっぱりまたキャプテンやる』なんて言いっこないよ。大人じゃないんだからいったん言ったことは変えないさ。大人の言葉で言うと社交辞令っていうやつを使えばいいのさ」
「そうだね、本当はいやだけど、じゃあそうしようか」

「かんちゃん、かんちゃん、大変だよ、ちょっと聞いたんだけどさ、いっちゃんがやっぱりまたキャプテンやるって言ってるらしいよ、困ったなあ
「え、ウッソー、マジかよ。やっぱりあの時ほっといて誰か他のメンバーを新しいキャプテンにすればよかったなあ。きっと
今まで以上に俺の言うことを聞けって言うよ」
「相手チームのキャプテンもこの間なんだかわけの分からないやめ方をして大変だったらしいけど、それより、これでうちらのチームもお終いだね。チームのみんなも面白くないだろうし、いままで応援してくれた人たちも呆れて離れていくよね」
「うん、そうだね。これじゃぁまるで亀田君レベルだもんね。どうせバカバカしいなら亀田君とか応援した方が面白いって言う人もいるだろうしね」
「でも、応援してくれてた人もどうせすぐ忘れちゃうから案外なんともなく続いていけるかもよ」
「そうだね、有権者、じゃなかった、応援してくれてる人たちのレベルもボクたちと同じで低いからね。相手のチームだってどっちもどっちだし」
「そういえば相手の前のキャプテンのシンちゃん、どうしてんだろうね。元気なのかなぁ。誰も気にしていないみたいだけど
薄情だよね」
「うん、そうだね」

この話はフィクションです。登場人物は実在ではありません。

11月5日(月)
小沢辞任劇場
威張りんぼの駄々っ子がそのまま大人になっちゃったものだから、たまには、自分がまず変わらなければいけないなんて言ってはみても所詮はその時だけで、結局はいつもの小沢一郎氏の辞任劇なのですね。駄々っ子というところは晋三ちゃんに似ていて、唐突に辞めるのも同じだ。
小沢氏の信条は彼のHPによると「敬天愛人」と「至誠通天」だそうだ。「至誠通天」はまごころをもって事にあたればいつかは認められるということだそうだが、本当にそうしていますか?それともいつもそうしてないので、これではいけないという反省の意味で信条というより行動目標の意味なのですか?
民主党は小沢氏に辞任を思いとどまるように慰留するなどとバカなことを言っているが、ハイ分かりました、どうぞおやめくださいと言った方がいい。いつまでも小沢氏に頼っているようでは情けないし、辞任撤回して代表を続けても、どうせ振り回されるだけで真の国民の目線での政治など出来ない。民主党は小沢氏を乗り越えて政権を奪取して初めて真の民主主義政党になれるような気がする。
今回の福田、小沢の密室会談から始まった小沢辞任劇を見ると、10月12日の欄に書いたように、やはり木村隆秀氏のような人物が政界には必要なのではと改めて思う。
小沢氏の独断専行は今に始まったことではないが、突然の辞意表明は果たして裏にアメリカの影はないのか、防衛省守屋前事務次官がらみで検察の動きはないのか、安倍氏のような健康問題は、といろいろ出てくるが、ない、ない、そんなの関係ねぇ、単なる気まぐれさ!
それより再び、安倍前総理はどうしていらっしゃるんでしょうねぇ。
11月2日(金)
中日落合監督
真っ白いカラスもいるのかというほどの驚きだったのが昨日のプロ野球日本シリーズ、中日対日本ハム戦の山井投手の完全試合目前の交代だ。
元中日の谷沢氏などは、「落合は監督の器ではない」とまで酷評していた。また、楽天の野村監督も「10人の監督中10人はあの場面で投手は代えない」と言っていた。
試合会場のナゴヤドームにいた誰一人として(落合監督を除いて)ピッチャー交代を予想していた人はいないだろうし、テレビで見ていた人も当然そうだろう。そのくらいある意味衝撃的な党首、じゃなかった、投手交代劇であった。
いろいろなメディアがこれについては詳しくあれこれ言っているのでいまさらながらとも思うのだが、書かずにいられない。
@ほとんどのプロ野球ファンの、プロ野球始まって以来の日本シリーズパーフェクトピッチングという歴史的偉業達成の場面の立会人としての期待を、またその偉業の可能性を、一人の監督の意思で抹殺してしまっていいものか。
A逆に極端な言い方をすれば、限りなく可能性があるならむしろプロ野球監督はその偉業達成の推進役としての義務があると言っても過言ではないのではないか。
B1点リードしているのであるから、仮に山井があのまま投げて先頭打者にホームランを打たれても同点だ、優勝の可能性は限りなくある。落合監督の采配に結果論で賛成の評論家は、最終回にまるで山井投手が打たれて負けるような言い方をしているようだがおかしい。
まして中日は日ハムに3勝1敗であった。万が一負けて札幌ドームに戻ったとしても圧倒的に中日有利だし、興行的にもその方がいいのでは。
C最終回、一人目のバッターがHRを含めてランナーに出た時点で代えても決して遅くはない。それに、それまでのピッチングを考えたら打たれる可能性のほうが低い。
Dあの場面で交代した中日の守護神の岩瀬投手は彼の野球人生で今までに経験したことのないものすごいプレッシャーだったと思うが3人をぴしゃりと抑えた。偉い!
E最終回、もし交代した岩瀬投手が打たれれば岩瀬投手より落合監督の方が袋叩きにあうのは確かだ。それを覚悟しての交代指示なのだろうから、落合監督というのはどうも我々凡人の考えの及ばない人だ。
F週刊誌などには優勝しても落合監督続投を球団は望んでいないなどという記事が載っていたりするが、落合監督の不人気の原因の一端が見えた試合だった。
G何はともあれ中日優勝おめでとさん。わが広島カープ、来年は頑張ってちょうだい!
10月31日(水)
安倍前総理
与野党のトップが密室で会談して党首討論もすっぽかし、両方の党内からも疑問の声が上がっているという。
このところお笑い芸人の小島よしおの「そんなの関係ねぇ」のフレーズが妙に気に入っていて、それで行くなら福田総理も小沢民主党代表も国民やマスコミや党内の批判なんか「そんなの関係ねぇ」なんだろう。オッパッピー!の意味が良く分からないが、語呂のイメージから行くとこの二人こそオッパッピー!だよ。
マスコミは当然この密室の党首会談を取り上げているのだが、それはそれとして、気になるのはすっかり忘れられてしまった、この間まで日本国のトップにいた安倍前総理だ。
総理大臣を辞任し、入院したところまでは報道があったが、最近は全く報道されていない。いくらあまりの唐突なやめ方で批判されるべきとは言っても前総理だ、病状の報道ぐらいあってもいいのではないのか。
病状どころかすべての情報が伝わらないのか、それとも前総理の現状など報道する価値もないから取材もしないのか、それも含めて報道すべきではないのか。
安倍前首相の消息やいかに?
10月29日(月)
A判
わが印刷業界では他の業界と同様、例によって石油を始めとする原材料の値上がりによって(と、製紙業界などでは言っている)、あらゆる印刷関連材料も一方的な大幅な値上がりが続いていて、お得意様には印刷製品を安易に値上げすることも出来ず苦闘している。今のところは人件費を削って何とか対処しているが早晩こちら側も値上げをしなければやっていけないところまできているので、お得意様にはぜひご理解を頂きたい。
それはともかくとして、地球温暖化防止や地球環境保護の観点から、国際規模の取り組みやら個人で出来る取り組みやらをいろいろと政府やマスコミも具体的に提唱している。印刷業界では再生紙とか大豆油インク使用とかが関係しているのだが、市役所などでは最近は印刷物発注に関して、紙質は必ず再生紙、インクは大豆油インク使用という条件をつけている。再生紙などはそれに使用する薬品が却って環境破壊を起こしているという意見もあるし、再生紙のほうが高価なので何が何でも再生紙というのは疑問もあるが、当然各社とも条件通りの仕様で印刷をして納めている。
また、必ずもうひとつ仕様条件があって、それは紙の大きさ、寸法だ。いつの頃からか、役所で使用する用紙はすべてA判になった。例えば分かりやすくいうと、A4というのは29.7×21cm、B4というのは36.4×25.7cmだ。B5がB4の半分だから25.7×18.2cmだ。つまりA4はB5よりひとまわり大きい
かつては用紙や本の大きさはその文字数やページ数、体裁、デザイン等々を加味して最適な寸法を決定していたのだが、今では文字数が少なくても何が何でもA判だ。一枚の市役所から来る通知も内容が数行だろうが数十行だろうがA4だ。当然それに関連した封筒などもひとまわり大きいA判が入る大きさということになる。
これは非常に無駄だと思うがいかがだろうか。細かく日常生活の無駄を省きましょうと言っている役所が、率先して無駄を推進しているように思えてならない。
それに、長年慣れ親しんだせいか、なんとなく間延びして締りのないA判よりB判の方がいまだにスッキリすると感じるのは私めだけだろうか。文章なども今は横組み全盛だが縦書きの方が読みやすい。この欄は仕方なく横書きだが、あとで読み返してみて読みづらい。
国際標準何とかやらでA判にしているということを聞いたことがあるが、市民が使う印刷物に国際標準?そんなの関係ねぇ、それより節約だ、オッパッピー!(いいねえ、このフレーズ)。
10月18日(木)
亀田バッシング
相変わらずテレビでは亀田関連報道を流しているが、おいおい調子良すぎるぞと思えるのがTBSの一転亀田バッシングだ。これについては各方面でメディアのあり方とは?といった捉え方で批判を受けている。
戦時中の大本営発表の時代から、結局メディアは自らの信条はどうでもよく、特に現代では自社が儲かればどんな事でもするといういい例だ。技術のないボクサーをヒール(悪役)として売り出し、芸のない芸人を低俗番組で売り出す。売れなくなれば使い捨てだ。そんなメディアに騙されているオイラ達も情けないけどね。
これがまだスポーツや芸能だからいいが、より大きな問題の場合、われわれ国民はメディアに騙されないと言い切れるかどうか、恐ろしい。
俗悪番組だろうがミスマッチのタイトルマッチだろうが「そんなの関係ねえ!視聴率が稼げりゃいいのさ、オッパッピー!」なんてね。・・・・あぁあ、やっぱり毒されてる。
さて、そんなテレビは、世間で一大騒動になったこの亀田一家の注目度を今後利用しない手はないとばかりに、今度はヒールでなく品行方正、謙虚、礼儀正しい、言葉遣い丁寧、相手を尊敬する、要するに今までと180度違ったボクサーとして売り出すに違いない。それで本当に実力がついたらこれまた騙されやすい我々国民は拍手喝采なのである。何しろオイラ達にはあのめちゃくちゃな態度が脳裏に刻まれているから、最初は「ホンマかいな」なんて懐疑的に見ていてもそのうち強くて礼儀正しいとなると以前の反動の反動でまたまた今まで以上に応援したくなっちゃうというね。
「バッシングにもめげず、悪から立ち直って立派だ、感動した」なんて絶叫する総理も出てくるかもしれない。オイラはもちろん最初から超毛嫌いしていたのでどんなことがあっても応援しないけど。
大体、あの辰吉丈一郎あたりからボクシングもプロレスまがいのショー的要素が強くなって低俗になってしまったのだよ。まあ、それは置くとして、大相撲の千代大海なんて力士も若い頃の悪(ワル)を売りにしているところもあるし、俳優の宇梶何とかいう人もかつて暴走族の長だったという、そういうのをもてはやす風潮が日本にはあるのだ。もちろん更生するのがいけないと言ってる訳ではないが。
TBSはさすがにそんな売り方はいまさら出来ないだろうから、他の局が亀田一家の処分が明けたころから触手を伸ばすんじゃないのかねえ。
10月12日(金)
WBCタイトルマッチ
木村隆秀衆院議員
宝くじは買わなければ当たらない。ボクシングも手を出さなければ当たらない。こんなことは小学生にでも分かることだ。だが18歳の亀田君には分からないらしい。パンチを出さず、ひたすらガードを固めて前進するだけで勝てると思っていたのだろうか、それが不思議だ。
素人目で見ても亀田選手のボクシングはまるで技術が未熟で、ボクシングのイロハが分かってないのではと思えた試合だった。大体挑戦者がガードを固めて突進し、一発パンチでチャンピオンを倒そうというのが間違っている。挑戦者のボクシングではない。ジャブで相手を牽制し、隙あらばワンツーパンチ、さらにガードが甘くなったところをボディ、アッパー、フック、・・・そんなにうまくいくはずないか?いずれにしても倒すか倒されるかの試合運びをしないと
老練なチャンピオンには太刀打ちできない。それとも亀田サイドは今回のタイトルマッチは大毅選手のガードがどれだけ有効かだけを確かめるための試合だったのだろうか。んな訳ないよね。
真剣スポーツらしからぬ亀田サイドのいつもの見苦しい態度や、反則は他のメディアがさんざん言っているので省略だが、あんな未熟一家を売り出しているTBSとそれを応援している人たちの気が知れない。


9日、愛知5区選出の木村隆秀衆院議員(52)が次期衆院選不出馬を表明した。
自身がおとなしく受身で政治家には不向き、普通の生活に戻りたい旨引退の理由を会見で明かしている。
氏は現在4期目で。過去防衛副大臣などを務めて自民党の期待の星だったらしい。確かに氏の名前は初めて聞くので、舛添氏などと違って目立ちたがり屋でなく控えめな性格なのであろう。同僚の彼に対する評は、人が良く気が弱いところがあるまじめな人ということだ。
各テレビでもこのニュースを取り上げていたが、それならなぜ今まで議員をやっていたのか、というような非難する論評がほとんどだった。しかし、そうなのだろうか?特に酷いのは日テレの、わが中学の後輩辛坊治郎氏のコメントで、歳費を返せ!とまで叫んでいた。言い過ぎだよ辛坊君。
木村氏は過酷な選挙戦を勝ち抜いて多分スキャンダルにまみれることもなく今まで与えられた仕事を全うして来たのであろう。マスコミも今のところ何らかの不正が原因での引退とは報じていない。
また氏は、郵政民営化に関して、先の総選挙においては早急な民営化には反対だったのだが、党の方針に従ったと述べて本意ではなかったことも明かしている。
