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Love and Peace 2006年 その時々のオサムカラムコラム
Imagine all the people living life in peace John Lennon
               
(赤字はワンポイントイメージのためで、リンクではありません。)

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2006年12月6日(水)
山口敏夫氏
吉永小百合様

写真クリック
一般市民ももちろんそうだが、特に政治家の毀誉褒貶(若い皆さん、きよほうへんと読みます)、離合集散、弱肉強食、焼肉定食は言うに及ばず、盛者必滅、諸行無常、有為転変は世の習いだ。
かつて政界の牛若丸・珍念とも称され、もてはやされたかバカにされていたか知らないが、山口敏夫氏が最高裁で上告棄却され3年6ヶ月の実刑判決が確定することとなった。
氏は大学の先輩で、在学当時社会学の授業で、わが大学からの総理候補は三木武夫氏が最初で最後だと卑下した講義を受けたが、実際にはその後村山富市氏も総理になった。そして更に期待されていたのが山口敏夫氏であった。
山口敏夫氏は若干26歳で衆議院選に立候補、選挙区は当時中選挙区で埼玉2区だったと記憶しているが、わが住居の地区である。川越、入間、狭山、所沢、東松山などが含まれ、若さとバイタリティ、父親の地盤を引き継いだこともあってみごと当時最年少で当選を果たした。その時の選挙演説を入間市民会館だったか聞きに言ったことを思い出す。
彼は選挙演説で、「将来私が首相にならないという保証はない、私は首相候補だ」みたいなことを言っていたので大いに期待したものだ。私が選挙権を得た最初の選挙だったのと大学の先輩、若さとかいろいろなことが興味を引き、もちろん彼に投票したので、当選したのは大層うれしかった。
しかし、青雲の志に燃えていた彼はそれこそ総理に手が届くような勢いで政界で活躍したのであるが、新自由クラブを立ち上げる頃までが絶頂期で、実際われわれは拍手喝采を送ったのであったが、その後は初心を忘れ権勢を欲しいままにして暗躍したツケがまわったのか、雪だるまが坂道を転げ落ちるように転落の一途をたどったのであった。
最近の自民党の造反組の復党がどうの、刺客がどうのと、結局昔も今も政治は変っていないと山口敏夫氏の久しぶりの消息を聞いて思った次第であります。

ややや、何でわが麗しの吉永小百合様のお下げ髪姿が、シマザキ印刷の封筒の片隅でにこやかに微笑まれているのだ?とドギマギしながらよく見たら、切手だった。
お堅い郵政省、いや今は郵政公社が民営化が決まってこの頃はいろいろとあの手この手で売り上げを増やそうとしている一環なのか、オリジナルの切手も作ってくれるらしい。
小百合様の切手は日本映画シリーズで昭和10年の「丹下左膳余話 百万両の壺」の大河内伝次郎から昭和37年の「キューポラのある街」の小百合様までの全10枚組みの中の一枚で、お下げ髪姿がなんとも清純で、昔も今も小百合様はわれわれのマドンナだ。
郵政公社は民営化で、切手に限らず儲かるものは推進し、採算の取れないものは今後ますますあれこれ削除したり統廃合するのは当たり前と思うのだが、今入間市では入間郵便局が狭山郵便局に吸収され、15万人市に特定郵便局並みの郵便局しかなくなってしまうという決定がなされ、大騒ぎになっている。15万人が住む町に集配業務をする郵便局がないのは日本でも唯一だそうで、その不便さはやがて市民に降りかかってくるのだろうが、だから言ったじゃないのというのが感想だ。
市の議会やら行政当局は今ごろになって慌てふためいて総務省の決定を取り消して欲しいだのと陳情やらお願いやらをやらかしているのですが、だいいちそう言って困ったと騒いでいる議員や自民党支持の皆さんが先の衆院選で小泉自民党の郵政民営化を認めたわけでしょうに。
さて、この選挙区は今は小選挙区なので埼玉9区(入間、狭山、飯能など)だが、その当選者は狭山市の大野松茂氏、安倍政権で総務副大臣に就任した、まさに郵政民営化の主務副大臣なのである。
入間の保守陣営や郵政民営化に賛成する人たちはこぞって大野松茂氏を応援したわけである。めでたく当選して今は副大臣の要職だ。
入間の郵便局を狭山へ統廃合するのも大野副大臣の仕事といっても過言ではない。現在、大野氏を支持した入間市の保守系の要人が副大臣に統合を白紙に戻すように陳情している模様だが、果たして大野氏はどうするか見ものだ。大野氏にいくら思い止まるようお願いしても覆らないと思う。それが政治であり選挙だ。
郵政民営化選挙を支持し、大野氏に投票した入間市民は結局騙されたという事ではないのかな。大野氏個人が騙したわけではないけれど。
それより、郵便局の皆様、わが小百合様の顔面に消印をドバッと押さないで頂戴ね。消印は切手のほんの片隅にやっと分かる程度にお願いしますよ。
あ、そういえば思い出したが、高校時代の野球部の先輩に I 田さんというコントロールは皆無だが剛速球を投げ、性格も粗暴、顔も野獣のようなむくつけき恐ろしい投手がいて、なにしろ練習でバッターボックスに入る時には死を覚悟したというほどでしたね(かなりオーバーかな)。その先輩は当時吉永小百合様宅のお隣りだか向かいだか、とにかくすぐ近くに住んでいたのでした。
あるとき小百合様宅に熱心なファンだかが不法侵入し、小百合様はその I 田さんの家に緊急避難したということがありました。先輩の家に小百合様がどんな理由でもいらしたという事はわれわれにとっては誠にもってうらやましい話で、恐い先輩でもその先輩と知り合いだというだけでオイラもなんだか鼻高々になってしまい、その先輩が急に崇高な精神の持ち主で立派な人格者に見え、それ以来尊敬してしまったのでした。
きっかけというものは恐ろしい、という誠にもって他愛のないお笑いの一席でした。 I 田先輩、元気に設計やってますか?(実は I 田さんは優しい色男です)
2006年12月2日(土)
火事のサイレン
美しい国日本の入間市東町の真闇の静寂をつん裂くけたたましいサイレンの音3回(約3秒×3)、今朝の午前3時半の出来事なのであった。藤原紀香が結婚する前に一度ベッドを共にしたいと思っていたら現実になった夢を見ていたかどうかもあまりに突然のサイレンに起されてしまったので覚えてないが、一体今何時だと思って明かりをつけて確かめたら3時半なのであった。昔と違って今では真の闇など町場では存在せず、ちょっと離れてはいるが国道463号を通る車の音で静寂なども望むべくもない。それでも午前3時半という時刻は殆んどの市民は寝静まっている。直線距離で100m以上離れていると思われる我が家でさえもものすごい音量だったから、すぐ近所の人の衝撃は相当のものに違いない。
どこの田舎でもそうだろうが、ここ入間市でも公の消防署の他に消防団という組織が存在し、いったん火事あれば24時間、時を選ばず出動し市民の大いなる安心感に一役勝っている。団員はそれこそボランテイアで出動合図あれば昼夜の別なく駆けつけなければいけないので大変だ。
その出動合図がサイレンなのである。昔で言えばさしずめ空襲警報(オイラはもちろん聞いたことはないが)で、何しろ夜中の静寂を破るものすごい音量のサイレンなものだからかなりのショックで、オイラのような若者でも心臓がバクバクしてしまうほどなのである。ましてお年寄りや幼児ではなおさらだろう。まあ、オイラの親のように耳が遠い年寄りは関係ないだろうけど。
サイレンが鳴ってから、多分団員がなかなか集まらなかったのだろう、しばらく(5分くらいか)してからやっと消防車の出動出発する音(これは車のサイレン)が聞こえ、更に30分ほどして出動した消防車が帰庫する音が聞こえた(この時階下の時計が4時を打つのが聞こえた)。この時間の帰庫では多分放水はしてないと思う。どれほどの火事だったか、場所は何処だったのか知る由もないが、多分今日にはだんだんその情報が入ってくるだろう。
それにしても昔ながらのサイレンによる消防団員の招集というものはいかがなものか。良くは分からないが、火事の場合、以前は本部の消防署から各分団、部のサイレン担当者のところに連絡が入り、それをその連絡を受けた団員が消防車庫に走りサイレンを鳴らすようになっていたと思う。あるいは今では署が直接各部の消防車庫のサイレンを鳴らせるような仕掛けになっているのかも知れない。
ごく近所の火事だったら何時だろうとけたたましくサイレンを鳴らして注意を促すと言う意味もあるけれど、遠くの現場の場合敢えてサイレンを鳴らさなくても団員個人に直接知らせた方が集合の効率もいいだろうし近隣に迷惑もかけなくていいと思うのだが。この情報化、IT時代だ、それが出来ないはずはない。
団員各位の携帯電話利用は何か不都合でもあるのだろうか。
それとも真夜中に空襲警報なみサイレンを鳴らす意味が他にあるのだろうか。