現職政治家が次の選挙に出る出ないは全くその人の自由で、マスコミからとやかく言われる筋合いはない。むしろこういう人が自ら政治家に向いていないと言わせる政界がおかしいのではないだろうか。
とかく政治家は他人の意見を聞かない自己中心的、いけいけドンドンの顕示欲旺盛な人が多い。そんな人でなければやっていけないような政界のほうがおかしいのだ。どんな世界もいろいろな人がいていいので、木村氏のような性格の人も政治家として国家国民のために働いてもらわなければいけないと思うのはオイラだけだろうか。
参院選で大勝した民主党小沢代表は、テロ対策特別措置法に基づくインド洋上での給油活動に関連して、ISAF (International Security Assistance Forse=国際治安支援部隊)への自衛隊派遣は憲法違反ではないと主張している。一方の自民党は、武力行使が伴うので当然憲法違反であるという主張だ。これは明らかに小沢代表の主張に分がないと思う。しかもなんと小沢代表はこれは党の主張であって、これを認めない人は離党せよとまでの暴論を吐いている。しばらくおとなしくしていたので小沢氏も変わったのかと思っていたら、参院選に勝利して舞い上がったのか早速これだ。民主党は敵失でやっとの思いで勝利したのにこれでは国民からしっぺ返しを食うであろう。
その小沢氏が最も政治家に向いているということだとしたら、その性格は専横、高圧的、独断、自己中心的、人の意見を聞かないということなのだから、どう考えても一般国民とは相容れないではないか。
また、今週号の週刊現代に、わが埼玉9区選出の大野松茂官房副長官の土地と金がらみのスキャンダルが載っている。この大野氏に限らず、政治家は一般国民と恐ろしく生活感覚が違う。昨今それで政界が問題になっているわけである。木村氏がどうなのかは分からないが、人が良く気弱でまじめな性格の人が政治をやれば金がらみ他、スキャンダルは今よりは減少すると思うのだが。
9月13日(木)
安倍首相辞任表明
8月28日のこの欄で、安倍改造内閣を 「お坊ちゃんに始めお追従そのうちいざとなったらお坊ちゃんをほったらかしてさっさと逃げてしまう内閣」と長ったらしく名づけたが、とんでもないどんでん返し(っていうのかな?)が待っていた。まさか首相の方が逃げだしてしまうとは思わなかった。

「シンちゃん、今がチャンスよ、今手を挙げれば絶対ピッチャーでキャプテンになれるわよ。あなたのお父さんはなれなかったけど、あなたならなれるわよ。」と母親から言われたシンちゃんは自分の実力ではまだちょっと早いかなと思ったけれど、言われた通りにしたらチームのほかのメンバーも下手な選手ばかりだったのであれよあれよと言う間にエースでキャプテンになってしまった。
チームのメンバーも「まあいいや、お坊っちゃんに任せておけば何とかなるだろう」と軽い気持ちでキャプテンに選んだのだった。
ところがいざ試合になってみると対戦相手は予想通りとはいえかなり強く、結局シンちゃんはボコボコに打たれ、チームはコールド負けしてしまった。
その結果、チームメイトは「これだけ打たれたんじゃ、もうピッチャーをやるのは無理だぜ」と言うし、対戦相手からも「これではキャプテンも務まらないだろうなあ」と同情さえされる始末であった。
ところが当のシンちゃんは「やだぁ、やだぁ、まだキャプテン辞めたくなーい、ピッチャーも続けるもん。打たれたのは僕のせいだけど、このチームは僕のチームだし、このチームでボクちゃんのかっこいいボーイズリーグを作るんだぁ。」と言い張り駄々をこね泣き出す始末だった。
「そんなこと言ったって、次の対戦相手はもっと手ごわいぜ、また打たれて負ける前にやめた方がいいよ、そのほうが君の為だし、チームの為でもあるよ」とメンバーはチームの将来を考えて言うのだが、シンちゃんは「やだ、やだ、絶対やめないもん。隣町のヤブちゃんだって打たれてもやめないし、お約束だってあるんだもん。」と取り付く島もない有様なので、「本人がああ言い張ってやめないと言ってるんだからしょうがないよ」とみんなはあきらめ顔だ。
さて、チームは仕方ないので「まあいいや、お坊っちゃんはわがままだから。さあ、気を取り直して次の試合頑張ろうぜ!」と張り切って試合に臨んだのだった。
シンちゃんも泣き止み、いざマウンドに上がったまでは良かったが、そこで予期せぬことが起こった。シンちゃんが何を思ったのか、突然マウンドを降りてしまったのだ。そして「えっと、僕やっぱりピッチャー降りる。キャプテンも他の人に任せるから後よろしくね。」と言ってさっさと帰ってしまった。
シンちゃんは「ママ、ただいまー、ピッチャーもキャプテンも辞めてきちゃった。みんなといろいろ約束したこともあったけど、後はどうでもいいよね。」
(この話はフィクションです。登場人物は実在ではありません。)

至れり尽くせりで育った世間知らずのお坊っちゃんの気まぐれな行動は結局取り返しのつかない結果を招き、怖い。
安倍総理の記者会見では、テロ特措法に基づく給油云々の自分が勝手に決めたいわゆる国際公約の話は出たが、国民に約束した自分の内閣で完全解決すると大見得を切った年金の話には一言も触れなかった。記者もそのことを質問する者もいなかった。
今の政権もマスコミも国民のほうを向いていない
永田町の常識は世間の非常識とは言っても、さすがの永田町も今回の唐突な辞任劇には面食らっているようだ。安倍氏は判断能力も著しく減退しているようなので、もしかしたら心身ともに相当の重病かも知れない。松岡農水相の例もある、側近は気をつけた方がいい。
9月12日(水)
舛添厚労相の名
仕事柄誤字にはかなり気をつけているつもりで、特に人名には気を遣う。漢字入力が変換という方法になってからは思いもかけぬ誤字をそのまま遣ってしまったりする例を他でも散見する。文章は大抵の場合一文字一文字を確かめて読まず、さらりと読み流してしまうので似たような誤字は気がつきにくい。
このコラムの文章も、内容はともかく誤字にはかなり気を遣うので当然何回か読み返すのだが、それでも間違いは起こる。
下の8月28日と31日の欄に舛添厚労相を桝添としてしまった。「ますぞえのますは木偏がないんだよね」と娘から指摘されて分かり慌てて直したのだが、天下の厚労相の名前を間違えるとは恥ずかしい限りだ。
何年か前、ある政治家の政策ビラを印刷した際、その中の文章で今の首相の安倍氏を安部としてしまったことがあった。安倍氏が売り出し中の頃で、もちろん今よりは有名ではなかった。原稿が安部となっていたのでオペレーターはそのまま打ってしまったのだが、依頼主も当方も何回となく校正をしたのだが誰もその間違いに気がつかなかった。こういうものは印刷が仕上がって配布されてから気がついたり他から指摘されて初めて気がつくことが良くあることでその時もそうだった。
私めの名前など宛名の半分くらいは吏でなくになっている。もうとっくに慣れているから「ああまたか」という感じである。島アのも戸籍上はではないのだがこれは自分でも崎と書いたりしているので全然拘ってはいない。
ところで舛添要一氏の公式サイトは「ますぞえ要一」となっていて、舛添の漢字は下のほうの著書の名で小さくちょこっとしか出てこない。カッコつきで大きく出したらどうでしょうかねえ。
9月10日(月)
職責
日本国首相の安倍氏は、11月1日に期限が切れるテロ対策特別措置法に基づくインド洋での海上自衛隊の給油活動の継続問題に関し「職を賭して取り組んでいく」と表明した。その上で「職責にしがみつくということはない」と述べ、活動継続のための法案が臨時国会で成立しなければ内閣総辞職する意向を示した。
いつものことだが、安倍氏はどうも言葉の意味が分かっていない。それとも十分分かって使っているのだろうか。
首相の言う「職責」とは当然職務上の責任ということであるから、首相としての職務上の責任はきっちりと果たしてもらわなければ困るのである。たやすく首相の職務上の責任(簡単に言うと、日本国民を幸福にする責任)を放棄してはいけないのである。つまり、首相の職責は何も対米を主とする外交に限ったものではなく、どちらかというと日本国内に向いてもらわないと困るのである。
安倍坊ちゃんのいつもの語彙理解力不足で「職権」の意味で使ったのなら、職務を行う上での権限にしがみつかないということなのでそれならまあ納得はする。
しかし実はその言葉の問題は大してことではない。問題は、首相のいわゆる職責が明らかに日本国民に向いていないということだ。
先の参院選で国民は明確な形で安倍氏にノンを突きつけた。格差や年金の問題で、安倍自民党政権には日本を任せられないと国民は判断したのだ。その結果を見た上で安倍氏は本来なら即刻辞任すべきなのに居直った。
しかるに(この言葉も近頃使われなくなった…感慨!)安倍氏はまさしく対米重視で、大多数の日本国民には直接関係のないインド洋上での給油が継続できない場合は辞任するという。
日本国民の現実の生活には責任を取らないで、米国の要請には責任を取るというのは順序が違うと思うがいかがか。
9月3日(月)
文春の姫退治
下の欄で工事用一方通行信号の件を書いたら、関係者が読んだのか、昨夜通ったら信号が点いてなく、ガードマンのみで一方通行整理をしていた。ところがあわてて処理したらしく、よく見ると信号にベニヤ板のようなものが張ってあって目隠しのようになっているだけで、ベニヤ板の隙間から信号が点灯しているのが見え、ただ隠してあるだけのようだった。点灯している信号を隠しても無駄には違いないような気がするんですけどねえ。

安倍坊ちゃん改造内閣が新農相辞任で早速失態をやらかした。こうなると、本当は安倍氏本人にもかなりのスキャンダルがあるのだが、安倍首相を守るため目くらましに他の人の不祥事をわざと出しているように見えなくもない。それほどして安倍氏を守る理由とは?
大臣を辞任するくらいなのでかなりの悪事に違いないと思うが、それでは、大臣を辞めれば一件落着でいいのか。大臣は辞めなければいけないが議員を辞める必要はないのか。
松岡氏の件は大臣や議員はおろか自ら命を絶つほどの一大事であった。それでは絆創膏大臣や今度の、えーと、遠藤農相はただ大臣を辞めればああそうですかご苦労さんで不祥事は不問に付されてしまうのか。
各政党は具体的に罪の軽重を一覧表にして、この不祥事は首相辞任、これは大臣辞任、ここまでやれば議員辞職、さらにこのスキャンダルは人間辞任とか国民に分かりやすくしてくれれば判断のしようがあるのだが。

参院選でボロ負けした自民党ではあるが依然として政権党であるから権力は侮れない。早速民主党のか弱い姫のスキャンダルを暴き始めた。選挙に出るくらいだからか弱いかどうかは疑問もあるが、当選したてのまだ右も左も分からないであろう新人議員の選挙前のプライバシーを暴くなどとはえげつない。
いや、暴いたのは自民党ではなく、週刊文春でした。そのネタ元が元不倫相手の元高校教師だ。
本文を読んだが、はっきり言ってこの男性、男の風上にも置けないやつだと思う。男性もインタビューで認めているが、姫に対するやっかみもあると。しかも閨房の男女の睦言や行動までも暴露している。読んでいて不快感を感じた。男も女もかつての浮気や不倫相手や愛人からあることないこと二人だけの寝室での会話や行動を暴露されたらたまらないと思っている人はたくさんいるのでは。
男は黙ってかつて愛した女の幸せを願い、国家国民のために尽力する元愛人を心の中で愛おしく思えばいいんだよ。それを振られたから悔しいって、情けないねえ。文春ももしこのスキャンダルに問題があるなら、姫井氏が大臣になって膨大な権力を握った時にこそ載せるべきなのだ。
愛読者としては文春はこの男性に取材費をいくら払ったか知りたいところである。
週刊文春は東スポではない。メデイア権力の横暴を自戒すべし。
8月31日(金)
無駄
長野県で県道沿いの崖から巨大な岩石が防護ネットを破って崩れ落ち、車で通りかかった母子が負傷したが、幸い奇跡的に命に別状はなかったという。
私めはこのところ夜一日おきに国道411号線を通って奥多摩町まで行っている。9月9日に行われる小河内神社の例大祭で奉納される獅子舞の練習のためだが、この道は多摩川沿いに蛇行していて、長野の県道と同様すぐ脇が崖の所が多く、防護ネットが張ってあるが大きな落石でもあれば車などひとたまりもないという所ばかりだ。山のすぐ脇に道路があるのは狭い日本の急峻な山間地の地形の特色上仕方ないのだが、大雨が降った時など通るとやはり怖い。
そんな道だからかなり頻繁に崖崩れや落石があって、現在も通る所2〜3箇所が工事中で、片側一方通行に規制されている。
かなり長い間工事中の一方通行規制が続いているが、昼間通っても実際の工事は行われてなく、放置しているだけのようだ。土木工事の専門家ではないのでもちろん詳しいことは分からないが、一定期間放置しての雨降って地固まる式の様子見なのだろうか。
その無駄に長いような工事期間の税金の使われ方も気になるのだが、実際に税金の無駄遣いだと思われるのが工事区間の両側に立っている交通整理のガードマンの存在だ。普通の考えでは、ガードマンは工事箇所の信号のない一方通行で両側で互いに連絡しあって車の通行を指示するものだろう。
ところがいつも通る工事箇所の一方通行には両側にガードマンがいて、しかもきちんと信号も設置してありもちろん作動しているのだ。車は信号に従って通行するのでガードマンは何にもすることがなくてただダラダラと照明点滅棒を回したりしているだけだ。夜の田舎道(大体いつも帰りは10:30過ぎに通る)なので通る車も少なくてもちろん渋滞などはないから彼らが例えば信号より優先して上りの車を長い時間通そうとかということは全くない。たぶん彼らも信号に従って一晩中照明棒を上げ下げしているのだろうと思う。2人の人件費が全くの無駄である。あるいは信号灯の無駄である。
その工事箇所の下方にもう一箇所工事箇所があるのだが、そこは先の見えないカーブ区間にもかかわらず信号はなく、両側でガードマンが一方通行整理をしている。もちろん信号機がなくても車はスムーズに通行している。
411号線はかなり頻繁にあちらこちらで工事が行われるが、国道だからか、東京都だからか、他の道路よりいつも工事期間が長いように感じる。
今のところ国民の期待大らしい舛添厚労相、国土交通相も兼務したらどうだろう?
8月28日(火)
お坊ちゃん盛り立て内閣
安倍改造内閣が発足した。各マスコミは例によって新内閣のネーミングを行っているが、前回の「お友達内閣」のようなぴったりしたネーミングができず、難しいようだ。
そこでこのコラムも戯れにネーミングに挑戦。とは言ってみたものの確かに難しい。ネーミングは短い言葉でその内閣の性質や本質をピタリと言い表さなければいけないが、これがなかなか難しいのだ。
お坊ちゃんに始めお追従そのうちいざとなったらお坊ちゃんをほったらかしてさっさと逃げてしまう内閣」って、これじゃあネーミングにならないか。
今度の閣僚は年長者が多いと思っていたら、前内閣より平均年齢はわずかながらも若返ったらしい。それでも首相より若い人はただの一人、あとはかなりの年長者が多い。党の三役を入れても年少者は二人のみだ。年功序列型社会が長い間続いた日本では、組織やチームは他のメンバーより指導者が若いとなかなか結束せず、維持しづらい。
民主党の前代表前原氏もそうだった。若ければいいというものでもない。圧倒的実績があれば若くても年長者はそれに従う傾向があるのは当然なのでうまくいく例も多いが、実績があるのかないのか分からない指導者が若過ぎると組織はうまく機能しない。安倍晋三氏はその実績があるかないのか良く分からないで首相になった例ではないのか。閣僚経験ゼロだったし、北朝鮮拉致問題も実績と言えるのかどうか。
ちびまる子ちゃん」の花輪君のようにお坊ちゃんだからとりあえずお追従をしておこうと。
だから今回の改造内閣のメンバーも、大臣になりたいのは当たり前なので、とりあえずはメンバーになっておこう、いざとなったらやめてしまえばいいやと。実際、したたかな「マダム寿司」小池氏などは改造が行われる前にさっさとやめてしまった。だからネーミングを短くすれば「年長者お追従内閣」かな。
次に、あれだけ安倍氏を批判していた舛添氏がそそくさと、待ってましたとばかりに入閣したのにも驚いたので、桜塚やっくんふうに、舛添君「がっかりだよ!内閣」。
今回の組閣・党役員人事では改造前から辞退者がいるらしいと言われていて、報道では古賀元幹事長などがそうらしい。就任した人や心待ちした人はかなり報道されているが、辞退者はあまり報道されない。安倍氏の批判勢力でもそうでなくても辞退者を知りたいので、「辞退したのは誰だ内閣」。
いずれにしても記者会見での国民への視線はいいから、国民の目線で政治を行ってほしいものである。
8月24日(金)
東京新聞万歳!
わが母校の同窓会新聞の制作に当たり、2007年5月27日発行の東京新聞昭和35年当時の池袋駅西口の写真が掲載されていたので、東京新聞の許可を得るべくその写真と記事を転載したい旨電話した。
結論から言うと東京新聞は驚くべき寛容さで(それが当前だとは思うが)対応してくれて、申込用紙に必要事項を記入してFAXしたら、同窓会新聞に使用ということなので転載使用料は無料、しかも制作した新聞紙面の後送も不要ということだった。
2005年8月23日のこの欄に書いたが、夏の高校野球地区予選の記事と写真を転載するのに朝日新聞と毎日新聞から5250円を請求された。振り込み手数料もこちら持ちだった。この2紙の方が驚くべきがめつさと言ったらいいのか。
この2紙に比べて東京新聞は社会の木鐸と言うに値する立派な新聞だと思う。同窓会新聞の公共性と有用性を認め、徒に金銭を請求しないという態度は立派だと思う。
この考え方が新聞紙面作りにも生かされているように思う。東京新聞の記事は他の3大新聞よりもはるかに市民寄りで反権力の姿勢がより表れていると思う。社会の木鐸たる所以である。
東京新聞はお奨めである。
8月23日(木)
1球の重み
仕事中だったので残念ながら佐賀北高校対広陵高校の歴史に残る決勝戦は見られなかった。これぞ野球の魅力といった奇跡とも言えるドラマがあったらしい。佐賀北優勝を讃える数々の記事やニュースが氾濫しているのでそれは置いておいて、ここは運命の一球について書こう。
8回裏1死満塁で佐賀北の打者のカウントは1ストライク3ボール。広陵野村投手の投げた5球目は真ん中低めのストレート。ここでフルカウント、走者満塁のままと誰もが思った瞬間、なんと審判の判定はボール。かくして押し出しの1点が入り、その後の逆転満塁ホームランを呼ぶのであった。
この1球がストライクだったらその後の展開は総て変わっていたかもしれない。
審判の判定は絶対か?この判定については広陵の監督が批判し、「教育者として言う権利がある。誰が見てもおかしい。監督をやめてもいいくらい悔しい」と言っている。
試合を見ていたわけではないのでもちろん状況は分からないが、ニュースで一瞬その疑惑のボールを見たが、確かにあれは誰が見てもストライクだろう。(試合を見た人に後で聞いたら疑惑の判定は1球だけではなかったらしい)
高校野球はトーナメントなのでプロ野球のリーグ戦と違って、一度負ければそれっきりだ。だから何とか点を取ろうとして初回から無死や1死で塁に出ると送りバントをする確率が高いのだ。
現役時代は多くのホームランを打ち、打つ野球の醍醐味を存分に味わわせてくれたミスター赤ヘルと言われたあの山本浩二が広島の監督をしていた時、なんと初回から送りバントを命じていたことがあった。残りまだ100試合以上もある前半戦にである。それで広島戦は見なくなった。プロ野球が高校野球並みの試合運びをしていては何の魅力もない。
それはどうでもいいことだが、高校野球にとってはそのくらい1点や1ボール、1ストライクは重い。あるいはこの1球がこの試合に出ていた選手の将来を決めるかもしれないと言ってもいいほどだ。
だからと言って、この主審があるスポーツのように故意に疑惑の判定をしているわけはない。当然審判もすべて正しいジャッジをするとは限らないし、それはそれで仕方ないこともあろうが、それでも誤判定された方はたまらない。肝心なのは高校球児がその誤判定に対してある程度納得するかどうかではないだろうか。
選手が100%納得するのは無理としても、この場合少なくとも監督は審判に確認の抗議をするくらいは許されてもいいのではないか。よく分からないが、どうも高校野球は抗議はまかりならぬとなっているらしく、たまに単なる確認に行くことがあっても確認して抗議することは皆無のようだがそうなってはいないのだろうか?
今回の場合も投手は大いに不満を持っていると思われたので、少なくとも監督は多少の抗議はして投手の気持ちを共有する場面を作ればよかったのではないか。もし抗議が許されないとしたら確認の意味で審判に訊くことぐらいはしてもいいのではないか(見ていなかったので分からないが、それをしたのかな?)。その短い間(ま)があるいは次の満塁ホームランを呼ばなかったかも知れない。
もちろんこのことが佐賀北の素晴らしい栄光をけなすものではないことは断っておこう。
高校球児の皆さんお疲れ様でした。インターハイのほかの競技も忘れないでちょうだい。
それにしても佐賀北高校には同窓生会館と言う立派な施設があった。それに比べてわが母校には私立でありながら会館はおろか同窓生への厚い待遇もないぞ!(卒業生が寄付しないからかな?)
(わが母校は東東京大会4回戦で帝京とあたり、なんとあの大田、垣ヶ原投手から7点も取ったのだ。15点取られて負けたけど。健闘を讃えます。)
8月7日(火)
インターハイ
全国高校総体(インターハイ)が佐賀県で行われている。知人の高校教師がそれに関わっており何年か前は岩手や京都や茨城まで旅行を兼ねて一緒に行ったものだ。今年は佐賀県なのでさすがに遠く、私はとても行けなかった。しかも今年はその知人が指導する生徒が出場するというので、彼はもちろん物見遊山どころでなく、ひそかに全国優勝を狙っていたのだ。その指導する生徒がなんと本当に優勝してしまった。埼玉県立飯能高校赤羽君三段跳びで記録15.15m。2位以下を31cmも引き離しての見事な優勝だ。予選では他の選手の15.30mという記録があったようだがそれは予選通過記録にすぎず、決勝での逆転優勝だ。
このインターハイのマスコミの扱いが極端に小さく少ない。
甲子園の野球は春が毎日新聞、夏が朝日新聞というよう主催する新聞社が違ってくるが、多少の扱いの違いはあってもどの新聞もテレビも各県予選の段階からかなり力を入れて報道している。
インターハイも主催する新聞社があるのだろうか。それにしても野球に比べて扱いが小さすぎる。競技種目も多いのですべてを大々的に取り扱うのは不可能なのは分かるが、もう少しページを割いてもいいのではないか。
この飯能高校の選手の優勝も東京新聞ではスポーツ欄の一番下にちょこっと載っていただけで、かなり注意して探さないと見落としてしまうほどだ。他の新聞ではどうだろうか。
ただし東京新聞も女子100障害の寺田選手と3000mの絹川選手の優勝は割合大きく扱っていた。
今後の私的な心配は飯能高校K先生の鼻高々な態度だ。実績は認めるよ。勝って兜の緒を締めよ、実るほど頭をたれる稲穂かなだよ、K先生、分かった?
まあ、とりあえず帰埼玉の折には祝杯を挙げてやろう。
8月6日(月)
広島平和記念式典
民放テレビは相変わらず広島平和記念式典の扱いがほとんどない。年々少なくなっている。午前8時からの記念式典を中継していたのはNHKのみで、他の局は朝青龍や安倍政局や他の話題を流していた。TBSテレビがおざなりに黙祷の模様のみを録画で流したが、式場ではその時にはわが首相が政府を代表して挨拶をしていた。
わが入間市においては8時に防災放送を通じて、本日は広島への原爆投下の日であり、8時15分に黙祷をと協力をお願いしていた。
久間前防衛大臣が原爆に関して暴言を吐き各方面から批判が出ると、待ってましたとばかりにバッシングを続け、辞任すると鬼の首を取ったように騒ぎ立てるにもかかわらず、25万人もの命が失われているその原爆が投下された日の平和を希求する式典も中継しない民放に喝だ!
朝のワイドショーの司会やコメンテーターと称する人たちは8時15分になったらみんなで黙祷したらどうなんだ。
その式典での秋葉広島市長の平和宣言は相変わらず落ち着いてはっきりと格調高く、子供代表の誓いの言葉もそれなりに平和を求める気持ちがよく現れていたと思うが、安倍首相の挨拶はどうも良くない。彼の言葉は聴く限りにおいては心からの言葉とは感じられない。ぶら下がり取材も選挙前に各局に出続けた時の言葉も、記者会見も国会答弁も平和記念式典の挨拶もみんな同じで、早口で抑揚がなくペラペラと品格というものがないように思う。
秋葉市長の平和宣言と子供代表の誓いの言葉の後だったので余計そう感じてしまう。これは、安倍内閣の支持率が22%に急落ということで、坊主憎けりゃ袈裟までの類ではない。もう少しゆっくりとはっきりと話せないものか。挨拶文の文章を手に持ち読み上げるのだから、そうできるはずなのに、早く終わりにしたいと思っているように取られてしまう。
そういえば小泉さんもそうだった。
8月4日(土)
お約束
阿久悠氏はNHK教育テレビの人間講座の中で、「作詞に際しては言葉がみずみずしく、弾力を持ち、かつ説得力を備えることが重要だ」と言っている。
津軽海峡冬景色」で “上野発の夜行列車 おりた時から 青森駅は雪の中”という2行で600キロを移動させることができたと自賛している。またある人は、“私は一人”でなく、“私も一人”と、「は」を「も」としたことで情景がぜんぜん違ってくると言っていた。
さらに、氏はある場所で、最近の大衆歌謡は詞は二の次で曲を重要視しているのでそれを元に戻さなければいけないというような意味のことも語っている。
日本の社会の風潮がだんだん言葉を大事にしなくなってきて、あらゆるところにその弊害が出てきているのは歌謡曲をはじめとするヒット曲がその時限りで長く生き残れないということと軌を一にしている。言葉を大事にするということは単に美しい単語を並べればいいということではなくて、その言葉が生きてこなくてはいけない、つまり行動が伴わなければいけないということで、単に言葉を発しただけでは何の意味もない。
最近の政治風土もまさにそのことと無関係でなく、言葉を商売にしているといっても過言ではない政治家があまりにも軽々しい物言いをしている。小泉前首相のワンフレーズポリティックスもその例だし、安倍総理の言動は単にお坊ちゃん言葉を並べただけで、記者の質問が終わるか終わらないうちにペラペラと何を言っているのかよく分からない。
一つの例が“私の内閣のお約束”だ。大敗しても居直っている安倍首相は、事あるごとに国民にお約束したことを実行すると意気込んでいる。
「私の」については7月30日のこの欄に書いた。次は「お約束」だ。「約束」を大辞林で調べると「当事者の間で取り決めること」とある。
マニフェストは政権公約と訳されているので、その政党が政権を担った時にこれこれをこうするという一方の当事者である国民にする一方的な宣言だ。だから選挙で認められないということは当事者の一方が約束してないということになるのではないか。ということは彼の言う国民にお約束したことを実行するというのはちょっとおかしい。
野党も当然マニフェストを掲げて選挙に臨むが、選挙後に野党のマニフェストがそれほど重要視して語られず、政策遂行状況が大目に見られるのは選挙に負けて政権を取れなければ約束が成立しなかったということだからである。
安倍氏の言う“私のお約束”は単に“私の所有する内閣内の取り決め”という意味にすぎない。
政治家の言動はわれわれ大衆のいい加減な言い放しとはわけが違うのだ。
阿久悠と共に政権の悪友グループも去った方がいいのでは!