夕鶴の木下順二氏が亡くなった。
大学時代、氏の最終講義を聴講したことがある。かなり昔の事で記憶は定かではないが、氏は言葉を大切にしなければいけないという事を力説しておられた事だけは頭の片隅に残っている。
例えば、「ものすごい」という言葉は酷い形容の時に付ける言葉で、ものすごい台風とか、ものすごい事故とかものすごい怪獣ということだ、だから「ものすごい美人」とは言わない、というような事を言っておられた。なるほどとその時思って以来オイラは言葉を大事にしてきましたね。(「そうか?」と言う疑問の声あり)
だから前の文章の「ものすごいサイレンの音」は木下順二先生も認めてくれると思う。合掌。
2006年12月1日(金)
歳末募金
美しい国日本は今年もあっという間に師走に入りました。師走恒例の歳末助け合いの募金活動が、この寒空にボランティアの皆さんによって各駅頭などで行われているとNHKは伝えていました。
足早に通る通行人も歩を止めて募金に応じていましたが、中でも泣かせるのはある幼児が募金をしている姿でした。その幼児は記者の質問に答えて「おうちで、おてつだいをしたごほうびに、もらったおこづかいから、だしています」ですと。私はこれを聞いて思わず涙が滴り落ちたのでありました。
美しい国日本ではこのような幼な子がお手伝いをして得たわずかなお小遣いまでもふんだくってしまいます。それに比べて大人の偉い人たちは官製談合だの汚職だのをやらかして何十何百何千万円を懐に入れ、TOBだかなんだかすっかり忘れてしまいましたが要するに何百億円もかけて株を買って儲けるんだとかいう話が相変わらず私達を痛く感動させてくれるのです。
更に美しい国日本で感心させられるのはタウンミーティングとかいうやはり官製談合みたいなものをやらかして、エレベーターのボタンを押すだけの係りに何万円、案内係に何万円という具合にお金が支払われる事です。その他美味しい仕事がワンサカです。
いわゆるヤラセのミーティングと言っておるようですが、ヤラセそのものは日常茶飯事、政策を遂行するには多数決で当たり前の事なので今更驚きませんが、歳末助け合い募金の先ほどの幼児の言葉に比べて、ボタン一つ押すだけで何万円、おお!美しい日本の国の偉い人たちはなんと言う素晴らしい考えでこの国を動かしているのだろうかとまたまた泣けてきます。
さて、テレビは殆んどがヤラセ、当然この幼児の言動もヤラセと考える人もいらっしゃるでしょうが、それは心が狭いというものです。もし万が一ヤラセであっても、このインタビューを行った記者はせめてものささやかなお偉い人達に対する抵抗としてということなのではないでしょうか、許してあげましょう。
2006年11月27日(月)
結婚式の往き帰り
当然のことながら、今まで経験した事のないことは数限りなくあり、日常から離れると初めての体験というものの頻度は増し、時として大なり小なり失敗することもある。
昨日は知人のご子息の結婚式に招かれ、南浦和まで行ってきた。
我が身に直接降りかかることではないけれど日々殺伐とした世の中の不幸なニュースに接していると、祝福、幸福、愛、友情などの現実が目の前に繰り広げられる若者の結婚式は誠にいいものだ。
というわけでその結婚式は非常に素晴らしいものであったのだが、それほどたいした事ではないが南浦和まで行く途中の失敗談を一つ。
インターネットで路線をクリックし、目的地の予定到着時刻を入れて検索すると親切にも何時何分の電車に乗りどこそこで乗り換えてと出る。入間市からだと西武池袋線で秋津まで行き、新秋津で武蔵野線に乗り換えて南浦和と出たのでその通りに行く事にした。
入間市駅で、途中の秋津でまた切符を買うのは面倒なのでJR乗換えで南浦和までの切符を買った。
秋津に着いたので自動改札に切符を入れた。当然バーは横に開き通過できるようになったのだが、切符が出てこない。確か南浦和まで買ったはずなのに、間違えて秋津までの切符だったかなと最初は思ったのだが、まてよそんなはずはないと思い直し、ポケットの釣り銭を数えてみたらやはり南浦和まで買った分の額しかない。これは自動改札の故障に違いないと思い(実際、端の改札では故障の修理らしき事をやっていた)、秋津の駅員に南浦和まで買ったのだが切符が出てこないと訴えた。
駅員は怪訝そうにまた迷惑そうに(実際はそうでもなかったのだろうが)、「お客さんは池袋回りの切符を買ったのではないですか?」と言った。池袋回りも何もJR乗り換えのボタンを押し、南浦和まで買ったと言ったら、「秋津乗り換えの切符はありません。池袋回りの切符しかなく、その料金になります」と言ったが、他の人もよく間違える事があるようで、すぐ改札へ行き切符の溜まる箱を引き出して私の投入した切符を確かめ、400円の現金を返してくれたのであった。
買った切符を勘違いしたかなと思って駅員に訊かなかったら危なく400円という大金をフイにするところだった。
それにしても秋津乗換えで武蔵野線の直通切符が買えないならその旨表示しておくべきで(あったのかもしれないが気が付かなかった)、そもそもなぜ池袋回りはあって秋津回り乗車券はないのか。
こういう事は知っている人は知ってるので当たり前の事だと思うのであろうが知らないという事は困った事だが、これでまた一つお利巧になったのでありました。
皆さん、秋津回りは直通で買えませんよ。
その帰り、ちょいと2次会で飲んでいい気持ちで入間市の駅を降りたらかなりの雨降りでした。
経費節約のためタクシーに乗らず徒歩で帰路に着いたのだが、雨の歩道の歩きづらい事。何しろ所々に水溜りが出来ていて、その水溜りがかなり深い。しかも照明の加減で歩道の表面が良く見えないものだから、ついに水溜りに左足を没入、靴下まで濡らしてしまった。おまけに撥ねて自己通称高級アルマーニ青山のスーツのズボンまで濡らしてしまった。
施工者は一体どんな工事をしてんだ!ちょっと丸みを持たせた施工をすれば歩道に水溜りなんぞできるわけないだろうに。特に、辛坊治郎、小宮悦子ならびにわが母校豊岡中学校脇の歩道など殆んど半分は水溜りだ。わが社の脇の国道463の歩道も車椅子はおろか普通の歩行者も誠に歩きづらく、向かいのおじさんなど捻挫したくらいだ。まったく歩行者に優しくない入間市の歩道だ。
2006年11月14日(火)
報道・自殺の連鎖
いじめによると言われる自殺をメディアが連日伝えている。
当ページの2004年10月13日にはインターネット集団自殺について書いた。実際に起こっているのかいないのか、最近はインターネット自殺は報道には殆んどない。
メディアによる情報の氾濫が若年層の自殺の誘因の一つかもしれない。
世の中には様々な理由による自殺が相当数あると思われるが、個人の自殺の報道はあまり見かけない。いじめによる結果としての自殺報道が多いのは、最近のいじめに関しては社会的に大問題であるから必要であるという立場をとっているのであろうが、本当にそうだろうか。
あるテレビの番組のキャスターが、「こうして報道する事によって自殺の連鎖を招いているかもしれないと思うと矛盾を感じる」旨の発言をしていたが、その通りだと思う。
自殺の報道がいじめ事件の解決に役立つなら詳細の報道も必要であろうが、現実には役立つどころか煽っている側面もあるのではないか。
問題提起をし、社会の不都合を改善する意図による報道は当然必要であろうが、今度また起きた秋田の自らの幼児殺害事件でもそうだが、われわれ一般市民が事件の詳細な内容を知る必要があるのだろうか。
大体、日本は上から下まで、隅から隅までいじめ天国で、金子みすずの詩「みんな違ってみんないい」は通用しない。みんなと違うといじめが始まる構造だ。差別も然り。個性の尊重と言いながら個性を発揮するといじめられる。なにしろ政府が「自己責任」という言葉で特定の日本国民にいじめをやらかしたのはついこの間の事だ。
それにしても一連のいじめ自殺事件に関連する教育関係者の認識不足、対応のまずさにはあきれる。
但し、思うが、それについて関係者の記者会見でマスコミがああだ、こうだと決め付けて吊るし上げているようなのはいじめではないのだろうか。
2006年10月27日(金)
必修科目未履修
全国の高校で必修科目未履修で卒業が危ぶまれる生徒がわんさかといる事が判明したけれど、今年の3年生は補習なりして卒業できるようになるらしいのでまだいいが、と思ったら補習をしたふりしてちょいとお茶を濁して判子だけ押してOKにしたことがまたバレて無効だったり、なにがなんだか滅茶苦茶になってしまうが、まあそれはいいとして(良くないか?)、政府もマスコミも教育委員会も高校の当事者も誰も何にも言っていないが、問題は既に卒業している過年度の卒業生じゃないのか。