彼は一緒にしないでくれと言うだろうけれど。合掌。
8月2日(木)
ちびまる子ちゃん
東京新聞の朝刊4コマ漫画が佃公彦氏の「ほのぼの君」からさくらももこ氏の言わずと知れた「ちびまる子ちゃん」に替わって1ヶ月経ったが、どうも前作同様パッとしない。
4コマ漫画は起承転結をそれぞれ1コマしか使えず、その中で笑い、風刺などで読者を納得させなければいけないので大変難しいらしい。しかも毎日なので、いくら数日分を書き溜めればいいといってもかなり大変らしい。
「ほのぼの君」はまさにほのぼのとした漫画だったので、これといった刺激もなく、読後感がだから何なんだという風に感じてしまい、最近ではすっかり見なくなってしまっていた。それがいいと言う人ももちろん多いので、作者が変わって毎朝の楽しみがなくなった人も大勢いることだろう。作者も高齢らしく、時々休載があったりしていたので、7月1日からさくらももこ氏が執筆しているのである。
「ちびまる子ちゃん」は作者の子供時代(昭和)の頃の家族や友達を描いた笑いあり涙ありの漫画で、オイラの子供がまだ小さいころ愛読していたので私自身もよく読んだ。そのころは物語の内容になるほどと言う感じ方より、子供向けコミックであったにもかかわらず、気楽に先へ先へと引き込まれていったことを覚えている。
オイラは非常に涙もろいが、そのいい例がこのちびまる子ちゃんだ。はっきりとは覚えてないが、まる子ちゃんがあるとき友達みんなとかくれんぼをしていて、誰かが草むらに隠れたのだがなかなか見つけに来ない、それでもじっと隠れていたのだが暗くなっても見つけに来ない。実はそのときみんなはその子がまだ隠れていることをすっかり忘れて帰ってしまっていたのだ。そのときの情景や状況の描写といったらなかった。思わずホロリとしてしまった場面だったのである。もちろんその子はやがてまる子ちゃんやみんなや親だかが探しに来て事なきを得たのであったが、確かその時もみんながごめんねとか言う場面があって、そこでまたホロリとさせられたのであった。
そのちびまる子ちゃんがなぜ今の朝刊に連載なのか。ちびまる子ちゃんを今まで知らず初めて見る人には面白いかもしれないが、かつて愛読したことがある読者にとっては内容がかつてのまる子ちゃんと同じなので全然面白くなく、笑う場面があってもいわゆる苦笑の類である。
国民的コミックなので今までちびまる子ちゃんを知らない人はそれほどいないのではないかと思うがそうではないのか。
ストーリー性のある漫画を4コマに圧縮するのは無理があるのかもしれないので、平成版まる子ちゃんとして内容を一新すればいいと思うのだがどうだろうか。
そのまる子ちゃんの同級生にお金持ちの息子の花輪君というのがいる。これがまたいやみなやつで、気障なのでみんなから嫌われているし浮いている。
私めは習慣で新聞はまず1面を読んでから次にひっくり返して最後の面、それからページをめくって社会面の漫画から読むことにしている。ちびまる子ちゃんは7月1日朝刊から始まったのでちょうど安倍内閣がガタガタしているのとタイミングがあって、安倍坊ちゃんって、花輪君みたいだなあと毎朝思う次第である。
もちろん他にもまる子ちゃんには仲間たちがいて、その中に藤木君という子がいる。その子は自分で卑怯だと認めていてみんなもそう思っている。安倍坊ちゃまは藤木君にも似ているのかな。
7月31日(火)
風向きは変わる
今頃一人ほくそ笑んでいるのは誰あろう前首相かもしれない。「やっぱり俺じゃなきゃだめか」と。
今朝のフジテレビの番組で、同局が実施した一般市民に対するアンケートの「安倍首相に変わる自民党の首相は誰がいいか」という質問に、前首相の名前は、一番多い「適当な人がいない」と言う回答の次に多かったと報じていたのである。いまだに人気絶大であることを物語っている。
今回の自民党惨敗の原因に、元はと言えば小泉氏が取った政策で格差が顕著になったことや郵政民営化など幾つも挙げられるのに、それを承知してか知らずか国民は今でも小泉氏にある程度期待しているとはどういうことなのか。国民はバカなのか利口なのか?
彼は報道によるとそれほど自党候補の応援に出向かなかったと言う。
その怨念も含めて安倍氏は頑強に続投すると言っているのかもしれない。
われわれほとんどの国民は政治や、野党はおろか政権党の政策なども、詳しいことはあまり知らず、知らされず、知ろうともしないので、選挙は結局マスコミの意見誘導である程度何とでもなる。
アウトドアで焚き火をする時、その場所の風向きを判断して各自焚き火の周りに座る。煙がまともに自分の方に来ると煙たくて座っていられないからである。時間や場所によって風向きが違い、確かに煙の流れる方向が多い場所はある。しかし、不思議なことに、煙が自分の方ばかり来るので耐えられなくなって座る場所を変えると、今まで一定の方向に流れていた煙が今度はその変わった方に来ることがよくある。
アウトドアの経験則で、「座る場所を変えると煙はそちらに行く」ということがある。煙の来る方向はある程度は経験で分かっても、自然の風向きによって完全にはもちろんどうなるか分からない。しかし必ずいずれ変わるのである。だからたまたまこちらに煙が来たからといってすぐ移動しないでちょっと我慢していればやがて煙は向きを変えるのである。
選挙における民意も同じで、ちょっとしたことが原因で風向きが変わると民意も変わる。ただしこれは人為的に変えられる恐れがあるので怖い。
郵政民営化一本やりで大勝利した自民党は、そうではないのに、すべての政策が支持されたとばかりに強弁し憲法改正手続法などの重要政策を強行採決したのがこれまでの経過だ。
次の総選挙では自民党・公明党は政権を維持するためになりふり構わず行動するに違いない。心ある国民は人為的に風向きを変えられないように注意しなければいけない。
相変わらず期待する小泉って、もしかして孝太郎のことかな?!
7月30日(月)
参議院選挙
「安倍さんがんばれ、負けるな、やめるんじゃない」という少数の声も当然あるのが健全な成熟した社会であるのは理解するが、その当人がそれではといって自らの責任を認めておきながら居直るというのは個人としては成熟した大人ではない。しかも選挙前から負けてもやめないと言っていたというし。
大体今回の参議院選挙で自民党が歴史的惨敗をした原因の一つには、不祥事を起こした大臣なりが責任を取らずにしらばっくれて居座るということもあるのに、安倍お坊ちゃんはどうもそれが分かっていないらしい。♪ひらきなおる その態度が 気にいらないのよ♪と女性には嫌われる例もあるのに。
また、安倍お坊ちゃんがよく言う「私の内閣・・・」のように「私の」は自分の所有する物という事のようで、子供でも分かる所属するという意味があるのを理解していないらしい。わが社のような弱小事業所ならいざ知らず、大会社の社長が「私の会社・・・」と言えばその社長が所有している会社ではなく、所属している会社という意味合いの方が強いのに、日本国首相の言う「私の美しい国」は、日本の国は俺の所有物だと言っているようだ。
かつての家父長制の下では、子供たちが親父の意見に逆らうと、親は「俺がカラスは白と言ったら白なのだ、いやなら出て行け、ここは俺の家だ、親の言うことに従えないやつは子供ではない!」と卓袱台などをひっくり返すということがあったが、そのうち安倍坊ちゃまも同じことを言う出すのではないか、いやもう言っているに等しいか。
民主党にとっては来るべき解散総選挙を考えるとこのまま安倍総理が続投したほうがいいに決まっているので、安倍氏の責任はそれほど追及しないだろうが、国民にとっては果たしてそれがいいのかどうか。しかも選挙はバランス感覚が働くので、次の衆院総選挙で民主党が今度の選挙のように勝つとは限らない。
いずれにしても国民のほうを向いた政治を行ってもらいたいものだ。
一将功ならずして万骨枯る。
小田実氏も死去した。合掌。
7月24日(火)
エチケット
普段は朝から車を運転することはほとんどないのだが、今朝は8時頃市内の10分くらいのところまで往復した。
目的地までの往復はスムーズで、その点ではなんら問題はなかったが、ちょっと気になったことは対向車の運転手のあくびだ。しかも比較的若い女性、それも一人だけではなく、3、4人に出会った。もちろんすべての対向車を見ていたわけではないから分からないが、あるいはもっといたのかも知れない。
なぜあくびと分かったかというと、あれだけ口を大きく開けて真正面を向いて運転していればいやでも分かってしまうのだ。つまり、気づいたのは例外なく手で口を隠さないで堂々と大口を開いていたということだ。
朝まだ眠いうちから仕事やら送り迎えやらさまざまな用で車を運転しているのは分かるが、あくびをするなとはもちろん言わないけれど、最低口を手で覆うなどしてくださいよ、世の女性ドライバーたち。
あくびの瞬間ぐらい片手をハンドルから離すくらいの余裕がなくてはね。
オイラは運転していて、ついその人のあくびが気になり、ノドチンコ(女性の場合もノドチンコでいいんだよね?)まで見えるんじゃないかと心配して運転が疎かになってしまいました。
(ノドチンコって何のためにあるんだろう?)
7月19日(木)
災害
「災害は忘れないうちにやってくる」というのが新しい格言になりそうな昨今の台風や地震だが、被災された皆様には心からお見舞い申し上げます。
今回の新潟県中越沖地震では改めて被災後の問題点がさまざま現出しているようだ。亡くなられた方はすべてお年寄りだし、幸い助かったが一人暮らしのお年寄りで避難所まで行けない方がおり、行政もその人たちまでは手が回らないような報道もされている。
電気、ガス、水道もすべてストップしたが、一番切実なのはやはり水道が出ないことだという。いかに水が大切かということが分かる。今後いろいろな教訓が出てくるのであろうが、被災後の水対策がかなり重要項目だ。
あるニュースで、どこかの湧き水を汲むのに何時間も並んで待っている光景が映し出されていた。そこの湧き水は道路沿いにあり、順番待ちの車の車列が延々と続いていた。塩ビ管が一本出ているだけなので、小さい容器に満タンにするにも相当時間が掛かるらしかった。そこの状況がよく分からないので軽々には言えないが、一般的には湧き水というのは一本の管ですべて湧出がまかなえるというものではない。ほとんどの場合かなりの水量が脇から漏れているものなので、管を何本も使うなどして工夫すれば待ち時間が軽減される。
また飲料には最悪の場合金魚や鯉を飼っている池や水槽の水も利用できるのではないか。炭や砂や布があればそれを使って濾過し、煮沸すればよい。金魚などは汲み置きしない水道水に直接入れると死んでしまうくらいデリケートだ。それが生きている水ということは人間が飲んでもそれほど危険ではないと思う。もっとも、それらが有ればの話だが。そうそう、この梅雨時期は雨水もある。被災者には憎っくき雨だろうがいざとなったら利用しない手はない。もちろん濾過し煮沸して。
浄化槽の蓋を開けて板を渡し、即席トイレにしていた人がいたようだが、なかなかのアイデアだ。空腹は何とかある程度我慢できるがトイレを我慢するのは大変だ。
避難所を避難してテント生活をしている人もいたが、これは大勢の人たちがぎゅうぎゅう詰めされている避難所よりよほど快適だ。しかし、今後天候によってはかなりの猛暑が心配されるがテントは暑さが問題だ。日中テントの中に居なくて済めば問題ないが、それが不可能ならテントの上にテントと密着させずにさらに青シートを張れば直接日光が差さないのでかなり暑さを軽減できるのではないかと思う。
3年前の新潟県中越地震の際にも2004年10月29日のこの欄に他の事も書いたので参照してみてください。
ハイテク時代にサバイバル教書が必要になる日本だが、大局的にみて今回一晩恐ろしいのは原子力発電所の被災事故だ。中国ほどではないと思うが、嘘、偽、捏造、隠蔽、偽装、改竄、不正が当たり前の日本列島では、今回も柏崎刈羽原発では当初発表の被害状況は日が経つにつれて違ってきている。嘘をついているとはもちろん断定できないが、まだまだ隠していることがあるのではないか。炎が上がっている火災を何時間も放置していたのはなぜか?他にやらなければいけない緊急事態が発生していたのではないか?
重大な原発事故に遭っては細々としたサバイバル教書は何の役にも立たない。事故発生以前に完全安全確認の情報公開が必要だ。
それにしても災害が起きる度に思うのは、美しい国日本では災害においても全国津々浦々で格差が広がって、自然災害に遭われたお年寄りたちもが「自己責任」で生きて行きなさいというのが今の日本の現状であるらしいということだ。これでいいのだろうか?
7月13日(金)
誤用
MLBのオールスター戦でのイチローの活躍は素晴らしいの一言では済まないのは分かっているけれど、何やかや賞賛するよりやっぱり一言「素晴らしい」が最適な言葉なのかなと思う。イチロー自身も相当うれしかったらしく、珍しく記者会見でははしゃいでいるところを見せていた。
(今気がついたが、今日は13日の金曜日ではないか。ジェイソンが現れるぞ!あの恐ろしい殺人鬼が小首を傾げるお茶目な姿は笑っちゃうね。今夜どこかのチャンネルで放送しないかなあ。)
イチローが記者会見で、「実は3打席で引っ込むからレストランの予約を入れてあった、そしたらMVPの可能性があるから残っていた方がいいと言われたので試合終了まで残っていた」みたいな事を言っていたけど、オールスターゲームの途中で抜け出す!それって有りなの?あのMLBのオールスターゲームでも、イチローにはその程度のものなのかなと。それともそれがあちらの習慣?そしたら試合終了時にはほとんど選手がいなくなっちゃうんじゃないの?
試合終了まではいて、後のセレモニーにはいないでレストランという意味だろうか、そういう言い方ではなかった気がするけれど。
野球というスポーツにはさまざまな不思議や不合理性があると思うのだが、今回は用語についても。
ピンチヒッター」というのは野球を少しでも知っている人なら分かると思うが、日本の野球の用語では「代打」だ。代打というのは分かりやすい。本来の打者の代わりに打つから代打だ。英語の本来の意味はよく分からないが、ピンチといえばもう既に日本語になってしまっているといっても過言ではないくらいの言葉だ、要するにピンチ。もうお分かりでしょう、あれはピンチヒッターでなく、チャンスヒッターではないのか。それとも、もしかしたら、野球の草創期にはチャンスの時ではなく、本当にこれで打てなかったら負けというピンチの時にのみ認められていた権利なのかもしれない。
しかし、最近の野球では代打は攻撃側ではチャンスの時、守備側ではピンチの時が圧倒的に多い。やっぱりチャンスヒッターでは。
防御率」というのは投手が打者に対していかに打たれなかったかという率だ。というのはやっぱりおかしい。数字が少ないほど成績がいいというのは逆ではないかと思う。
「オールスターに選ばれたが、残念ながら出番がなかった岡島投手の防御率は0点台だから素晴らしい」などと使うが、防御した割合なのだから数字は多いほど成績がいいのではないかと思うのだがいかがか。
打率」はもちろん数字が多いほうが成績がいいのだ。「被安打率」とか「被打率」なら数字が少ないほうがいい成績だと分かる。防御率の英語は調べてないので分からないが、あるいは日本語への訳し方が間違っているのかもしれない。
これは野球をよく知らないわが愚妻に、「防御率って数字が多いほうがいいの?」と訊かれて、そういえばおかしいなあと思ったのだ。
野球の世界ではそれほど目くじら立てて言うほどのことはもちろんないが、政治の世界では法案の名前を内容とまるっきり正反対にするという姑息な事例がよくあるから国民は騙されないようにしないといけない。例えば「障害者自立支援法」は実は「障害者自立阻害法」の方がよかったりする。有事の際に発動されるという「国民保護法」なども「国民抑圧法」とでも呼ぶべきものだ。
7月12日(木)
パソコン故障
6日にこの欄を書いて上書き保存をしたらいきなり画面が真っ白になり、2007年の分が消え、リンクがすべてご破算になってしまった。こんな時のためにバックアップが必要なのかと思った次第でありました。
これ以上いじって更に消えてしまうといけないので、仕方ないので新しいパソコンを購入したのであります。今まで超古いパソコンだったのが最新式ノートパソコンになった。あのどでかい箱に入っていたデータがこんな薄っぺらな物に入ってしまうのかと思うと信じられない感じですね。
幸いハードディスクは無事だったので一応ここの内容も復旧させたが、まだ使い勝手がよくわからない。そのうち慣れるでしょうが、新しくなって使い方を誤り消えてしまったなんてことがないようにしないといけないと思っている。
今日は新しいパソコンの練習なのでここまで。
7月5日(木)
内緒話
昨夜のテレビ番組で、出世魚から取った若者を表わす日本語は何かという問題をやっていた。答えは「青二才」だが、わが首相のことを言っているのかなと思ったらそうではなさそうで、単なる日本語のクイズだったらしい。
団塊の世代から見れば、その青二才の首相が単なる論功行賞で任命した日本の軍隊の偉い人が辞めた。いや、待てよ、任命したのは単なる論功行賞によるものではなかったのかもしれない。どうも総理はかねてからの久間氏の言動を理解し、容認していた節があるからだ。
そもそも安倍首相自らが核武装論者で、官房副長官だった氏は2002年5月に早稲田大学で行った講演で、小型核兵器の所持は憲法に違反しない旨の発言を行っている。どこをどう読んだら日本国憲法が小型核の所持を容認しているのかさっぱり分からないが、そんな首相だから自らが任命した軍隊の大臣を自らが罷免するわけがないのである。
小型核というのが形が小さいから小型なのか、被害が小さいから小型なのか専門家ではないから分からないが、今の技術では形が小さくても性能は広島長崎型と比べたら格段に進歩しているだろうし、被害が小さければ容認するというのももってのほかだ。
各記者は今回の久間氏のしょうがない発言に関して、かつての発言を引き合いに出して首相を追求するのかと思ったらそれはどうもなかったようだ。「今でもそう思っているのか」ぐらいは訊かなければいけない。まあ、しょうがない、記者も青二才ばかりだからね。
政界でも我々市井のただの人の間でも言ってはいけないというのは存在するもので、本音と建前の微妙なニュアンスで人間関係が成り立っているというのは特に我々一般市民においては多い。
わが後輩にM氏という人物がいる。その後輩がこのところ自らの私生活が結構波乱に富んでいる。彼は私のところに来て自分の最近の状況について、「島崎さん他の人には絶対内緒ですよ」と言いつつ結構いろいろなことを話して行く。私は約束を守る男だから、ここでも詳しいことはもちろん書かないし、他人にも話さない。
先日入間市商工会の新旧役員歓送迎会で、私の前の席の人が、「島崎さん、M氏は最近どうなっているの、教えてよ」と訊くので、私はとぼけて「え、何のこと、ああM氏のことね、いつまでの情報知ってるの?」とか何とか言って、「最近のことは分からないなあ」と言って済まそうとした。その後に一言言ったのがまずかった。「内緒、内緒」と。
内緒と聞いたとたん前の席の人は俄然興味を示し、「何よ水臭い、教えてよ、俺絶対他の人に言わないからさ」。この言葉が曲者だ。絶対他の人に言わないまたは絶対他の人に言わないでよが続き、かくして内緒話は殆んどの人の知るところとなるのである。
私めはそこのところをよく心得ているし、本人との約束を守る男であるからして、「教えてよ、他の人には言わないから」という甘い誘惑の言葉を断ち切って、前の席の人についにはつまらない男だと思われたに違いないが、内緒は守ったのであった。偉い、自分を誉めてやりたい。何しろ喉まで出かかっていたからね、M氏の最近の私生活。
たいした話題ではないのだけれど、内緒となると聞きたいのが人情だ。が、言っていい言葉と言ってはいけない言葉は厳然と区別しなければ人の信用は得られない。
本当は言葉でなく、心、考え方、行動のほうが大事だけれど。「汝殺すなかれ」と言っておいて殺したんでは何にもならない。
M君、まだ誰にも話してないからね、次の情報頂戴ね、俺だけに。
P.S 秘密を守るって、結構ストレス溜まるね。ああ、M氏を知ってるみんなに言いたい!
6月14日(木)
Indian
昨夜ケーブルテレビの番組表を見ていたら、9時から「into the west #4」というのがあったので多分西部劇だろうと思ってチャンネルを合わせたら、その通り、しかも製作総指揮があのスピルバーグだった。2005年の映画らしいが、全然記憶になかった。後で調べたらテレビシリーズで、昨夜は全6作のうちの4作目で、「hell on wheels」、邦題「地獄の運命」であった。
アメリカ西部開拓時代の白人とインディアンの対立や鉄道敷設を絡めての人間模様と歴史を描くなかなかの力作、さすがはスピルバーグと思わせる内容だ。
1作目から見なかったのは残念だが、今夜は第5作目、「casualties of war 悲惨な戦争」がある。見逃せない。
このドラマを見ると、アメリカの西部開拓時代からの考え方が良く分かるような気がする。結局それが現代の銃の問題やベトナムや、イラクの戦争の考え方の基になっているようだ。
それはともかくとして、先日はNHK BSでジョンウェイン特集を放映していたが、その中のセリフで「インディアン」と言っているのを字幕は「先住民」と訳していた。昨夜のinto the west でもそうだった。先住民=インディアンなのか?間違いではないとも思うのだが、拙い英語読解力でもはっきりとインディアンと言っているのが分かるのに「先住民」ではどうも違和感がある。それともインディアンという言葉は差別用語なので敢えて先住民と訳したのだろうか。ジョンウェインの映画は古いからともかくとして(日本の映画でも古いものはセリフに差別用語があるが、それでもそのまま放映して断りを入れている)、2005年に作られたinto the west の中でもはっきりとインディアンと言っているのだから素直にそのままの字幕でいいのではないか。原画の中で言っているのだからわざわざ訳し直すのは余計なお世話だ。
(これについて後で調べたら、Wikipedia のインディアン呼び替えの項で詳しいことが分かった。参照してみてください)
6月7日(木)
スポーツウエア
先日久しぶりに「笑点」を見ていたら、小遊三だかが、最近のビーチバレーの浅尾美和人気に触れて、「ビキニの中に砂が入らないか心配だ」と軽口を叩いていた。確かにそうだが、現実には人気が凄過ぎて試合は満員札止め状態、とても観戦できそうもないらしいので、大抵の人はビキニに砂は確かめようもない。砂はいいけれど、パンツを紐で縛ってとめているようだが、あれが競技中ほどけたらどうなるのだろうか。ビキニにスポンサーのロゴが入っているが、脱げても地肌にやっぱりロゴが書いてあったらこれはすごいぞ見上げたもんだ。観戦している人はバレーよりそのほうが楽しみなのではないか。オイラはそうじゃないよ、一応言っとくけど。
本来の実力より、美貌とスタイルのエロ可愛さで人気が出ているのは我々おじさん達にはよく理解できるが、グラビアなどを見ると、あそこまで露出してスポーツする必要があるかなと思えてくる。
演技を採点するスポーツではどうしても見た目の重要性もあるからウエアやコスチュームを工夫したり、顔にべたべた塗りたくってオーバーな化粧をするのも分かるが、審査委員による採点ではない競技で、あんまり露出の多いウエアでは気になって本来の実力を出せないのではないか。
いろいろな世界で男女同権だの男女共同参画社会だのと言われて久しいが、現実はなんだかんだ言っても圧倒的に男性が動かしている方が多い社会だから、スポーツに於いてもその通りで、ということは男が喜ぶようにしているし、選手も渋々だか進んでだか知らないがそれに従っている。
世の女性達の抗議する声が聞こえてこないが、報道されてないだけなのであろうか。
我が家ではスポーツ新聞は取っていないので割合スポーツの扱いは地味だが、プロ野球はやはりいつもトップでもってきている。東京新聞は中日系なので、中日の記事が多いようだ。我が広島は交流戦では負けが込んで、せっかく5割まで行ったのにまた借金生活で、我が家と同じというところなのでアール。
プロ野球はとても色気とは関係ないが、一方でテニスの全仏オープンの記事もあり、こちらはなんと言ってもあのシャラポワの記事が多い。これもおじさん達は良ーく分かる。女子テニスのウエアもまだまだ露出が多くなると思う。ヒジョーに楽しみのねんのねん(先日テレビで放映されていた「嗚呼、花の応援団」の青田赤道の真似)。
さて、そんなことはどうでもいいのだ。今日の朝刊のスポーツ欄には下の方にちょこっと、女子バスケットボールアジア選手権の記事もあった。北京五輪アジア地区予選を兼ねたアジア選手権で、日本は無傷の3連勝、決勝トーナメントに進出とあった。写真も載っていて、さて、これからが核心なのだが、その写真によると、女子バスケのウエアは浅尾美和の超ビキニスタイルと大違い、だぶだぶの半ズボン(呼び方が分からない)だ。浅尾美和の写真はなかったけれど、シャラポワと比べてもまさに月とすっぽん。
別にオイラは良い悪いを言っているのではないが、あれでは熱心な少数のバスケ愛好家にしか人気が出ないのではないか。特に、世の男性諸君の注目を浴びたかったら、もう少し何とかした方がいいと思うのだが。
スポーツ(特にプロ)が見せるものなら、実力があって強くてもある程度は見た目も良くしなくては人気は出ない。ビキニにならなくても、例えば、あの岡本綾子がもう少し額に皺寄せないでいてくれればもっと人気が沸騰していただろうし、不動裕理がもう少し愛想よく振舞えば宮里藍人気に追いつくだろうに。
前にも書いたが、かつてはスカートが翻るのでジャンプさえ禁止されていた女子フィギュアスケートも今では大開脚、これ見よがしに股間を観客に曝け出して微笑んでいる時代になってしまった。しかもそれがまだ小学生ぐらいの選手なんだから、おじさん達はどうしていいのか困ってしまうのである。
陸上競技も臍だしは当たり前、テニスも健康的な色気たっぷりだ。水泳、シンクロ?いいぞ、いいぞ(これはオイラの声ではない)。
冬のスノーボードやスキーのフリースタイルなんかも、今にも落ちそうなだらしないウエアでやらないで、ビキニでやったらどうだ。ビキ二で大開脚、点数アップ間違いなし。スキーの選手がすぐスキー板の裏側を見せるように、ゴールに着いたらすぐロゴマークの入ったウエアを着ればスポンサーも喜ぶぞ。
スポーツもこれからはより観客にアピールし、見せる時代だ。ウエアの面積もどんどん少なくなってくるだろう。嘆かわしいんだか、嬉しいんだか、最後はなんだかよく分からなくなっちゃいました。
(柔道はダメだね。柔道着を掴んで技をかける格闘技だし。あと、入間市でよくやる「なぎなた」なんていうのもダメだろうなあ。いくらマイナーな競技を肌の露出を多くしてメジャーにしようって言っても限度があるしなあ。さあ、みんなでどの女子スポーツが露出オーバー可能か考えてみよう)
5月31日(木)
2人組
大関白鵬が2場所連続優勝を飾って晴れて横綱になった。
両横綱ともモンゴル出身というのは日本人としては寂しい限りだが、日本の文化である大相撲もグローバル化は避けられないのか。いずれにしても何とか盛り上げてほしいものである。
今場所も何番かスポーツニュースで取り組みを見たが、どうも怪しいと思える勝敗があった。といって別にカラんでいるわけではない。大相撲は神事の部分があるとはいえ、プロレスと同じ興行だし、仲間同士で取り組み、それに生活がかかっているのだから仕方ない。それに本当に強くなくてはなかなか打ち合わせ通りには取り組めないし。
これからの大相撲の楽しみ方は、どの取り組みが打ち合わせ通りで(「八百長」とは言わないで)、どの取り組みが真剣勝負かということを予想し、結果も判断するのも面白いと思う。
今までの長い相撲ファン歴から言うと、八百長問題が騒がれなくなると決まって7勝7敗の力士はほとんどの場合千秋楽に勝ち越す
というのが前段で、大相撲はさておいて、問題は一行目に書いた「2場所」という語だ。これはアナウンサーも言っていたが「ふたばしょ」と普通は発音する。「にばしょ」でもいいが「ふた」場所の方がしっくり来る。
最近の犯罪のニュースでしばしば耳にしてどうもしっくり来ないで違和感があるのは「2人組」を例外なく「ににんぐみ」と読むことだ。あれはおかしい。「ふたりぐみ」と発音する方が耳にしっくり来るし正しいのではないかと思うがどうだろうか。人数の数え方は、ひとり、ふたり、さんにん・・・と数える。ひとり、ににん・・・とは数えない。3人組をみにんぐみとも言わない。
では「二人三脚」はどう読む?と言われると困ってしまうが、これは発音の際の語呂が良く耳ざわりがいいということで・・・。
俳優の伊東四朗氏はアナウンサーや世間の、本来とは違った読み方をよく指摘して憤っている。例えば「他人事」は「たにんごと」ではなく「ひとごと」だと。同感。
こんなことばかり気にしているから、あぁまた今日も髪が去って行く。
そう言えば我が友人の入間のお茶屋のH氏は、ある食事どころで「軍鶏鍋」を素直に「ぐんけいなべ」と言って注文したらしい。人間素直が一番か?まぁ、どうせ他人事だが。
5月30日(水)
慙愧に堪えない
4月27日に書いたが、哲学者の内山節氏は、物事の本質は結局のところよく分からないので、上手に折り合いをつけていくしかないというのが日本の精神的風土だというようなことを言っているのだが、確かに物事の本質=真実はさっぱり分からないし、二者択一でなく両者とも真実だということもあると感じる今日この頃だ。
真実一路が信条だと言っていたという松岡農相の自殺こそ物事の本質は結局のところよく分からないという良い例だろう。というのは、一般の国民にとっては、松岡農相ほど自死が想像できない人物もいなかったのではないか。それが自殺というのは一人物にとっては物事の本質の中でも最終の決定的な事実を示す出来事であるから、これはもう我々下々の者はどう考えていいのか分からない。一体彼の本質はどうなんだろう。
報道によると農民には絶大な支持を受けていたというのも事実であるらしいが、当然「何とか還元水」とか、緑資源機構にまつわる談合問題とか、過去に遡っての金権体質というものが絡んでくるのは現実問題としては当たり前なのであろう。それでも死=無という究極の本質に直面するとすべてが霞んでしまう。それを狙っていたかどうかの真実も分からない。
自死を選んだ松岡氏にとってはすべての事象に対してではないにしても、今までの彼の人生に於いてはかなりの割合で黒も白も両方とも本質だったのではないか。しかし彼は上手に折り合いをつけられなかったから死を選んだ、と簡単に結論付けてはいけないだろうか?
合掌。
松岡農相の死に対して我らが52歳の安倍首相は「慙愧に堪えない」と言った。日頃から彼の言葉の上滑りがどうも気になっていたので、一応「慙愧」という言葉を辞書で引いたら「自分の行動に反省し恥かしいと思うこと」とあった。本当にそう思っているのか?