必修科目未履修は常態化していて今年だけの出来事ではないのは火を見るよりも明らかで、では昨年までに卒業した生徒で未履修が判明したら一体卒業資格はどうなってしまうんだろうという。
必修科目を履修してないと卒業できないと学習指導要領に定められているということで、これが法的拘束力がある、ないで意見が分かれているらしいということがまた事を複雑にしていて、法的拘束力があるなら過去に遡ってすべて卒業無効だとなると、これは天地ひっくり返るような騒ぎだろうに。
そうなるともちろん今まで行っていた大学の入学も卒業も無効だし、卒業証明書も履歴書も公文書・私文書偽造ということになるので就職も無効になったり、逮捕者は出るは、そしてまた逮捕した人が逮捕されたり、遡ったら安倍総理大臣も履修不足が判明し学歴詐称だはで逮捕寸前まで行ったが法務大臣の指揮権発動でそれは免れたけれど、法務大臣もやっぱり学歴詐称を問われたという、殆んどの日本人が現在の立場は無効になってしまうということで日本全国蜂の巣を突っついたように大騒ぎで、書いている自分も何がなんだか分からなくなってしまうというね。
日本人で大なり小なり法を犯してない人は100%いないわけで、法律違反の処罰はその内容によるから、簡単に言うと受験のためだけの学問体系は改めるということで超法規的措置をする以外にないだろうに。
昨年だか一昨年、高校教諭が生徒のためを思って内申書の成績を改竄して志望大学入学を図って問題になったけれど、それでかなり厳しい処分をされた教師は今回の件が全国で発覚して、「俺の処分を取り消せ」と思うだろうな。
2006年10月10日(火)
核実験
北朝鮮の核実験に対して各論調は当然のことながら非難一色である。全世界を敵にまわして孤立化というのが一致した見方だが果たしてそうだろうか。
インド、パキスタンの核も当時は非難一色だったのが、今ではなんとなく容認になってしまっているし、やったもの、持ったもの勝ちの風潮が世界に蔓延している。
これはなぜかというと、弱小国の核保有を容認しない超大国が、膨大な数の核兵器を現に保有しているということに尽きると思う。
泥棒して稼いだ金で建てた豪邸に住む者が、「俺も泥棒をしてあんたみたいな御殿に住むようになりたい」と言う者に対して、「それは許さない、おまえは真面目に働いて掘っ立て小屋に住みなさい」と言うようなものだからだ。これではまるで説得力がない。だから北も各国が核保有に際して使う決まり文句の、「わが国の核は先制攻撃には使わない、抑止力のためである」旨の声明を出している。
核保有に対して真に非難できるのは、唯一の被爆国で当然核保有を為していない日本だ。ところがその日本でさえも、本年8月6日の広島平和記念式典における秋葉市長の全世界、特に核保有国に対して訴える切実な平和宣言に比べて小泉首相のおざなりな、単なる言葉の羅列の重みの無さはどうだ。
更に、今回「北の核実験は絶対に容認できない」と会見で述べた安倍晋三首相は2002年5月13日の早稲田大学での講演で、官房副長官という政府を代表する立場にありながら「大陸間弾道弾や小型核兵器は憲法上保有が可能である」旨の滅茶苦茶な発言をしている。
口は災いの元、北はこの発言を捉えて反論する機会を狙っているのではないか。
政治家の言動はあまり信用できない。真面目な世界中の人民の、特に核被爆国の日本の核廃絶を願う声を結集して機会ある毎に世界へ発信する以外に平和への道は無い。
それにしても大事件が起きているのになぜ新聞は横並びに休刊日なのだ。2004年4月12日朝刊(イラクで日本人が人質になった時)も休刊だった。しかも今回と同じで号外を出した(読売)。
号外を出せるくらいなら各社横並びで休刊にするなといいたい。コンビニもテレビもラジオも休業日は無い世の中だというのに、肝心要の新聞報道に休業があるとはね。「休刊日なのでニュースは当社ホームページをご覧ください」とは恐れ入る。紙面のニュースの役割は終わりつつあるということか。
2006年9月20日(水)
保存食
私はもちろん嫌いではないが、あまりパンは食べない。朝食はパンとコーヒーだなんて言う輩には「そんなやつにいい仕事は出来ない。日本人は朝飯はご飯と味噌汁が基本だ。それに自分で漬けた糠漬けなどの漬物、納豆。アジの干物などがあればなおいい。あとは前日の夕飯の残り物だ」などと公言している。今朝は昨日作ったワサビ漬けも試食した。
だからジャム類が冷蔵庫に有ってもいつまでも減らない。
6月に収穫した梅が大量だったので捨てるのももったいないのでジャムを作って冷蔵庫に保存しておいた。そのジャムにが生えていた。(つまり今まで食べてなかったということだ)。自分としては大量の砂糖を投入し器も殺菌して万全のつもりで保存したのだが結果は失敗だった。
それとは別に小さいビンに何か分からないジャムが入っていた。自分で作ったものではないので誰かに頂いたものだろう。覚えがないということはかなり前に頂いたものらしい。何かは蓋を開けてちょっと嘗めてみてすぐ分かった。柚子ジャムだった。昨年暮れに収穫した柚子を知人に上げたのでそれがジャムになって戻ってきたらしい。それには黴は生えてなかった。原因はすぐ分かった。砂糖の量だ。黴ない柚子ジャムはものすごい甘さだった。
我が家では料理にも殆んど砂糖は使わない。もちろんすき焼きにも入れない。砂糖でない素材の甘さを生かすためだが、保存食はそうはいかないので自分としては大量と思う量の砂糖を入れたのだがそれでもジャムには足りなかったらしい。
食糧を保存するためには砂糖や塩や香辛料を使用したり燻製したり、冷凍とかいろいろな方法があるが、一般的に長く保存するためにはそれなりの量の添加物が必要だ。
大量の砂糖や塩を使用した保存食を常食するのと、黴を払ってそれを食べるのとどちらが人体に影響があるだろうか。案外黴を払って食べても大量の砂糖、塩よりいいかもしれない。まあ食べようとも思わないが。
虫のつかない野菜は危ないのと同じで黴の生えない食品は危ない?砂糖や塩の大量に入ったジャムや梅干は常食しないほうがいい?要は摂取量の問題ですね。毒も量によって薬になる。
2006年9月5日(火)
ホリエモン初公判
ライブドア・ホリエモンの証取法違反事件の初公判が行われた。
報道によると検察側は冒頭陳述で、ホリエモンはLDの連結経常利益予想値を上方修正するに際して「ケイツネ50のがかっこいいじゃない。50のが大台乗ったって感じでいいじゃん。」と言って粉飾を指示したと主張した。
ここで思い出すのが、もうかなり古くなってしまったが、ロッキード事件で田中角栄首相が全日空の次期旅客機導入に際してロッキード社のトライスター選定を働きかけられて「よっしゃ、よっしゃ」と言って応諾し5億円を収賄したという事だ。
当初は現職の総理大臣が逮捕されたことに世の中は騒然となり、まして具体的な会話が公になったということで、より事件の真実味が増したと感じた事を覚えている。日常会話で何か頼まれると「よっしゃ、よっしゃ」と言うなど流行語にもなったほどだ。
ところがその後この「よっしゃ、よっしゃ」という田中角栄が言ったとされる言葉が、実は田中角栄は普段からこんな言葉遣いの習慣はなく、検察の作文だという主張が弁護側から為され、発したとされる具体的な言葉が却って、「ン?」という結果になったのであった。
今度のホリエモンの言ったとされる言葉でどうも引っかかるのが「50の方が」でなく「50のが」という言葉だ。ホリエモンの口ぐせかどうかもちろん真実は知る由もないが、普通から考えたら「50のが」とは言わない。
書き言葉でなく口から発した言葉は時として不明瞭に聞こえるのは当たり前であるから、たとえ「50のが」と聞こえたとしても冒陳では「50の方が」としても何ら不都合はないはずなのに「50のが」とはっきり表現した事に何か不自然さを感じる。
はっきりと詳細に表わした具体的言葉があるいは検察の墓穴を掘るかもしれない。ホリエモン無罪の可能性がほのかに見えた初公判だと感じたのはオイラだけでしょうか、でしょうね。
2006年8月31日(木)
忘れ物
生徒の皆さん、宿題は片付きましたか?もう8月も終わり、2学期ですよ。
我が小学中学時代を思い出すと、この8月31日という日はやだったなあ。夏休みの最初のうちは「さあ、頑張って早く宿題を済ませちゃおう、夏休みは存分に遊ぶぞ」なんて張り切るのはほんの2、3日で、遊びには張り切ったのは確かなのだが、結局終ってみれば宿題が山のように残っていて、それでも9月1日は始業式で宿題の提出が無いからまだ1日猶予があるなんてせこい考えだった。
クラスの中には本当に真面目でしっかりした者がいて宿題をきちんとやってきているから、普段はあまり親しくしていないのに、この時ばかりはお世辞を言ったりして丸写しさせてもらい何とかしのいだのであった。