彼は言葉の意味を分かって使ったのではないと思う。自分が論功行賞で任命した人の生前の行動や今回の死に直面してああも簡単に反省し恥じていると言えるのか。ただしこれも真実は分からないが。
自分で理解していないのに難しい言葉を発すればいいというものでもない。大相撲で大関や横綱に推挙された時のわざとらしい言葉ではないのだから。
5月11日(金)
地名の読み方
地名の読み方は難しい。GWに東北地方に温泉に入りに行って来てその模様をUPした。その中で秋田県の小安温泉と小安峡谷という所があるのだが、今まで「こやす」とばかり思っていたら「おやす」と読むらしい。漢字も「子」安か「小」安かどちらが正しいのだろうかと思って地図を見たら「子安」になっていたのでその通り載せたら、どうも正確には「小安」らしい。皆瀬観光協会の公式HPも小安になっている。
一般には両方使っていて、いろいろなHPに小安も子安も両方ある。
こんな例は数多あるが、とにかく秋田県小安は正確には子安でなく小安で、「おやす」と読みます。
余談ですが身近なところでは東京都桧原にある「人里」は「へんぼり」、「笛吹」は「うずしき」と読む。日テレの女子アナ笛吹雅子嬢は「うすい」と読むらしい。
5月8日(火)
山菜採取
週刊現代5月19日号に「山菜を摘んで、食べる」というページがカラーグラビアで載っている。監修はわが入間市にある郷土料理店「ともん」主人の戸門秀雄氏である。
戸門氏は私めの中学校の後輩で、もちろん地元であるから面識がある。なかなかのアウトドア人間で、渓流釣りやキノコにも造詣が深く、著書も多数ある。店の料理も凝っていて、結構評判を呼んでいる。先日も我が娘夫婦が「ともん」の料理を味わってきたと聞いた。
さて、その週刊現代のグラビアの内容だが、要するにこれからの季節でも山菜は楽しめるので、山へ行って山菜を摘み、料理して食べようということだ。
ところがこういった雑誌や週刊誌の記事にありがちだが、一応はマナー守って採りましょうなんてことはうたってあるのだが、では具体的にどうマナーを守るかという肝心なことに触れていない。
山ウドなどは地中の白い茎の部分を採るのに根まで掘るが、掘った後埋めないでそのままにして行ってしまうので枯れてしまう例がかなり見受けられる。私めの仲間にも口酸っぱく言っているが先日もまだそれを実行しないで掘りっ放しの跡があった。ウルイもそのまま引っ張ると根まで抜けてしまうので、ナイフで根から上を切り取ることが肝心なのだがその記述もない。キノコなどもそうだが採取には必ず守らなければいけないルールというものがあって、それらは私達も少しずつ先輩や経験者から教えられて来た。守らなければいけない知らないルールもまだまだあるかもしれない。
「山菜採りは必ず経験のある方と同行してください」とある割には、誰でもそこらで簡単に採れるような内容になっている。
それはまあいいとして、ちょっと問題だと思えるのがきれいなカラー写真で紹介する山菜の種類だ。おなじみの山菜ももちろんあるが、中にワサビやカタクリ、春蘭というのまである。これらは確かに食べられることに間違いはないが、特にワサビなどは私めが長年山に入っても野生種と思えるものにはお目にかかったことがない。沢にあってもそれらはまずワサビ田から流れ出したものだ。葉ワサビとして栽培田から流れ出たものが繁茂したものであればまだいいが、時として田の中のものまで盗採されていることがある。自分でワサビを趣味で栽培していると近年は野生の鹿やカモシカ、猪などに荒らされて、苦労して栽培したものが根こそぎ無くなっているのを見るとがっかりする。その上心無い人間に採取されては泣くに泣けない。ワサビはかなりの山奥に行かないと野生種はないので、山菜として紹介するとそこらのワサビ田から勝手に採取してしまう不心得者が出ないとも限らない。
また、カタクリの紹介では一応「保護種にしている県もあるので注意」と書いてあるが、これも注意というより山菜として紹介するのはどうかと思う。山菜採りにいって、この県はカタクリは採取禁止県だなどと一々確かめるだろうか。山菜として賞味するのはかなりの量を採取しなければならず、戸門氏のように新潟や東北の奥深い山に入らなければ採取可能な地区に行き当たるのはまず無理だ。やはり近年カタクリは各地で減少しており、保護されているところが多い。私めはその花の群落に行き当たり素晴らしい感銘は受けても採取したことはない。我が世捨て村にもあるのだがもちろん採取しない。
春蘭はこの辺の里山にも見られるがその花や蕾を食べる量を採取となるとこれまた大変だ。この蘭は人が殆んど入らないような薮の中などに自生しているが、最近では関東の雑木林はかなり開発が進んで、ある日突然林が皆伐され造成されていたなんてことがあるので、株ごと採取して他へ移植した方が良い場合もある。したがって花を採取してもそれほど環境的には問題ないと思えるのだが、食べる山菜としてより、地味だが可憐な花を愛でる紹介の仕方の方がいいと思う。
山菜の図鑑でこれもあれも食べられる、これは毒だ、これとこれは何処そこにどの時季にあるという紹介なら分かるが、ほんの少しのグラビアページでワサビやカタクリやシュンランを食べられると紹介するのは違うと思う。
そのような問題種を紹介するより雑草並で美味しい山菜はいくらでもある。カキドオシとかカラスノエンドウ、タンポポ、さらには柿の葉もてんぷらにいいし、ハリギリ、コシアブラ、とかハナニラ、イタドリ、数え上げればきりがない。それらを紹介するほうが余程山菜を楽しめることは断言できる。
また、山菜の有る所は自分の土地を除いて公的にも私的にもすべて他人の土地だ。このことも認識すべきであると明記しなくてはいけない。
単にアウトドアブームを煽るような安易な記事は偏った知識で環境破壊やトラブルを招くだけなので、編集者は注意すべきであろう。
戸門氏が監修とあるが、彼は私めの知るところ大変立派なアウトドアマンの料理人だ。多分編集者がそれほど彼と打ち合わせをしないで組んだ企画であろう。
4月27日(金)
森の生活と哲学
4/21下段の続き
3/3の話をメモを見ながら書き記すのは難しい。以下は内山氏の話に私なりの考えを加えたものであるが、記憶が定かでないので内山氏の話は正確に伝えられないかも知れないことをお断りしておく。
 私達団塊の世代で入間市やこの近辺で生まれ育ったものは、森という名称は鎮守の森に代表されるような使われ方をして、今で言う「森」や「林」は普通「(やま)」と言っていた。今では宅地開発などでずいぶん少なくなったがその辺に散在していた雑木林を、「線路の山」とか「首吊り山」とか呼び習わしていたものである。そう言えば最近首吊り山もすっかり伐採されていて驚いた。あそこには他よりいち早く山菜のシオデが出て毎年楽しみにしていたのに残念。
内山氏も世代はちょっと若いし生まれも世田谷と聞いているが、やはり森でなく山と言っていたらしい。森は神社の森で、元々村の神様の森に守られて仏様があったのだが、国家神道が導入されて神仏希釈が起こり、神と仏は別々になリ、すべての宗教は国家統制されるようになった。その頃からかどうかは分からないが今は山というより森と言う方が多くなっているような気がする。私は今でもその辺の雑木林は山と言っているが。
里山(さとやま)と言う呼び名も氏によると30年位前に誰だかが(名前をメモしなかった)使い始めてから広く使われ始め、山里という言葉はあったが里山は最近であると。里山と山里は違うと思う。氏の住む群馬県上野村はどちらかと言うと山里だと思うが如何。このところ毎週山菜採りに出かけている埼玉県日高市の農村と雑木林、植林山風景は里山か。
古代の日本の人々にとっての森−山−は還って行く世界で、生きていくことは穢れていくことなので、修験道や山林修行の荒行で山の神と一体になり再生するという自然信仰で、を(肉体も含めて)山へ還した。その後魂と肉体を分離して、魂は山へ、亡き骸(遺骨)は墓へという風になっていった。大事なのは魂で、魂が抜けた骨は単なるゴミだ。だが、そこら辺あちこちに亡き骸を捨てるわけに行かないので墓を作ったと言う。近代では魂と亡き骸がいっしょになってしまっているので大層な金額をかけて立派な墓を建立している例が多いが、あれで魂は休まるのだろうか。それでもさらに最近ではやはり魂も亡き骸も自然に還そうと自然葬なる営みも見られるようになったのは古代回帰であろう。
日本人が自然や山に対して恐れや崇敬の念両方を抱いて付き合ってきたのは、自然は災害ももたらすがその一方多くの恵みも与えてくれる現実が常にあったからだ。そこから物事の本質は良くわからない、同じ事象でいい時もあるし悪い時もあるから、折り合いをつけながら上手に付き合っていくしかないというのが日本人の基層的精神だそうだ。ヨーロッパの合理的精神との違いはそれで、根回しとか、暗黙の了解とか本音と建前などというのはそういう自然に対する仕方から来ているのかも知れない。
そういうDNAが植え付けられている日本にグローバル化という名目で欧米流合理主義や、経済的競争原理が導入されていいものだろうか。現にそれで日本の山はすっかり荒廃してしまった。
先日NHKの「クローズアップ現代」で、最近日本の林業が活気付いていることを伝えていたが、それも原因は中国やインドの経済発展に拠っているという。だが、カメラが映し出したのは伐採したままで植林をせず、赤茶けた地肌をさらす広大な斜面であった。今売ればいい値で売れるが、50年100年後はどうなるか分からない、今のうちに伐採して売り抜けてしまおうということのようだ。そこには日本人の古代からの山林信仰の精神は毛の先ほどもない。トラックが通れるほどの林道を作ってからの皆伐方式で伐採した後の植林をしなければ土砂崩落などの災害をもたらし、川を下り海までもと地球規模で環境が破壊されるのだ。
植林山も含めて、日本の森山は北から南までかなり地方地方によって形態が違う、照葉樹林や雑木林、ブナ林、松林等々これだけ形態が違うと当然森林は地域ごとに考えることが必要で、地域地域の精神文化にあったやり方をしていかなければうまくいかない。
以前は内山氏は気が付かなかったのだが、最近気になり出したのが、日本の森と畑や集落の間に原っぱが無くなったことだと言う。熊の被害なのどが頻繁しているが、獣は自分の姿が見られる原っぱなどには出没を警戒するらしい。が減少しているということは草原性の小動物(野ウサギなど)が減っているということで、そのことも自然界の生態系を狂わしているらしい。
確かに奥多摩でも最近は野ウサギを見ない。鹿は昼間でも見ることがある。熊や猪は出没している様子が顕著に見て取れる。蛇も以前に比べて少ないような気がする。そのためか、上野村もそうらしいが、ヒメネズミがかなり繁殖している。
氏は、これからの日本人は、かけがえのない精神文化としての森(山)という視点でとらえ、森の奥行きを取り戻すためには人間の傲慢さを捨てることだと説いて講演を終えた。
森と町の共生で成功している例として、山形県金山町を挙げていた。もちろん地域地域によって形態が違うので必ずしも金山町の例が全国に当てはまるとは限らないだろう。但し、参考には大いになるはずだ。
氏は「森の生活と哲学」という演題だったので一般的な例を述べて、具体的な現実の林業の方法などの提言はそれほど示さなかった。現実には植林山、自然林を問わず、山林を所有している人や会社も収入や維持管理や相続や後継者の問題など様々な問題を抱えている。所有する森林の広狭もあるだろう。なかなか個人とか私的には解決しない問題ばかりだと思う。
講演が終ってからの懇親会で氏と話す機会があったので、「今日の講演は行政の所管の担当者に聞かせて政策に反映させたいですね」と言ったら、氏からの返答は「彼らが聞きますかね、無駄でしょう」の一言だった。???
4月21日(土)
拳銃事件
3/20下段の続き
銃を使ったいたましい事件が他国だけでなく、安全なはずの日本でも相次いで起こっている。
長崎市長射殺事件に対する総理の最初の談話に対して、かなり多方面から批判されているようだが、まあ、わが国の歴代総理の民主主義に対する認識はあんなものでしょう。情けない。
町田市でも暴力団員が都営住宅の自室に立てこもってパトカーに拳銃を発射したりなどしていた。結局突入した警察官に身柄を確保されたが既に自殺を図って倒れていたと報じられている。
それにしても警察の対応は遅過ぎないか。立てこもってから15時間も経ってから突入とは、何をそんなに長い時間躊躇していたのか。
報道によると、その暴力団員は相模原で同じ組の組員を射殺して町田市の自宅に立てこもったらしい。1、犯人は暴力団員で既に殺人を犯している 2、人質はいない 3、死んでお詫びすると言っている 4、付近の住民に生活の支障が出ている などの事実がありながら15時間も経ってからの突入は、その犯人の自殺を待っているかのようではないか。しかも犯人が逮捕されれば、その組員の所属する組事務所などは当然家宅捜索を受けるであろうから、証拠隠滅を図るのは当然だ。15時間もあれば拳銃なども他へ隠すことは簡単だ。突入までの長時間経過はどうも釈然としない。
また、取り囲んでいる警察官も300人!という。画面ではパトカーの陰でなんとなく立っているという図が映し出されていた。
現場周辺の交通整理などを除けば、5〜6人で対応、1時間くらいの説得でダメなら即催涙弾をぶち込み突入、生きたまま身柄拘束、というのは映画の見すぎで甘いか?