8月が終ってもまだまだ鮎釣りはこれから終盤の大鮎が期待できる時期なのだがキノコも出てくるし、アウトドア派の人間にとっては誠に忙しい休日を過ごす事になるのである。

富山県の神通川水系に先日行って来た関係で、当地のオトリやさんのホームページを見ていたら、「川に鮎竿の落し物が有ったと長野の人がわざわざ届けてくれた、心当たりの人は連絡ください」と写真つきで載っていた。http://rose.zero.ad.jp/funaayu/saisinn.HTM
鮎の友釣りには様々な道具が必要で、竿はもちろんだがオトリや釣った鮎を入れる「」とか「たも網(玉網)」とか「オトリ缶」とかうっかりすると川に忘れたり、ちょっとした拍子に流されたりする。竿は使い終わって仕舞うまではずっと手元にあるので川に忘れるという事はまず無いと思うのだが、きっと何らかの理由で忘れたのであろう。
釣り人はそれぞれあちこちにその道具類を置いておくので、川に誰かがいるうちは持ち主がいるという事なので人の物と思って知らん顔をしているのはもちろんであるが、竿があって忘れ物として届けられたという事は拾った人のほかに誰も釣り人は見当たらなかったのだと思う。
鮎竿は高価だ(ちなみにオイラが今使っているのは6年程前新品定価で245,000円)。愛着のある、使い込んで両手になじみ、しかも高価な竿を無くした人がものすごく落胆している事は想像に難くない。
感心するのはその竿を拾った人がわざわざオトリやさんへ届けたということだ。殺伐とした世情のこの現代日本でなんともホッとする一服の清涼剤のような話ではないか。(本当は当たり前の話なのだが)。
オイラや仲間が拾ったとしてこの人と同じ行動を取ったかというとどうも怪しい。「しめた」と思うかも知れない。(うーん、いや、やっぱりオイラも届けるな)
ちょっとした、本来は当たり前の事なのだが鮎釣りファンとして非常に心に残る嬉しい出来事だ。
日本の古来よりある良き人情死なずだ。
2006年8月30日(水)
王子様
「王子敗れる」「王子のハンカチ」。これ最近の新聞の見出し。
最初のは早実の斎藤投手が負けた、わけではありません。王子製紙がTOB断念という記事です。
次のは王子製紙が紙だけでなく繊維にも進出してハンカチの生産に乗り出した、わけではありません。もちろん言わずと知れた斎藤投手のハンカチの事です。
そんな事は皆さん承知の事でしょうが、何が言いたいかと言うと、王子製紙が敵対的買収を北越に仕掛けた意味は、それだけ製紙業界も先行き見通しが暗いという事なのです。
製紙業界や印刷材料業界は最近の原油高騰を理由に、我々印刷業界に何の相談も無く勝手にどんどん価格を値上げしています。我々業界は低価格競争で、値上げなど夢の話です。原料は値上げ、一方で製品は値下げ、厳しい昨今です。
元来王子様は優しいというイメージです。王子製紙を始めとする製紙業界は印刷業界に優しくしないとそのうちしっぺ返しを食うよ。
2006年8月26日(土)
冥王星
世の中にはぜーんぜん我々庶民の日常生活に関係ないと思っていることが大真面目で議論されていたり、それが実は大変重要な事のようだったり全く訳の分からない事があるもんだ。
惑星かどうかとか惑星の仲間に入れようとか、いや仲間外れにしようとかが投票で決められるとは思いもしなかった。かわいそうな冥王星。今まで小さいながらも惑星として教科書にも載っていたのにいきなり外されるとは地球人も薄情なもんだ。
かつて国連の常任理事国であった中華民国がいきなり排除されて代わりに中華人民共和国になったようなもんだ。
極小惑星でいいんではないかとも思うが、世界の頭脳が集結して決めるんだからそう単純ではないのかな。
さすがにこれはアメリカの覇権をもってしても受け入れられなかったようで、あるいは各国のアメリカに対する反発もあるのかもしれない。
その冥王星を1930年に発見したのがアメリカのクライド・トンボーという人だそうだ。
トンボーと聞いて中学校時代の同級生を思い出した。同じクラスに〇崎富雄という生徒がいて、彼は小柄でなかなか愛嬌があったので「トンボー、トンボー」と呼ばれみんなにかわいがられていた。オイラももちろん仲が良かったので「トンボー」と呼んでいた。
ある時文化祭か何かに出す俳句の作品をオイラが彼の分まで作ってやった事があった。その結果、オイラのは落ちて、彼の分の作品が入選するという、なんともおかしな事になったのを覚えている。
そのトンボーと10年位前彼の地元の飲み屋で35、6年ぶりくらいに偶然再開したことがあった。何しろ久し振りで会い、35、6年そのまま時間が止まっている状態の雰囲気だったので、「おお、トンボー久しぶり、元気?」と大きな声で挨拶したのであった。
小柄なのは相変わらずであったが、他人のことは言えないが頭髪も寂しくなり、顔には年相応に皺など出ている、もういいおじさんになっていたトンボーはあからさまに嫌な顔で「トンボーはもうやめてくれ」とのたまったのでありました。失礼いたしました、トンボー、いや〇崎さん。でも、その時は中学時代と違って、暗いど・トンボー、なんちゃって。その後元気?
そうか、そのトンボーが冥王星を発見したのか。あれ違ったかな?オイラ達は’47年生まれだもんね。
2006年8月21日(月)
甲子園
熱闘甲子園という言葉が相応しい試合が続いている高校野球も今日が決勝戦の再試合だ。
春の選抜に続いて連日投げ続けている早実の斎藤投手、また駒苫の田中投手もすでに体力の限界を超えているだろう。
スケジュールの都合や大人の利害の都合で連投させられる選手はたまったものではない。斎藤投手などは実質5連投といってもいい過酷な使われ方だ。
斎藤投手のお母さんの昨日の試合後の言葉が印象的だ。「親として『明日も頑張れ』とはとても言えない」と。当然だろう。
お涙頂戴、精神論、感動秘話、激励などの言葉はあってもせめて1日くらい間を空けるべきだ等の選手保護を訴える論調がどこにも無いのはどう考えてもおかしい。
スケジュールの都合がつかないなら無理にやらせず両校優勝でもいいではないか。
これでまた将来有望な投手が潰されていく。
それにしてもこの選手たちの一部が将来なるであろうプロ野球はなぜつまらないのか、プロ野球機構は真剣に考えるべきだ。試合を見ていればすぐ分かる事だ。
2006年8月9日(水)
協栄ジム
靖国の霊魂
団塊の世代のボクシングファンはかつて協栄ジムにはいろいろと八百長疑惑のタイトルマッチがあったことを知っている。
特に渡嘉敷勝男選手だか具志堅用高選手だかのタイトルマッチの時は、相手方に下剤入りジュースを飲ませ下痢を起こさせたということで確か今の協栄ジム会長の父親である金平正紀氏はボクシング界を永久追放になったはずだ。。
だから今回の亀田なんとかいうヘナチョコボクサーの場合も、やっぱりねえ、という感じなのである。
筆者は今は亡き海老原博幸(元世界フライ級チャンピオン)の大ファンであった。彼のカミソリパンチと呼ばれる必殺の左パンチは余りに強すぎて、自分の手首を骨折したほどだ。その海老原が金平と作ったのが今の協栄ジムなのだが、まさか、あの海老原は不正はしてなかったんだろうなあ。
海老原、青木と並び三羽烏と言われた現日本プロボクシング協会会長のファイティング原田の繰り出すパンチはあられの如くバチバチと連続速射砲必殺パンチであった。亀田も原田を見習いなさい。亀田のアラレなーんてね。
今のままじゃ本当に強い相手と八百長なしで戦ったらお煎餅みたいに伸されちゃうよ。

この時期になるといつも思い出すが、ちょうど40年前、極東軍事裁判で日本無罪論を展開したインド代表のパール判事が来日し、その講演を友人と聞きに行った事がある。そのころパール判事は青雲の志篤い青年の私たちにはかなりの高齢に見え、確か杖をついていたと思う。その翌年判事は亡くなられたのであるが、当時、40年後の日本でA級戦犯がどうのとか政府首脳の靖国参拝がどうのとか賛否を二分しているとは考えもつかなかった。
結局は極東軍事裁判でも日本は負け、戦争犯罪人が確定した。
小泉総理が8月15日にその戦犯も祀られている靖国神社に参拝するかしないか話題になっていて、しないほうがサプライズだという見方が広がっているが、もう
怖いものなしの小泉総理は15日に参拝して、さっさと首相をやめてしまうかもしれない。小泉氏は絶対サプライズを狙っているからそうすればちょっとしたサプライズだ。去年の郵政否決の時もそう思ったが予想は大はずれだったけどね。

作家の高橋源一郎氏が週刊現代に書いている連載「おじさんは白馬に乗って」に、『「靖国」に霊魂はいるのか』というタイトルで、自分の勤務する大学の学生に「靖国神社にいる霊魂になってひとことしゃべってください」というレポート提出を命じた時の話が載っている。
学生とタカハシさんの、霊魂が存在する、しないの議論から始まっていろいろと霊魂について書いてあるのだが、この国の霊魂は(世界中の霊魂も)何千年も故郷に戻る習慣で、人間が勝手にどこだか分からない神社に集合させるのは霊魂をバカにするのもほどがあると。だから戦死者を追悼したい人は靖国神社ではなく地元の神社にひっそりとお参りしてくださいと結んでいる。多分霊魂はそちらにいらっしゃるであろうからと。
日本人は神様になったり仏様になったり、神社とお寺を行ったり来たりして死んでも忙しい。
それはそうと、2004年3月28日に生まれてはじめて靖国神社に行って遊就館の展示にも驚いたが、それより不思議だったのは上空を飛び回っている鳩の群れが全尾白鳩だった事だ。靖国の鳩神様は白い鳩以外とは交配しないのだろうか。たまに黒いのもいたがそれは良く見るとカラスだった。さすがにカラスは白くなかった。
2006年8月2日(火)
巨人戦中継
プロ野球巨人戦の視聴率低迷に悩むテレビ界はフジテレビに続いて日本テレビも巨人戦の中継を延長しないことを決めたという。
野球関係者は視聴率低迷の原因は巨人の戦績の低迷と見ているらしいがこれは違うと思う。勝っていればある程度は上がるだろうが決定的な要因ではない。要するにプロ野球中継がつまらないのだ。だからといって日本の野球人気が低迷しているかというとそうでもないらしい。現に東京ドームは観客で溢れているし、地方を本拠地とする日ハムやソフトバンクや阪神などどこも盛況といって言いようだ。
という事は野球中継がつまらないという事で、球場で観戦する限りは面白いという事になる。
一番分かりやすい例はサッカーと野球の放送の違いを考えればいい。サッカーの場合はハーフタイムにしかトイレにも行けないほど攻守ところを変えたりして緊迫感の連続した試合状況が続く。それに比べて野球はと言えばなんとものんびりした試合状況をわざわざ作り出している。
書ききれないほどあるうちのホンの一例を挙げる。(前にも書いたが)。
攻めているチームがランナーを出し、さあ逆転だ、行け行けドンドンと思っていたらピッチャー交代で何人もがのんびりとピッチャーズマウンドに集まってチンタラチンタラ何やら鳩首会談をはじめる。その後もピッチャーがのんびりと変な乗り物に乗って来てさあすぐ試合再開かと思ったらまた投球練習なんか始める。交代ピッチャーは既に肩が出来上がって万全の状態でタイミングを見計らって交代するはずなのになんでまた何球か投球練習するんだろう。高校野球で野手がいきなり投手になるのと違うぞ。
サッカーは何とかして試合の流れを止めないように怪我人が出ても、選手交代でもタイミングを考えている。野球は何とかして試合の流れを止めようとする。そんなシーンが一試合に何回もある。
投手交代でのんびりと集まってなにやらやっている時(この時野球解説者は実況アナウンサーの、何を話しているんでしょうねえ、と言う質問に対して、一点は覚悟しろだの気力しかないだのダブルプレー狙いで行けという事でしょう、とか何とか適当な事を言ってるが、案外明日の天気はどうだろうゴルフなんだだの、試合が終ったら焼肉食いに行こうぜとか、今夜カアチャンがいないんで誰か紹介してよなんて話している、と思う)はテレビにとっては絶好のコマーシャルの入れ時で、昔と違って視聴者は今はテレビはリモコンを持って見ているから、その時にはまずチャンネルを替える。替えた先でサッカーワールドカップなんかやっていたらまずそこのチャンネルに釘付けになる。
緊迫した一番大事なシーンをわざわざ緊迫感の無い場面に演出してしまう。これではスポーツ中継と言えない。
だから今の野球中継で最も緊迫感のある面白いシーンは乱闘騒ぎの時なのだ。
プロ野球はリモコンを持ってテレビで観戦するものでなく、球場でのんびりビールでも飲みながら観戦するものなのだ。球場にリモコン持っていっても目の前ののんびりシーンは変わらないものね。
2006年7月22日(土)
ドミニカ移民
教員免許更新制度
当欄6月10日に書いたドミニカ移民訴訟原告団に対して小泉首相は国の政策を反省、謝罪し、救済措置を講ずることを言明した。これは先月7日に東京地裁で国の責任は認めたものの、損害賠償については時効だとして認めなかった判決に対しての政治判断による措置だ。
しかしこの政治判断はあまりにも遅い。国策による移民から50年、この間筆舌に尽くし難い労苦を強いられたことは想像に難くなく、さらにその上の外務省不信による訴訟。国がもっと早く責任を認め反省し謝罪し救済措置を講じていたら訴訟に発展する事はもちろん無かったし、原告団員も徒に齢を重ねる事も無かった。
一体先日の東京地裁判決の意味はなんだったのか。小泉首相は「司法の判断は別として、政治的に救済措置を講じなければいけない」旨発言していたが、そもそも訴訟というのは裁判所訴えるわけではないのは当たり前で、政治の責任を糾弾し、その上での政治判断を求めて政府を訴えているわけなのであるから、今度のように政治判断が司法と別にできるのであればとっくに出来ていたはずだ。
これにより原告団は控訴を取り下げたのであるから、地裁の裁判というものはまるっきりの無駄になったと言うことが出来る。税金の無駄遣いだ。
この訴訟以外にも杓子定規の司法の判断を待たずに政治判断で国民を救済する案件はかなり存在する。そのような案件に関しては国は個別の実情を精査し、速やかに救済措置を講ずることが必要だ。
今回の小泉首相の政治判断は遅きに失したとはいえ一応歓迎するが、救済一時金はあまりにも少額だ。今後十分な救済をするよう期待する。
地裁の金井裁判長は「なんだよ俺がせっかく玉虫色に政府にも都合のいいように判決したのに、それならもっと早く言ってくれれば良かったのに」とか何とか思っているに違いない。