日本警察、これでは凶悪事件は後を絶たないぞ。

3/20の続き
4.土地の自然、土地の暮らし−日本的な自然信仰と「還っていく世界」 5.森林の利用、森林への畏敬−日本の伝統的な森林利用について 6.森林と「野原」−森と原との一体的な世界をとらえなおす 7.村人の森、都市の人々の森−「かけがえのない森」、「交換可能な森」という視点から 8.まとめに代えて−森の「奥行き」を取り戻すため
といった内容で話された。
内山節氏は抑揚のない静かな淡々とした話し方で、それほどジョークも交えず、いかにも学究の徒といった感じの人だが、話された内容には同感するものが多い。
更に続く。
4月13日(金)
再び国民投票法案
国民に都合の悪い重要法案可決などを国民的関心事が他にあるような時にぶつけてくるのは権力の常套手段だが、衆院憲法調査特別委員会が強行採決した今回の国民投票法案もその典型だ。
与野党の意見の対立は必ずあることだからそれは仕方ないとしても、少なくとも国民がその重要法案をどのくらい理解しているのかを精査してからの可決でなくては政治とは言えない。
郵政民営化の是非を問うとして行った選挙は国民にしてみれば郵政民営化のみが争点として映るので、結局はだまされたことになる。今更「私達は郵政民営化だけを認めただけだ」と主張しても後の祭で、与党が多数を占める為政者側にとってはすべてを白紙委任されたととらえるのは当然だ。
そういう観点からすると国民投票も憲法改正だけでなく、重要法案、案件(重要の要件は何かという問題はさておいて)については個別に広く国民の意見を聞くというのが成熟した民主主義というものだろう。国の行く末を左右する重要法案を拙速に強行採決するようでは民主主義とは言えない。

(重要法案をぶつけられた)松坂はイチローとの対決には勝ったけれども負け投手か、ちょっと調子悪かったみたいだね。それにイチローというプレッシャーもあったし。まあ、たまには負けないとね。これから勝ちつづけると思うので楽しみだ。最低15勝はおろか、18勝は行くんじゃないかと期待する。
投手というのは味方打線が打たないといくら好投しても勝てないんだから大変だ。それを考えるとかつて貧打の国鉄スワローズで活躍した金田投手は偉大だ。
4月12日(水)
国民投票法案
年度末年度始めのこの時期は仕事が忙しいのに加えて、今年は統一地方選で入間市でも県議選があったのでその関係でも時間を取られ、このページを更新するのもなかなか出来なかった。
世の中は三日見ぬまの桜かなと自然の移り変わりの速さを風流に感じ入っているうちはいいが、それが政治の世界で自分たちの生活に身近な施策がよく分からず理解しないうちに決まっていくのは納得できない。
郵政民営化総選挙では一応国会を解散して国民に問い掛けたのは結果はどうあれ国民が選択したのであるから仕方なく納得しなければいけない面もあるが、その実はここ入間市では本局がなくなったせいか郵便物の着くのが恐ろしく遅くなった
市内の中央公民館からの4日の日付の通知が昨日11日に着いた。なんと1週間もかかった。公民館であるから4日の日付なら遅くとも翌日には投函したであろうと思われる。出欠の返信を11日までに出してくださいとあった。昨日着いて昨日中に返信!
先日私めが出した封書が市内から市内への転居先不明で戻ってきたが、それも忘れた頃にだ。
まあ、それはいいとしよう。問題は、郵政一本槍で国民を騙し勝利を獲得した政府自民党が出した結論は数に頼んで郵政はおろかあらゆる面で格差を助長する政策をとったことであり、更に問題なのは自民党が今日にでも委員会を通過させようとしている今審議されている国民投票法案だ。
一体どれだけの国民がこの超重要法案について理解をしているのだろうか。もちろん法案の細部まで理解は無理にしても、殆んどの国民はこの法案が審議されていることさえ知らないのではないか。
なんとしてでも平和憲法改悪をもくろむ安倍政権にとって、国民投票法案はなるべく少数の投票で憲法改悪に持っていく一里塚だが、日本の将来を左右する憲法改正につながる誠に重要な法案を、内容にかなり疑問点があるにもかかわらず、なぜこれほど性急に成立させようとするのか。
日本の将来がかかっている投票に最低有効投票率もないのはどう考えてもおかしいだろう。20%か30%の国民の意見で日本の将来が決まってしまう可能性が高い。
最低有効投票率を設定すると投票ボイコット運動が起こる懸念があるというが、投票ボイコット自体がその法案に反対の意思表示だろうに。
他にも多々問題点があるようだが、国民が松坂対イチローの対決に固唾を飲んでいる間に日本の将来は決定してしまうのは恐ろしい。
3月20日(火)
雪崩事故
下の続き
北海道積丹岳で雪崩が派生し、スノーモビルに乗っていた4人が死亡したという。この時季は各地で雪崩が発生するので注意が必要だというが、一般的にはまさか自分が楽しんでいる場所で発生するとは思わない。自然の中で遊ぶのは楽しいが常に危険がつきまとう。
このニュースは場所も遠いし、そんなこともあったかぐらいしか普段では思わないのだが、今回は違った意味で関心があった。亡くなった人の中に内多吏さんという方がおられたことだ。別にこの方とは何の面識もないが、名前の「吏」を「おさむ」と読むということで何か複雑な心境だ。
私も吏でおさむと読むが、今までこれをおさむと正しく読んだ人もいないし、この字一文字の名前の人にも会ったことがない。世間は広いのでいつか同じ名前の人に出会うか知るかするだろうとは思っていたが、まさかそれが事故の犠牲者で、しかも34歳という若い人だとは。
同じ日私も、いつも遊びに行く山の中の沢で枝に足を取られ躓き、岩盤に顔面をいやというほど打ち付け、唇を切り、歯はぐらつき、顎を擦りむき、脛も打ってひどい目にあった。私はもちろん命に別状はなかったのだが、ちょっと打ち所が悪かったり、岩盤の尖っている所に当たっていたらと思うとぞっとした。
いつもは山に入ると必ず山の神に安全を祈願してお神酒を振舞うのだがこの日はそれを忘れていた。お彼岸の入り、油断すると自然は甘くないということを再認識した。
合掌。

下の続き。
内山節氏の話は、1.森の文化的価値を見つけなおす時代 2.日本の森、ヨーロッパの森−自然の違い、自然と人間関係の違い、基層的精神の違い 3.古代の人々にとっての森−[山林修行」はなぜ発生したのか 
更に続く。
3月7日(水)
森林文化とは何か
年度末の仕事の忙しさと、統一地方選で当市では県議選が行われるため、現職のある立候補予定者の活動に関わっているので、会議やらなにやらでこの欄を書く時間もなかなか取れない。
選挙に関連した活動というのはもろ人間関係なので、えらくストレスが溜まる。候補予定者の周辺のオイラでさえそうなのであるから当人はなおさらだろう。だから、小泉前総理も言っていたが、政治家はある種の鈍感力がまさに必要だと思えることがよくある。
しばし選挙がらみの人間関係から離れたいと思い、3日の土曜日に飯能市の駿河台大学で行われた、駿河台大学経済研究所・駿大地域フォーラムシンポジウム森林文化とは何かー私たちの森とのかかわり」に行って来た。
基調講演は「森の生活と哲学」と題して、東京と群馬県上野村とその他の地方で一年をほぼ3分の1づつ生活している立教大学大学院教授で哲学者の内山節氏。内山氏はかつて東京新聞にコラムを持っていたので名前だけは存じていた。40人くらいという予定が100人くらい参加者がいて、盛況であった。   続く。
2月13日(火)
葬儀
100歳という天寿を全うして、わが95歳の母も大変懇意にしていただいた近所のおばあちゃんが亡くなられた。
葬儀は各地様々なやり方があるが、わがご近所は仏事の組があり、我が家はそのおばあちゃんの家と同じ組なので葬儀の受付等の役割を担った。
葬儀などというものは当事者として日常そう度々あるものではなく、最近は葬儀社がかなりの部分を担うということで組の負担が軽くなったとはいっても、特に受付などは前回の例を思い出しながら進めるのだが、どうしたらスムーズに間違いなく参列者に失礼のないように終えることができるか悩むところだ。
受付の特に大事なところは参列者に戴いた香料ほか現金が記帳の金額とピタリと合うかどうかということで、一度でなくても最終的に合致するとまずはホッとする。
まれにだが香典袋に記入した金額と実際に封入され金額が違っている時があり、今回も一件あった。記入が1万円となっているのに中に入っていたのが2万円、早速その人に確認に行ったら1枚入れたつもりが新札だったので重なっていたらしい。すぐ確認したので事なきを得た。
今回はなかったが、香典袋に現金が入ってない例もないわけではない。
受付をやっていて気がつくのは、香典袋は一番簡素の物がベストだということだ。中袋のような余計なものがあったりすると間違えやすい。受付が混雑し、立て込んでくると確認洩れがあったりする。水引なんてものもあると誠に扱いづらい。結婚式のお祝袋と違って水引や中袋は原則として確認が終ればゴミ箱行きなので施主様が見ることはまず無い。単純な袋より多分高額だろうが受付の手を煩わせるだけで全くの無駄である。
参列者が遺族とごく近い親戚や知人の場合、袋に住所や金額を記入しない例がかなりあるが、これは困る。今回は前もって参列者芳名カードを記入していただいたので割合分かり易かったが、参列者カードを記入しない場合は住所を香典帳に書き移せず、非常に困る。遺族が知っているのでいいだろうと思うのは間違いで、最近はお返しが即返しでなく後返しが多いので、後返しは業者が遺族の依頼で送る場合が多いから、遺族は親しい人でも住所までは暗記していないので結局調べることになってしまうのだ。
他にもいろいろあるが、まずは@香典袋は中袋や水引のない一番単純な物を使用すべし。A袋には住所、金額は必ず記入すべし。B上手でなくてもいいから記入ははっきり読みやすくすべし。
それにしても100歳!団塊の世代があと40年!ヒエーです。
合掌。
2月7日(水)
権力は腐敗する
すぐ下の欄は昨日のお昼のNHKニュースを聞いてすぐ書いた。その時点ではまだ昨日の柳沢発言を問題視していなかったようなので、騒いでないのはなぜだろうと思っていたら、案の定夕方には国会でも大騒ぎになっていた。
今朝のテレビ朝日の番組の中で、ある女性のコメンテーターは柳沢発言に触れて、「言葉尻を捉えて非難するのでなく・・・」云々のコメントを発してあたかも柳沢発言を擁護するかのようであった。こんなおバカな女性がいるからいつまでたっても女性の権利が踏みにじられているのだ。 オイラ達一般市民が発する言葉(ホンネでもそうでなくても)とは訳が違うということが分からないのだろうか。
時の政治権力の真っ只中の大臣が特に自らの所轄について発する言葉は極めて重い。
女性の足を引っ張っているのは女性だ。
これは最近あった実話ですが、近所のある所で、そこの男性店主がお客の年配女性に柳沢氏の「女性は生む機械・・・」発言を批判したら、その女性客は「そのくらいで何よ、私達はずーっと道具として扱われて来たんだから・・・」といって怒って帰ってしまったという。そりゃそうだったんでしょうけどねえ・・・。
あらゆる権力は腐敗する」とは言い古された言葉だ。「権力」という意味を厳密に定義しなければいけないのだろうが、政治権力、国家権力、警察権力などは分かりやすい。私めが常々言っているマスメディアも強大な言論権力とも呼ぶべきものを保持し、あらゆる方面に多大な影響力を持つ権力といって差し支えないだろう。
その代表選手とも言うべき朝日新聞が他紙からの記事盗用という不祥事をまたまたやらかした。
朝日新聞といえば、記者が自らサンゴに落書きをして、それをあたかも自然破壊の象徴のように報道した事件が思い出されるが、他紙記事盗用などは朝飯前の日常茶飯事なのではと思われる。
今回は朝日の事件であるがおそらく他紙も似たようなことをやっているのは想像できる。
2005年8月23日のこの欄に書いたが、朝日、毎日に載ったわが母校の高校野球予選の記事を同窓会紙に転載させるにあたり、両新聞社にはその許可をもらうのにいろいろと面倒くさい制約と条件を提示された。写真に写っている選手の了解をもらうとか何とかクリアしたが、写真はいいが記事の引用は不可だという。既に新聞紙面に掲載されている記事の引用がなぜダメなのか分からないが、たいした記事ではなかったので記事はこちらで書き、写真を載せた。その転載料金が各5250円、振り込み手数料こちら持ちでだ。
自らの紙面の記事は他紙から盗用しておいて、あれこれ制約を設けて自紙記事を利潤を目的としてない団体に売るとは何事だと言いたい。
権力は腐敗するのだ。
2月6日(火)
健全な状況
この欄はカラムコラムと銘打っているので世の中の出来事にからむことが多い極めて不健全なコーナーと自認している。
このところずーっと謝りっ放しで、あんなに謝罪しっぱなしだと気の毒になって、いくらからむコーナーでも人情に篤いオイラは危なく同情するところだったあの柳沢厚生労働大臣が、今朝の閣議後の記者会見で少子化対策に関連して、「若い人は『結婚したい。子どもを2人以上持ちたい』というきわめて健全な状況にある。そのような日本の若者の健全な希望にあった政策を出していくことが非常に大事だ」と述べた。
おいおい、これもまたまた問題発言ではないのかい?