先ごろ中教審(中央教育審議会)が教員免許の更新制度導入を答申した。
これによると教員免許は10年を有効期限とし、最低2年間で30時間の更新講習を大学や大学と連携した教委で受講しなければいけないとしている。
このことに対して識者や現場からいろいろな声が寄せられているが、30時間の大学での講習など何の役にも立たないというのがあった。同感である。
商売柄、校長、一般教員、保護者、教委等々多くの教育関係者と交流があるが、当欄の2004年8月11日にも書いたが、教員の問題に限って言えば一番の問題は殆んどの教員が教育の現場は当然日々の仕事で他人がとやかく言うことが出来ないほど分かってはいるのだが、現場以外のことが殆んどわかっていないという事だ。裁判官も医者も政治家も自分の専門分野だけ理解していても正当な判断はできないと同じように、教員も教育現場だけ分かっていてもまっとうな教育はできないということなのだ。
たかだか30時間の講習しかも大学での講習で、現場に精通した教員が何を得るものがあるというのか。肝心なのは教育現場しか知らない教員に他の世界を知ってもらい理解してもらう事なのだ。これは断言できる。例えば教員5年→民間1年を繰り返すというように。
教員免許更新制には賛成だが、その具体的更新方法は中教審委員が考えたものではなく、やはり官僚が机上で空想したものと思われ、再考が必要だ。
官僚も更新制にしよう!
2006年7月4日(火)
中田英寿選手
なるほど中田ヒデがブラジル戦後長い間ピッチに横たわっていたのはそういうことだったのかと思えるのが昨日のヒデ現役引退の発表だ。
しかし、結局ヒデは日本のサッカーを愛し、強くしたいといっても最後まで自分勝手な行動しか取れないということなのか。彼ほどの選手になるとすでに私人としてでなく、公人としての立場を要求されても仕方ないのではないか。サッカーというものが単なるスポーツという枠を越えている存在だと同じように。
これが日本の肉体的にも精神的にも脆弱なところで、これを克服しないと日本は強くなれない。
世界ではもはや通用しなくなった彼ではあるが、日本に戻り協調性を学んで真のリーダーとして次のW杯まで引っ張って行くことが日本のサッカーを強くする事だということに彼は気づいているのかいないのか。逃げるなヒデ!
今の性格のままでは代表として引き続き機能するのは難しいとは思うけれど、彼の場合、現役引退が責任を取る事ではない。責任を取ってやめなければいけないのは川淵氏でありジーコ監督であり日銀の福井総裁!なのだ。
決意が固いのであれば、一人浮き上がっていた彼が現役引退ということを歓迎する若い選手は少なくないのではないか。それと同時に彼がもう少し変ってくれればついていくという選手も多かったはずだ。
まだたかだか29歳で「人生は旅である、旅は人生である」なんてカッコ良すぎるぞ。
島崎藤村の「破戒」の主人公瀬川丑松は、自らの出自を父の遺言に背いて生徒の前で告白し謝罪し、戦わないでアメリカに逃げて行ってしまった。時代も設定も背景もまったく違うとは思うが、中田ヒデと瀬川丑松を重ね合わせるのは筆者だけだろうか、だろうな。また、同じヒデでもアメリカに渡りボロボロになるまでやるつもりらしい野茂英雄のことも重ね合わせるのも興味深い。
いろいろ意見はあるが中田ヒデが日本サッカーに及ぼした貢献は計り知れない事は確かだ。本当に現役を引退するのであれば一サッカーファンとしてはやはり彼には感謝したいし、今後の活躍を期待し、祈る
これがたかが野球だったら新庄のように「前言撤回、やっぱり現役続けまーす」なんて言えるだろうけどねえ。
2006年7月1日(土)
たばこ
この間新年の挨拶を交わしたと思ったら、もう半年が過ぎてしまったか。
今日からタバコが値上げということで、6月に買いだめした本数が過去最高に上るとか。
筆者はタバコを吸わないので各人どのくらいの量を買いだめするのか見当もつかないが、1年分くらいも買いだめすると湿気たりして味が落ちるということはあるのだろうか。そうすると半年分とか3か月分ぐらいだろうか。
タバコは値上げするたびに買いだめやこれを機会に禁煙と言う人の声が伝えられるが、禁煙できない人は買いだめしたタバコがなくなると多分仕方なくまた買う。それが愛煙家なのだろう。愛煙家に言わせるとせっかくはじめた喫煙をそんな簡単に禁煙するような意思の弱い事ではいけないとかいうジョークがあるが、その通りだ。値上がりしようが健康に害があろうが国家の税収のために断固として喫煙続行すべし。但し、タバコ嫌いの人のために吸った煙は吐かないで総て飲み込んでほしい。第一、お金を煙にしてしまうのだからせっかく吸ったのを吐き出すなんてもったいないではないか。
いくら高額になっても吸う人は吸うし買う人は買う。買いだめの本数が過去最高になったりするんであれば、タバコの値上げを定期的に、例えば半年毎とか、一年毎にやればその都度買いだめが過去最高になって税収が増えていいと思うが如何に。
ある試算によれば、額は忘れたが、国民がタバコを吸わなくなるとそのため健康になる人が増え、健康保険から拠出する税金が大幅に減るらしい。タバコの値上げ分の税収と、禁煙して減る税収分と、健康になって国庫から出る健保金分をプラスマイナスすると喫煙派には不利な結果になるらしい。
筆者はタバコの味などまるでわからないが、まあ煙なら何でもいいという訳ではないということぐらいは分かる。
かつてインド・ネパールに旅した時に、現地では紙巻タバコを一本単位で売っていたのを思い出す。それとは別に「ビリー」という簡単な葉巻も売っていて、面白いので買い求めて帰国してから喫煙する知人に配ったが、珍しいだけであまり評判は良くなかった。やっぱり煙が出ればいいというものではないのかと。
それでも他のタバコがないときは吸っているので、高額タバコが気に入らない人にはお奨めだ。というのはこの作り方が簡単で、実はこの葉はこの時期ならそこら中にあるイタドリの葉なのだ。
詳細な作り方は省くが、イタドリの葉を乾燥させて中に少量の刻みタバコを入れ、葉の両端を中に折り込んで巻いて木綿糸で縛るというものだ。高級葉巻もビックリの味・香り、お試しあれ。
2006年6月23日(金)
再びサッカーW杯
サッカーW杯日本代表、よく頑張りました、健闘を称えます。
WBCのように奇跡が起こるかと期待していましたが、サッカーの世界は野球のように甘くない、客観的に見て各国との実力差がありすぎました。ブラジルなどは明らかに決勝トーナメント用の調整試合でした。今回の結果を糧に4年後は頑張れ、期待しましょう。
それにしても対ブラジル戦の試合後のピッチに一人横たわる中田の態度はひどすぎる。他の選手は試合に出られなかった選手も一緒にサポーターに声援のお礼をしているのに中田だけ横になっていた。彼が試合で精根尽き果てるほどの動きをしていたのは認めるけれど、彼一人だけがそういうように戦ったわけではない。
団体競技は誰か一人突出した選手がいても、全体がまとまって、チームとして統制が取れていなければ勝てない。11人、いや23人のうち1人のわがままな天才がいるより、23人の凡才でも纏まりがあるチームのほうが強い。中田はWBCのイチローの役目を果たせなかったばかりか、彼が居たせいで却って日本代表チームの纏まりがなくなってしまったように思えてならない。
サポーターは神様だ。サポーターがいてのプロサッカー選手だ。仕事の都合をつけて休暇を取ったり、中には仕事をやめたりして多額の金を使い日本チームのためにはるばるドイツまで行ったサポーターの気持ちが中田には理解できないらしい。彼はプロアスリートとしての自覚が足りない。ちょうど昨年の今日のこの欄のヒデに対する評価は撤回だ。
今後は日本代表は新しい監督のもと新しいチームとして発足すると思うが、当然中田は外し、代表メンバーの中でも信望篤いと言われる小野を中心にしていけば4年後はかなり期待できると断言しておく。
今日は眠い。
2006年6月15日(木)
サッカーW杯
サッカーW杯日本の一回戦敗戦の分析や次戦の対クロアチア戦の見通しなども出尽くしたようですが、解説者も誰ーれも言ってないので、専門的なことは分からないが提案というか疑問を一つ。
GK川口はゴールキックや自陣近くで得たフリーキックをことどとく闇雲(と思える)に敵陣深く蹴っていたがあれは無駄だと思う。わざわざボールを相手に渡しているようでもったいない。
オーストラリアは身長がかなり日本より上回っているのでそのボールをジャンプしてヘディングで味方に落とし殆んどを自ボールにしていた。GKが深く蹴る場合、味方は背を向け、敵は前を向いているのだから相手に取られる確立が高い。後半最後の方はそれを取られて切り返され、疲れで動けなかった日本は立て続けに点を取られた。
川口はやたらと深く蹴り返すより自陣近くにいる味方に浅く蹴りそのボールをつないで攻める態勢を作ったり、特に終了間際でリードしている時は時間稼ぎをしたほうが無駄がないと思う。味方がボールを持っている間は絶対ゴールは無いのだからなるべく相手に渡さないという当たり前の事はゴールキックにも当てはまると思う。敵陣深く蹴るのは終了間際でリードされている場合のみである。
ブラジルークロアチア戦を見る限る日本の次戦相手クロアチアは相当手ごわいと見たが、なーに、横綱だって前頭に負ける、サッカーは何があるか分からない、頑張れ日本。

下の10日の欄で書いたが、秋田の児童殺人で案の定容疑者は殺害場所の供述を変えた。それをまた弁護士は供述内容が変ったと記者会見で述べた。これをいつまでも続けるつもりなのだろうか。
最近ではこの容疑者の言動には多重人格の要素が認められるという報道もあった。再度言うが容疑者の変転する供述を一々記者会見で述べていても真相は分からずこの事件の教訓も生かされない。弁護士は「しかるべき時が来たら話します」の一言で今はいい。この容疑者の弁護士は失格だと思う。
2006年6月10日(土)
ドミニカ移民
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや」寺山修司
1950年代に日本政府の募集に応募して中米カリブ海のドミニカ共和国に移住したが政府の言を信じたばかりに楽園から地獄へと劣悪な生活環境を強いられたとして、移住民やその遺族が国に対して損害賠償を訴えた判決が7日、東京地裁であった。
金井康雄裁判長は国の法的責任を認めた上で、損害賠償については民放724条の除斥期間の20年を過ぎたとして時効により退けた。
果たしてこれが正当な判決かどうか大いに疑問がある。そもそも時効の存在理由をこの裁判長は何も理解していないのではないか。時効は、特に凶悪殺人事件などの例ではしばしば正義に反しているように受け取られるが、1.永続している事実関係を尊重し、公益・社会秩序の維持 2.証拠採用の困難 3.権利の上に胡座をかいている者は保護しない ということであるが、判決では除斥期間(20年)の起算点を入植時点にしているが、入植時に悲惨な状況を即把握できるはずもなく、また、仮にその時点で把握しても訴訟を起す事は現実離れしている。それをもって請求権が消滅しているとするのは明らかに矛盾している。原告は悲惨な状況は今日でも続いていると訴えているが、裁判長はそれをどのように判断したのであろうか。また、権利の上に眠るものは保護しないというのが一番時効を理解する上で分かりやすい理由であるが、この原告団が権利の上に眠っていたとは到底理解し難い。実際は訴訟を起す余裕などなかったというのが普通の人なら考えるが、多分東大の法学部を出たであろう裁判長には理解できないのかもしれない。
判決後原告は国からの「棄民です」と憤っていたが当然だ。
災害に遭っても救済せず、年金はごまかす、膨大な防衛予算を組んでも拉致を防止できない。人質になった国民を自己責任だとして救出するどころか非難する。国策で移民を奨励しておき不手際を認めていながら救済しない。これが愛する祖国が国民にする仕打ちだ。
身捨つるほどの祖国はありや?愛するほどの祖国はありや?
なんて言うとそんなに嫌なら日本から出て行けと言われるかもしれないが、そうもいかないんだよね。そんなお金もないし。
教育基本法を改正してわが国を愛する心を養うだの涵養するだのと喧しいが、東京新聞の6月9日付特集ライブラリー「教育の原点」によると、GDPに占める日本の国と地方の学校教育費は2002年に3.5%、米英仏は5%を上回っている。国の歳出総額に占める教育費の割合は55年度は12%を上回っており、80〜90年代には10%を割り込んだ。02年度に10%を回復したが先進各国の水準に及ばないという。
子供たちに国を愛するという抽象的なことを教えるよりまず教育費を増額する事が先決なのではないのか。
そもそも先のWBCでの日本の活躍やサッカーW杯を見るとおり愛国心というものは自然の発露として湧いてくるものだ。愛するなといっても愛してしまうのではないですか?
国や郷土や自然や文化や伝統や隣人を愛することを愛国心というなら、くだらないテレビ番組横行の影響で日本では抽象的な言葉では理解できない人が殆んどなので、具体的に教えることが肝心だ。子供にも大人にも理解しやすく即実行可能な愛国心の具体策は『日本をきれいにする』だ。ここでまた具体例を挙げれば、こうすれば日本の象徴富士山は世界遺産に登録される事間違いなしだ。抽象的にも具体的にも国をきれいにすることが国を愛する第一歩ではないかと思うが?子供の頃から外に出たらゴミを捨てない、ゴミがあったら拾って帰るという具体的なことを教えて行けば、長じて本当に愛するものは何かが理解できてくるはずだ。教育基本法を改正するなら『日本をきれいにする心と行動を養う』とすべきなのだ。ゴミを捨てない、人に優しくする、これが基本だ。
大体、教育基本法を改正して子供たちに日本の、愛国心の云々と言って机上の空論を繰り広げるお役人や政治家に限って文化や伝統を愛さないし、自然の中に入ると平気でゴミを捨ててくる。オイラなんか印刷屋なのに460年以上続いている伝統芸能のメンバーだもんねーだ。鮎釣りに行けば鮎は釣れなくてもゴミ拾いして来るし。

秋田の児童殺人、遺体遺棄事件で容疑者の弁護人はまだ事件の真相がほとんど明らかになっていない時点で、容疑者の発言をペラペラと報道陣にしゃべっていた。衝撃的な事件ほど真偽にかかわらず最初の報道を鵜呑みにしてしまうのが我々凡人で、それが後々まで脳裡にこびりついているものだから、後になって真相が判明しても事件の扱いは小さくなるし、なかなか最初にインプットされた情報は偽でも容易には捨てる事が出来ない。今度の容疑者の言うことはコロコロと変わっているようだし、事件の特異性を考えると現時点で弁護人や警察があれこれコメントするのは控えたほうがいいのではないかと思う。
民放だけでなくNHKでもこの事件で、殺害方法や死体遺棄についての詳細をすでに報道しているが、まだ起訴もされてない段階でしかも茶の間に殺害方法などの詳細を報道する意味があるのかどうか。また、我々も残忍な具体的行動の詳細を知る必要があるのかどうか。
異常な事件が続いているがこのような事案はその具体的な殺害方法より、そこに至った背景や容疑者の心理状態、成長過程などの根源的問題を事件の真相がすべて明らかになった時点で追及し分析すべきであって、拙速に、まして興味本位に報道すべきではないし知ろうとするべきでもない。
2006年6月1日(木)
変換ミス
文章をワープロやパソコンで書くというより打つことが増えているのに比例して、それまでは考えられなかった誤字が増えている。これは殆んどが単純な変換ミスであるが(今も”へんかん”と打ったら”返還”が出てきた)、中には変換したものの、いくつかある選択肢からどの漢字を選んでいいか分からないという例もあるようだ。
最近来たメールとFAX原稿での変換ミスの例を二つ。
 
友人(君の事だよT君!)から来たメールに「ベットライフに離れていませんから寝袋に・・・」とあった。一瞬、「ん?」と考えたがすぐ「・・・には慣れていませんから・・・」だと分かった。しかもベッドがベットだし。
電脳は「・・・にはなれ・・・」を”に”の所で切って変換してしまうから次に”離れて”となってしまう。
また、あるお得意さんからFAXで来た原稿に「間違い内容にお願いします」とあった。初めての原稿のはずなのにおかしいなと思いながらも、すでに校正を送ってあった内容に間違いがあってそれを直してくれということなのかなと確かめたらやはり初めての原稿であった。これはどういうことか理解するのにちょっと時間がかかった。正しくは「間違えないよう・・・」ということだと分かったのだが、送信者は”間違え”と打つべきところを”間違い”と打ってしまったので電脳は続いて”ないよう”とひらがなで出すべきところを”内容”と漢字で出してしまい、送信者はその『間違い』に気づかなかったのだ。