では、結婚して子供を持とうとしなければ不健全なのか?オイラだって若かったら、子供を持とうが持つまいが他人からとやかく言われたくないぞ。今だって何とか能力はあるから、家では無理でも他所でいつそういう状況になるとも限らないし、ア、これっていけないことか。それに無理だって?まあ、実際は3人も子供がいるから考えちゃうけど。
あの人たちの頭の中はやっぱり子供は労働力の予備軍あるいは防衛省成った今、戦力の予備軍としての考えしかない、産めよ増やせよの思想でがっちり固まっているようだ。
今回は極めて健全と自認するカラムコラムでした。
2月2日(金)
大予言
わが美しい国日本の厚生労働大臣の言葉を借りれば、首相夫人は不良品の機械なので子供を産めないのか産まないのか定かではないが、自分の任命した閣僚のしかも所轄大臣に、あとは一人頭何人と頑張ってもらうしかないと言われては首相夫妻も怒り心頭だろう。あるいはその通りだと思って頑張ったのかどうか。
メディアも待ってましたとばかりこの問題をずうっと取り上げていて、今朝の番組でも厚労相辞任を求める国民の意見が80%だとか。テレビが辞めろ辞めろと言えば国民もそうだそうだの大合唱だ。まあ、メディアが報道しなければ地方で発言したことを我々が知ることはないのも確かだが。
今ここで当の厚相を弁護したら袋叩きに合うのは火を見るより明らかだろうが、中にはそんな意見もあるかもしれない。メディアはそういう少数意見も報道するべきでは。
どうもわが日本国民は「待ってました、みんなでそれ行け!」という性癖のようで、メディアが騒げばそうだそうだ」ということになる。テレビで納豆だと言えば納豆を買占め店頭に無くなる有様で、もう何十年も前から殆んど毎朝食している我が家としてはこのバカさ加減に苦笑するしかなかった。大体、小泉武夫先生の「納豆の快楽」を読まずして納豆を食す事なかれと言いたい。
それでいながらテレビはいい加減な事を報道しているとは薄々思っている、でもまたテレビで報道すれば信じてしまう。そんな繰り返しの日本視聴者だ。そのまんま東知事も今は拍手喝采だが、これがちょいとつまずくと「それ見たことか、だから芸人なんて」の大合唱になるのだ。
情報はすべからく(なかなか古い言葉だが、調べたらallの意味ではないらしい)、ある程度疑ってかかり、取捨選択しなるべく正しい情報を得るようにすべし。難しい問題だが。
そもそもこの安倍内閣では論功行賞的色合いが濃い滅茶苦茶な人事ではあったのだが、それにしてもこうもポロポロと不祥事が表に出るのはどう考えてもおかしいと思う。
ここで一つのシナリオが考えられるのである。この不祥事の顕在化は当然裏で誰かがリークしているはずだ。安倍内閣を面白く思ってない、もちろん与党の中の一角だ。つまり安倍内閣の不祥事を顕在化し、支持率を下げ、安倍内閣打倒の与党内権力争いだ。
では次のシナリオはどうなっているか。参議院選挙前に安倍内閣を引きずり降ろし、ワンポイントリリーフであっと驚くサプライズ、小泉再登板である。小泉氏は再登板を一応は渋るがそれはもちろんポーズで、与党内が再登板待望の合唱になれば小泉氏も乗り気になり、メディアもノリノリ、従って世論も「コーイズミ、コーイズミ!」の怒涛の如き大合唱、結果参院選は自民党の圧勝である。
かくして憲法改悪を始めとする今の自民党の政策はすべて通るという算段だ。
今まで大胆政治的予想は当たったことがないが、どうだろうか、細木某に対抗して大予言だ。
だから民主党としてはここであまり安倍内閣を追求せず、だんだんに内閣支持率を下降させた状態で参院選を戦った方が勝ち目があると思う記録的暖冬の昨今である。
1月24日(水)
歩車分離信号
私めと同じ1947年生まれの団塊の同世代、小倉智昭氏がキャスターを務めるテレビの番組で、仙台市の交差点で青信号を母子で渡っていた2歳の子供が右折のトラックに引かれて死亡したと報じていた。
またか、やはり全国の交差点を速やかにスクランブル化しなければいけない、渋滞だのどうのこうのは後で対策を考えればいい、人命優先だ、と思って見ていたら、下の1月18日に書いた私めが指摘したことと同じ考えの人は当然いるもので、とっくにこのスクランブル化の運動をしている人を紹介していた。
その人は子供さんを交差点事故で亡くした人だから訴えていることが切実だ。
歩車分離信号、歩車分離交差点というのだそうで、いわゆるスクランブル交差点そのものだ。現在その信号を採用しているのは全国で3867ヶ所、全体のわずか2%だそうだ。事故減率は従来に比べて70%以上というようなことも報じていた。
人一人でも事故で死亡すれば親族もそうでない人も深い悲しみに沈む平和な社会に比べて、何十人が自爆テロで死亡とか、誤射で幼い児童が何人死亡とか日常化している世界があることも現実らしいが。
1月20日(土)
賞味期限
下の欄の、スクランブル交差点を全国の交差点で採用すべしとの意見に、国立に住む普段よく車の運転をしている友人から、経験も踏まえて「俺もそう考えていたところだ、全面的に賛成だ」という電話をいただいた。
特別変った意見ではないので、かなりのドライバーはそう思っているに違いないと思う。
我々は普段の生活の中でいろいろな事象に対する考え方や意見を持っているがなかなかそれを言う機会がない。それでこの欄を開設したわけだが、これを読んでくれる人が少数でも同意見ならその人が更に他の人に伝えればだんだんに広まると思う。それが社会に貢献する考えであればいいと思っているのだが、人の意見は百人十色であるのは充分承知だ。18日のテーマでは交通事故を減らそうという個人の意見を国交省なり警察庁なりにわざわざ言わないのでこの場で言わせてもらっている。
実際は多くの人が読んでくれているらしいことは分かっているが、一人でも反応があるということはうれしいことだ。

「ふにや」じゃなかった不二家(ふじや)の事件が出たら待ってましたとばかりどうでもいい類似事案を騒ぎ立てるマスコミにも困ったものだ。
今度はディズ二ーランドだかのレストランで賞味期限が1日(!)過ぎたチーズをお客に出したとか言って鬼の首を取った如くに報じている。賞味期限が1日過ぎたくらいのことでニュースバリューがあるのか。今後この種のニュースがやたらと出て来るに違いない。
Wikipediaによると
賞味期限しょうみきげん)とは、加工食品を包装状態のまま所定の環境に置いた状態で、製造者が安全性や味・風味等の品質が維持されると保証する期限を示す日時である。この表現の期限は、衛生面による問題よりも品質を問う部分に依存するため、主に長期間衛生的に保存できる加工食品に用いられる。製造日を含めて概ね5日以内に急速な品質の低下が認められる食料品については、消費期限で表現される。
とある。(Wikipediaをコピー)
要するに衛生面よりも品質を問うているわけだから、不味ければお客が不味いと言って抗議すればいいし、不味ければ自然にそのレストランは衰退していくだけだ。しかも1日過ぎただけ。
もちろん前にも書いたが賞味期限切れを推奨するわけではないが、発酵食品の中には日にちが経った方が美味しくなる物はかなりある。チーズなんてものは黴が生えて何ぼなんて言うのもあるではないか(これは違うぞ、ちょっと乱暴か?)
普段なら報じない事案だが今回は不二家事件のタイミングなので報道したのであろうが、ニュースとして報じる価値や意義があるというのは、賞味期限を1日過ぎたチーズを食べた客が死亡したとか、何人もに下痢の症状が出たり腹痛を起こしたという実害があった時だ。
1日遅れの賞味期限の記事を書く記者や報じるメディアの人間は制限時速40キロの道路を50キロで走ることはないのか。制限時速越えの方が考え様によっては直接人命にかかわる危険な行為だろうに。
バラバラ殺人事件が起きればさも真実のように詳細に殺害や解体の方法やら人間関係やら子供の頃の作文やら果ては下着や下腹部がどうのこうのと無理やり事件に結び付けてしまい、ありとあらゆる不確実なことをセンセイショナルにこれでもかこれでもかと報じる。
一体その中にどれほどの真実が含まれているのだろうか。
活字メディアはそれでもこちらが購入しなかったり読まなければ済むのでまだいいが(但し、目に飛び込んでくる新聞の週刊誌の広告欄の見出しは相当ひどい)、テレビは向こうからやってくるので、しかも同時刻に多チャンネルで同じ話題を報じているので、特に子供のいる家庭では困っているのではないかと思う。それとも既に日常的に衝撃的な報道に慣らされてしまっているので麻痺しているのか。
不確かな殺人の仕方や死体切断の詳細を報じるヒマがあったら、全国の交差点のスクランブル化のキャンペーンでも張ったらどうなんだ。
昨年あれだけ不確かな情報をセンセイショナルに報じたあの畠山鈴香事件の真相はどうだったのか。その後どうなったのか。起訴はされているのか。ほとんど報じていない。
かくいう私めも相当マスコミ報道に毒されているね、こりゃ。

1月16日のクイズの答え。「鮒(フニャ)」。フニヤでもフジヤでもありません。お粗末でした。
1月18日(木)
交差点事故
俳優の風見しんごとかいう人の10歳の娘さんが交差点でトラックにひかれ死亡したとメディアがかなり詳しく報じている。かわいい娘さんを亡くした親や関係者の悲しみは計り知れないが、この事故は誰もが被害者にもなり加害者にもなり得る出来事だと思う。
交差点で信号に従って進行する場合、直進なら割合見通しがきくので注意すれば事故は未然に防げる場合が多いが、左折、右折の場合は危険がいっぱいだ。
私めも左折、右折の時に何回か恐い思いをしたことがある。特に対向の直進車をやり過ごしてから右折する場合には急いで右折することが多いので、右側の歩行者に気づかなくて危なかったことが何回かある。普段それほど頻繁に運転するわけではない私でさえそうなのだから、運転を仕事にしている人はかなり危険な目にあっていると思う。
これは歩行者用の信号車用の信号が時間差はあっても連動しているからで、車が進んでいい時には歩行者も渡っていいという同時進行がくせものだ。車は直進だけでなく左右折もするからだ。
この危険を無くすには一部で採用されているスクランブル交差点方式を日本全国のすべての交差点に採用することだ。スクランブル交差点ではすべての車用の信号が赤になるので、直進だろうが左折だろうが右折だろうが全方向の車は必ず止まる。
要するに車用の信号と歩行者用の信号を独立させるということだ。車の通行時と歩行者の通行時を完全に分離すればよいと思う。
交通量の多い交差点では渋滞が更に増すと言う意見が出てくるだろうが、経済より人の命の方が大切なのは言うまでもない。歩行者優先、人命優先だ。
今回は俳優の娘さんということでメディアも大きく取り上げているのだが、多分こういう事故は日本中ではかなり起こっているのではないかと思われる。早急な対策が望まれる。
1月16日(火)
もったいない
私めは常日頃から「もったいない」と言う言葉を大事にしているし実践している。
いつだったか、冷蔵庫にまだ開封してない牛乳があったので、一応消費(味?)期限を確かめたらなんと期限を1ヶ月も過ぎていた。なーにそのくらいで驚くオイラではない、まず匂いを嗅いだらだいじょぶそうだったので、「お、これはまだ飲めそうだぞ」と直感した。食品の腐敗を臭いで判断するというのは割合当たっていて、人間の嗅覚も捨てたものではない。しかもオイラはかなり嗅覚のいいほうだと思っている。
それでも恐いので、腐っている牛乳は沸騰させると分離してしまうので、沸かしてみたら何の変化もせず、正常な牛乳だった。オイラは、これもかなりもったいない精神を発揮している25年位前にインドで買い求めたダージリンがあったので、それをその牛乳にぶち込み、砂糖も投入して即席チャイを作って賞味したのであった。消費期限の切れた牛乳のおかげで、しばしインドの雑踏を思い出し感慨に耽るのであった。
さて、日本が世界に誇る文化とも言うべきその「もったいない精神」を全世界に広めようとしているのがケニアの副環境大臣ワンガリ・マータイさんで、2004年にノーベル平和賞を受賞した偉い人だ。http://www.mottainai.info/main.html (このHPをTOPページから覗いて見ると、ページ編集がもったいぶってる、まだるっこい、もったいないという感じがするのはオイラだけでしょうか。)
私めのは別にマータイさんのもったいないキャンペーンに賛同したわけではなく、幼少のみぎりより身についた行動なのだと断っておく。だからかなり古い牛乳も一応飲んでみるかと思うわけである。(結局貧乏だったんです、今でもそうですけど)
そんなもったいない精神を全社的に行っている偉い食品会社が問題になっている。
え、それって意味が違うんじゃないかって?
不二家と言えば、かなり古い話だが、こんなことがあった。
印刷業界がまだ活版印刷もかなり広範囲に残っていて、今のようにパソコンで簡単に版下が出来ないし、写植機などもそれほど普及していない頃は、いわゆる筆耕屋さんというのがいて、チラシなども書き文字で制作していた。ある商店のチラシに入れる案内図に、近くにたまたま不二家があったので目印になるように入れておいてくれと依頼した。正確に不二家の店を入れておいてもらったので分かりやすい地図になったのだが、おかしかったのはその筆耕屋さんが不二家のことをなぜか「ふにや」と呼んでいた事だ。あの有名な不二家を知らないのか、それとも「ふにや」と読むんだと思い込んでいたのか定かではないが、日常的に不二家と言う言葉はテレビやラジオや会話にも出てきている時代だったのに、変な人だった。それ以来もちろんその人のことは陰では「ふにやさん」と呼び慣らしたのであった。これって本当の話ですから。
それにしても、まだ大丈夫だもったいないから食べちゃおう、は個人レベルの話であって、食品会社じゃいかにもまずい。食中毒などの実害が無くって良かった。(実はあったのかもしれないが)
あ、そうそう、間違い言葉といえばこれももちろん実話だが、わが社の近所に「ぽたじゅう」というたこ焼き屋さんがあったのだが、その店のごく近くにあった○○屋さん(一応匿名にしておきます)は、その店のことを「ぼてちょう」と呼んでいた。この店の名前の由来は確かではないが、汁をポタッと垂らすとジューっというからなのかなと想像するのだが、ポタージュとか何とか間違えるならまだしも「ぼてちょう」とはなんじゃいな。
もちろんその人のことはそれからは「ぼてちょう」と呼びました。しかも「ぼてちょう」という音にピッタリの人だったんです、その人は。
前に戻るが、今考えたら、消費期限から1ヶ月も経っているのに平気な牛乳って、その方が恐い。
おまけ。クイズ、魚の中で一番柔らかい魚は何ーんだ?
分かった人はメールでお答えください。正解者には何もあげません。
答えは後日。
1月13日(土)
地震予知
*謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。
1月10日(水)朝9時半頃ラジオをつけた。仕事中いつもラジオはつけていて、殆んどNHKFM85.1MHz埼玉放送である。BGMでクラシックから邦楽までいろいろなジャンルの音楽を流してくれるし、コマーシャルがないのでまことに具合がいい。民放のようにガキどものガシャガシャ、ワイワイもそれほど無いしお奨めだ。
そのFM放送が10日は朝からずっと雑音が入りっぱなしだった。アンテナの向きをどう変えても同じだった。前にも書いたが電磁波異常とFM放送の雑音が関係あると言われているので、つまり地震予知との関連がありそうなので、ラジオの雑音がひどい時にはメモしておくのだが、今回もメモしておいた。そしてわが妻に「近いうちに地震があるかも知れない」と話した。しかも内心は、かなり雑音が長く続いたしひどかったので、あるいは大きい地震ではと思っていたのだ。
FMラジオの雑音は低気圧が通過したり気象条件でかなり左右されるのでなかなか判断が難しいのだが、10日の日本列島の気圧は正常で、目立った気象の変化は無かったので、この雑音はきっと地震の前触れではと思ったのだ。
そこへ飛び込んできたのが今日(13日)13時24分の千島列島東方千島海溝でのM8.2の地震のニュースだ。幸い今のところ被害はない模様だが、今回ばかりはやはり10日のFM放送の雑音と地震は関係ありと確信した。
いつ起きるのか、場所はどこなのかなど、もちろんラジオを聴いているだけで詳しくは予知できるわけも無いが、近いうちにありそうだというだけでもある程度の心の準備や覚悟はしておける。
但し、雑音が出たから必ずいつかどこかで地震があるのかと言うと、そうでもないのがなかなか難しいところなのだ。(気象条件による雑音が結構ある)。しかもメモしておいてもそれを忘れた頃にやってきたりするし。来る来ると言って来ない狼少年のようになっても困るし。
まあ、それでも、地震雲とか井戸水の水位の変化とか動物の異常行動など地震の前触れはいろいろと言われているので、これにFM放送の雑音も加えて市井の一般市民の知恵になればいいと思う。
でも気をつけよう。地震が近いうちに来ると思っていて、いざ来たら、「やっぱり来たか、さあ逃げよう」なんて慌てて外へ飛び出したら車にはねられてしまったなんてね。

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