印刷屋はお客様が制作してきたデータでいただいても明らかな間違いの場合は直しますが、総てをチエックする事は不可能です。またその逆にお客さんからいただいた原稿を当方で制作する場合、どうしてもいくつか変換ミスが出てしまいます。もちろん校正をお出しするのですが、お客様はなかなか誤字など正確にチエックしてくれないのが現状です。
皆様気をつけましょう。総ての文章はきめ細かく校正をしましょう!
たかが誤字一つくらいと言うなかれ、それが仕事上致命的になることもあります。これは自戒も込めてということです。
2006年5月30日(火)
悼 故米原万里
元ロシア語会議通訳・作家の米原万里氏が亡くなった。
米原氏の作家としての作品は読んだ覚えがないが、エッセイや、コメンテーターとしての発言は共感を覚えていたので亡くなったのは誠に残念だ。
その米原氏が週刊文春に、酒井順子、立花隆、鹿島茂、池澤夏樹各氏と毎週交代で「私の読書日記」を書いていた。
このところの氏の読書日記のタイトルは”癌治療本を我が身を以て検証”で、それを読むとかなり癌は進行していると思われたが、まさか亡くなってしまうほど進行していたとは思わなかった。但し、日付が×月×日になっているのでいつの頃の文章なのかは分からないのだが、引用している文中の読書本によると最近の事である事がある程度分かる。
この”検証”によると氏の癌克服に対する執念とも言うべき行動は凄まじく、癌に関する本の著者やクリニックに直接出向いて自ら治療を受ける様子が克明に書かれているのだが、当然癌やそれに関連する知識も豊富なので、時として医師に嫌われ、一例を挙げると、温熱療法を受けた後などあまりの苦しみに部分麻酔を使えないものだろうかと尋ねたら「貴女には向かない治療法だから、もう来るな。払った費用は全額返す」、と医師に言われてしまったなどという話が載っている。
他にも”刺絡療法”を受けた時もいろいろと詳しい説明を求めたらやはり治療費全額返すからもう来るなと言われたとあった。
また、氏が至言と言う近藤誠医師による「いかがわしいものであればあるほど、大金を支払わされる」という言葉を思い出し、薬草茶を数種処方されて軽く10万円をオーバーした時など、それを送り返したという事などもあったらしい。このクリニックは森下敬一博士が主催する御茶ノ水クリニックというところなのだが、薬草茶は送り返したが、いろいろ言われたなかで、食餌療法(玄米ご飯など数種類の驚くほど少量の食物を総て100回以上噛んで食べる。唾液こそが最良の薬である。食物に含まれる発癌物質も噛む事で消滅する。)と運動療法だけは取り入れる事にしたという。よく噛んで食べろという事と運動しろという事は常々言われている事なので、これは私めも実践すべきだと思い心がけている。まあ、米原氏も言っていたが、鮨や蕎麦を100回も噛みたくはないけれど。
他にも様々な癌治療本とその治療の実践が書かれている。結局今となっては総ての治療法が無駄だったわけだが、癌という病気の恐ろしさと、それに苦しむ人の多さ、それに取り組む医師たちや医学界の現状、いかがわしさ、などがよく分かる読書日記というよりは実践ルポであった。
ご冥福を祈ります。合掌。
2006年5月18日(木)
山椒
山椒は小粒でもピリリと辛い」というフレーズは日本人ならほとんどの人が知っている言葉で、その意から諺として比喩的に用いられる事が多いのだが、さてその山椒の実を実際に噛んでみてピリリと辛く舌が痺れるというのを実感している人は現代では、特に都会に住む人にはそうはいないのではないか。
我が家には何本かの山椒の木が植わっているがそのどれもが実をつける季節になった。もちろん山椒の実の味のピリ辛さは良く知っているが、我が家ではその若葉は佃煮にすることはあっても実を佃煮にすることはなかった。従って毎年よく生る実ではあるがそのまま落ちるに任せていた。
最近よく会うようになった、大企業の高い地位をさっさとリタイアして悠々自適に生活している知人が、その山椒の実の佃煮を毎年作っているという。何せ小粒なので大量に採れないかと去年初めて言われ、今年はその彼が実を採りに来る。秋になると実が硬くなるので、今ごろの若い実を佃煮にするとしんなりして誠に具合がいいということらしい。
殆んど見向きもしなかった小粒だがピリリと辛い山椒の実を今年は利用する人がいて、うちでは実を提供し、それが出来たら多分おすそ分けしてくれるだろうと期待する。また新しい繋がりだ。
知識というのはいろいろな媒体から得られるが、生身の人間から得る知識が一番確かだという事を実感。
Eさん、上手に作ってくださいね。山椒は世捨て村にもあるからね。
なお、山椒の木の”すりこぎ”についてはこのページの2004年10月6日の欄に載せています。
2006年4月28日(金)
共謀罪
人権無視どころか人権弾圧の天下の悪法「共謀罪」を今日の衆議院法務委員会で可決を図る政府自民党は、明らかに国民の目をそらせるために、ホリエモンの保釈を決定し、ゴールデンウイークの前日という日程を持ってきた。(注:その後紆余曲折があって、何が何だか分からない理由でこの法律は今国会では成立せず継続審議となった。)
一方、人権問題に「理解を示す」ブッシュ政権は拉致被害者家族の横田早紀江さんと面会するという。
その米軍の再編に伴う経費の日本側負担は天文学的な数字、三兆円以上だという。これはもちろん国民の税金で支払うのだが、国民からは私有財産を税金という名のもとに収奪しておきながら阪神大震災や新潟地震をはじめ、洪水、耐震偽造などの被害者には建物は私有財産だということで日本の政府は一銭も援助しない。
最近、国民のためにならない天下の悪法の成立が続いている。
日本はこれでいいのか。いいんです。国民が望んでいるんだから。
2006年4月19日(水)
死刑・終身刑・無期刑・報復権
数年前山口県光市で起きた母子殺害事件の最高裁公判が結審した事は各メディアが詳しく取り上げているので詳細はここでは省くが、死刑廃止論者もこの事件では無期懲役では軽すぎると翻意するであろうと思われる極悪非道の所業には当事者でなくても憤慨するし、被害者遺族の本村氏の言葉には思わず涙を誘われる。
最高裁で口頭弁論が行われたという事は地裁・高裁の無期を破棄して死刑判決が出る可能性があるという事だが、日本の重大刑事裁判における判決の量刑が死刑か無期懲役だけでは無理があるのではないかと考える。
この事件の被告の新弁護人の安田某は熱心な死刑廃止論者だが、今回の事件ではその自らの信念と当該事件を無理に結び付けているような気がする。2人を殺害して幸福な家庭を崩壊させどん底に突き落とした事実は覆るはずもなく、下級審の事実関係認定を誤りとする主張は弁護士としては当然の仕事なのであろうが、死刑回避を狙うなら死刑が憲法が禁止する残酷な刑罰に当たるので憲法違反であると主張すべきである。但しこれは判例でことごとく否定されているので不可能と判断したであろうことは推測されるが。
言うまでもなく法治国家では法の定めるところにより刑が執行され、個人の報復、復讐、仇討ちの類は認められないのは当然だ。一審公判で裁判所は復讐する場ではないと裁判官が言っていたのは法に基づいて判決を下す裁判官にとって見れば当然の見解であると言わなければならないが、元々刑法は因果応報、結局は公権力による報復を認めているのである。
個人に代わる公権力による報復・仇討ちが当該個人の心の根底にある報復の程度と差があったらどうするか、それが今回問われている問題だ。
日本の刑法の量刑にも無期刑でなく終身刑を導入すべしという意見はすでにかなり前から検討されているらしいがいまだ成っていない。
光市の事件の被害者の夫であり父親である本村氏はかつて、裁判で死刑判決が出なければ自分で犯人・被告を殺してやるというようなことを言っていたが、その気持ちはよく分かる。
死刑廃止論者の言い分は、冤罪の場合取り返しがつかない、公権力による殺人だ、残虐な刑罰を禁じた憲法違反だなどいろいろあるが、これらを解決するには終身刑の導入しかありえない。
その上で、死刑判決が確定した場合、明らかに冤罪の可能性がなかったり、裁判で認められるという様々な条件のもと当該事件の被害者の一定の遺族親族による死刑執行を認めればいい。
今回の事件で仮に死刑判決が確定した場合、遺族の本村氏に加害者犯人への死刑執行権を認め、本村氏が電気椅子のボタンを押せば法の元でも個人的にも報復は達成させられるし、もし本村氏本人が死刑執行を忌避・権利放棄したのなら犯人を終身刑で処せばいい。
日本の司法における現状は、情状酌量の余地がないほどの凶悪犯罪事案であっても、加害者の人権を尊重する割には被害者の人間としての権利がないがしろにされているのは問題であると考える。人間には感情というものが存するのは否定しようがないからである。
要するに法の元での被害者の加害者に対する報復権を確立するべきで、もちろんその権利を放棄するという権利も認める。
以上のように刑法、刑事訴訟法を改正すべし。
ちなみに、今回の件で本村氏とテレビで意見を交わしどちらが法学者か分からないと批判を受けた日本の「進歩的」刑事政策の第一人者、死刑廃止論者の菊田幸一法学博士に、私めは学生時代刑事政策の講義を受けた。どうでもいいけど。
2006年4月8日(土)
今年の春は早く来て早く終ると思っていたらさに非ず、桜の開花は早かったけれど、いまだに咲いている。いつものいさぎよさがない。いつまでもグズグズしている、昨日までの民主党と同じだ。自然界も世相にならったか、いや、その逆か。
この時季になると野山にいろいろな植物の芽が吹き出し、気持ちがそわそわして来て今までのフィールドノートを見ては、あの山菜はまだ早いとか、この山菜はもう出ているだろうとか想像して次の日曜日を心待ちにする。
今までの記録によると、近年超早かったのが2002年で、3月21日には都内の桜が満開とあり、24日にはタラの芽が食べられたし、アケビのツルも出始めたと。31日にはカタクリも終盤で、4月の中旬が最盛期のシオデも一掴み採取とあった。
今年も2002年にならうのかと思っていたのだが、結局例年のような季節の進み方だ。家のタラの芽は今ちょうど食べ頃になってきたし、花ニラ、紫花菜も咲き出している。桜草も芽が出たのは早かったが、足踏みして花の蕾がわずかに色づいてきたところだ。
多少の早い遅いはあっても季節は変る。自然の躍動を感じる春の今日この頃ですね。
それに関連して、本の帯に『京都議定書を守る日本はアホだ』とある、池田清彦著「環境問題のウソ」(ちくまプリマ−新書)の地球温暖化やダイオキシンについて書こうと思ったけれど時間がなくなったのでこの次。
2006年4月1日(土)
エイプリルフール
昨日の欄で書いたが案の定というべきか、早実の斎藤投手は昨日の準々決勝も投げ、大敗した。
高校野球では勝ち上がってくると連日の試合になるので、投手はエース級が2〜3枚いないとなかなか優勝は難しい。仮に一人の投手で優勝してもその投手は使い捨てと同じで将来は殆んど期待できないといっても過言ではない。もちろん稀にはそのままプロで活躍する投手もいるが。
その甲子園の高校野球だが、今日から試合後の校歌演奏は負けたチームの校歌を演奏し、決勝戦だけはもちろん両校の校歌を演奏すると高野連が発表した。
これまでは、激戦の各地区予選を勝ち抜いてきたのに一回戦で負けてしまうと憧れの甲子園で母校の校歌を聞くことが出来ないということに批判があったのに配慮したものだ。今後総ての出場校の校歌が甲子園で流れることになり、現役生もOBも共に感涙にむせぶことができることになった。
家族愛、郷土愛、母校愛等々を始めとする様々な個人が所属する組織を時として愛するのは当然の感情で、先のWBCでも若者が自然に日の丸の旗を振り頬にペインティングして日本チームを応援していた。これが自然の発露の愛国心なのではないのかい、石原さん、小泉さん。愛国心は強制するものではないし強制しても出てこない。
甲子園で母校の校歌が流れれば自然に母校愛もにじみ出てくる。

甲子園の熱戦やプロ野球セも開幕して球春到来だが、はたして人気長期低落傾向に歯止めが掛かるだろうか。
プロ野球と並んで人気がなくなったのは大相撲で、日本人の力士が活躍せず、モンゴルを始めとする外国人力士ばかり活躍していては応援する気も少なくなるというのも納得である。
相撲そのものも、はたいたり、引いたり、つまらない取り組みばかりで熱戦を展開という取り組みが少ないのも人気薄に拍車をかけているのだろう。
取り組みそのもののつまらなさの原因の一つに土俵の狭さがあげられる。現代は大型力士が多いのであの土俵ではいかにも狭すぎる。現在までには数回土俵を広くしているらしいが、私めが知っている限りでは広くなった記憶はない。
さてそこで、日本相撲協会では、相撲人気を回復するために土俵を広くするのももちろんだが、この際思い切って土俵を四角にするという決定がなされ、来場所から実施するということだ。
考えてみれば丸い競技場というのはなかなか思い出さない。サッカーもラグビーも四角、野球もダイヤモンドというし、日本古来の柔道ももちろん四角い試合場である。ボクシング、水泳、えーい、面倒くさいのであとは省略。スキーは四角い競技場でないけど、当たり前か。丸いのはカーリングの終点(あの円形の場所はなんていうんだろう?)ぐらいだ。
今より広くて四角い土俵、なかなか面白い取り組み、熱戦が期待できそうだ。相撲協会の英断に拍手!

民主党が相変わらず揺れている。
信頼できるある民主党関係者筋からの情報によると、小泉首相は総理大臣のまま自民党を離党し、民主党建て直しのため民主党に入党し代表に就任するという。
9月に退陣する小泉首相は経済も回復したし自民党磐石の態勢も作ったりと自画自賛しているが、唯一気がかりなのはかつて大連合の秋波を送った前原氏が代表を辞任して民主党がどうなってしまうのかということだ。
このままでは天敵ともいうべき小沢一郎氏が代表になってしまう。そうなると民主党は分裂の危機があるし、大連立はかなわなかったが、少なくとも二大政党制を模索してきた今までの努力が水泡に帰してしまうので、総ての役割が完結したと思っている小泉氏が決断したということだ。
そう言えば小泉総理が前原代表の辞任に際して、「失敗は2度3度ある、まだ若いのだからチャンスは必ずまた来る、頑張れ」、みたいなことを言っていたが、小泉氏は民主党に入って前原氏を鞄持ちにして鍛え上げる、そういうことだったのかと納得できる。
2006年3月31日(金)
選抜高校野球
選抜高校野球もいつのまにか準々決勝を迎えるが、WBCでの日本の活躍やセ・パ両リーグの開幕の話題などあっても、夏の大会に比べて今ひとつ盛り上がらないのはいつものことで、季節的なこともあるし仕方がないことか。
10何年ぶりだか出場の早稲田実業は激戦を勝ち抜いて今日準々決勝に進出だが、斎藤佑樹投手は一昨日は15回を投げぬき、昨日は3回から投げたそうだが、今日も投げるのだろうか。
日程の都合でこうなったのだろうが、いくらなんでも連日の3連投は酷すぎる。体が出来ているプロの投手でもそんな無謀なことはやらない。プロだからやらないともいえるが・・・
この大会が彼の野球人生の最後というのなら納得もするが、彼ほどの選手なら当然プロなり上を目指すであろうから、その将来性を摘み取ってはいけない。
もし3連投して敗北した時、決まってマスコミは美談に仕立て上げてケリをつける。お涙ちょうだいの美談はその時限りだが、彼の将来はまだまだ長い。
日本のスポーツ界、特に野球は選手のことを考えない。人工芝然り、プロ野球オールスターや高校野球の日程も然り。
見ている方は面白いが、甲子園至上主義が日本の野球をダメにしているとも誰かが言っていた。
大人の都合で有能な高校生の将来を潰してはいけない。
2006年3月28日(火)
翌日開票
横浜市長選で中田宏市長が再選された。
今回の開票は最近では珍しく翌日に行われた。かつては翌日開票が当たり前で、いつの頃からか即日開票になったが、私めはこれにはかねてから異存があったので、今回の横浜市の翌日開票という‘英断’にはもろ手を上げて賛成だ。さすがは中田市長という感じである。
即日開票はただ関係者が結果を早く知りたいというだけの理由でしかない。そのために市の職員を休日出勤手当てやら超過勤務手当てやらの特別出費を余儀なくされ、職員も休日の深夜までの出勤は大変であり、まったくもって不合理というほかはない。(手当てについては不確かです)
しかも選挙に携わった関係者も大変で、市長選などは候補者が少ないのでまだいいが、市議選などになると候補者が多いので、早々と当確がでる陣営はいいが、いつまでも当確が出ない陣営では深夜までも事務所に詰めていなければならず、晴れて当選が決まっても深夜それから各方面へのあいさつ回りなどしなければならないので各陣営入り乱れての選挙事務所廻りで、まるで夜逃げの練習のようだ。
殆んどの選挙が任期満了を残しての選挙であるから即日開票をして速やかに新首長や選良を決定という意味もないし、スローライフが尊重されつつある現代、即日開票の意義はまったくない。
今後各地で行われる選挙の開票では、今回の横浜市長選を見習って翌日あるいは投票後近日中の開票に際して様々な観点から都合のよい日に実施すべし。
2006年3月17日(金)
ホリエモン関連ギモン
文章を書くというのはなかなか簡単にはいかないものだし、また、年度末はいつもの月より特に仕事が立て込んでいるので駄文を書いている暇はないのだが、それでもこの欄が忘れられるといけないので今日感じた疑問を二つ。
@今日の東京新聞朝刊に例の永田議員が自発的辞職へという記事が載っていた。どうも分からないのが政治的用語で、分からないというより明らかに誤用というべきなのだが、その自発的辞職を促し、首に鈴をつける役目が鳩山幹事長ということなのだが、そういうのは自発的辞職ではなくて、強制的辞職っていうんじゃないの?
渡部国体委員長も前原代表もそういう意向だというのであるが、こうなったら解党的立て直しを図ると民主党は言っているのだから、解党してもいいのだ、永田議員、断固自発的辞職的強制的辞職を拒否すべし。
自民党もあまり追い詰めると、せっかく闇に葬ったボロが出るよ。
Ausenの宇野とかいう社長がフジテレビからライブドア株を個人で90億円以上で買い取ったという。宇野社長はホリエモンに続き個人第2位の株主になるということで、usenはライブドアとの業務提携でさらに業務を拡大するということのようなのだが、そのライブドアに対してフジテレビは345億円の損害賠償請求訴訟をするという。
うーん、どうも貧乏人には額が大きすぎることもあって、何が何だか分からないのだが、フジは宇野社長にライブドア株を引き受けてもらって助けられたわけだ。それなのに助けた人を訴えるということ?
フジの日枝会長は莫大な損失を出した責任回避のために、株主の手前リップサービスをしたのであって、その辺は宇野社長と裏で話し合いがついていると思うのだが如何に?
345億円もの損害賠償請求訴訟をされると分かっていてその相手から当該株を買うか?
2006年3月4日(土)
女子フィギュアスケート
汚名返上・名誉挽回を図らなければいけない民主党は、当面の国会ではどうにも自民党に歯が立たないことになってしまっているので、この際ちょっと目先を変えて多分殆んどの国民が反対しないであろうと思われる荒川静香への国民栄誉賞授与を自民党が言い出す前に提案してはどうか。
報道を見逃しているのかもしれないが、今のところどこからも荒川静香に国民栄誉賞をという声が聞かれないようなのはなぜだろう。
その荒川静香を始めとする女子フィギュアスケートだが、最近ますますエロになって来ていると感じるのはオイラだけだろうか。
先日どこかのテレビ番組でフィギュアスケートの歴史のようなものをやっていたが、それによるとかつてはジャンプは禁止されていたという。理由は、スカートでジャンプするとスカートが捲れあがって太腿などが見えてしまい卑猥であるからと言っていた。
その当時の選手や審判が現在のフィギュアスケートを見たらビックリ仰天失神脳天逆落し状態になるだろうな。夜の大開脚で顰蹙を買ったあの里谷多英もかなわない。
何しろ太腿どころか大開脚で股間まるで曝け出し状態で観客にアピールしているんだから。テレビを見ていても目のやり場に困る、でもしっかり見てるけど。いくら下に肌色のタイツらしきものをつけているといっても、スカートは申し訳程度のひらひら布がまとわりついているだけだし、勿論パンツ丸見えだし。そもそも肌色にしているということは本当は地肌でやりたいということなのではないのか。
週刊誌などはここぞとばかりに大開脚シーンのオンパレードグラビアだ。
どうも最近の女子スポーツは記録への飽くなき挑戦という意味でのウエアの改良も勿論あるんだろうけれども、世の中セクハラだのなんだのと男に対して厳しい態度な割には男の視線を挑発しているように思えてならない。選手が自らああいうウエアを着るのか、コーチが着させるのか、協会がやらせるのか、どうなんだ。
女子体操でも選手がよくウエアの下を引っ張って臀部を隠すしぐさをしている。あれって本当はあんなウエアは着たくないんじゃないの、選手は。
マラソンでもバレーでもテニスでも露出度がだんだんエスカレートしている。世の女性方はどう思っているのだろうか。
スカートでのジャンプが禁止されていた頃から比べると現代のフィギュアスケートは考えられないようなウエアだということは、50年はおろか30年後くらいには前張りだけの全裸で演技していることはないと誰が言い切れるだろうか。
30年後が楽しみだ、長生きしなきゃ。あ、違うか?
あ、そうそう、これとまるっきり逆なのがスノーボードのウエア。ズボンが今にもずり落ちてしまうのではないかと心配するほどものすごくだらしないウエアで、あんな格好でスポーツをやって欲しくないよね。もっとビシッと行け、ビシッと!
2006年3月3日(金)
下の続き
今回の永田議員のホリエモンメールはまさに下の欄で書いたようなレベルの話だ。質問の仕方が小学生レベルというだけのことで、実際のあらゆる真相は封印され闇に葬り去られてしまった。
真相がわからなくなったので、噂話の好きな我々庶民は必ずしも事実とは違っていても面白おかしく勝手な憶測をしてしまう。
国家の運営を網羅している予算を審議する予算委員会では、直接関係のない事項でもあらゆる事柄を質問できることになっている。質問であって恫喝的な断定ではないんだよ、永田町の永田君。
大体浮気の話だって、ただ訳の分からない手紙一つではどうにもならないんであって、決定的な証拠を出さない限り最後まで追及できない。どんな言い訳でもできるのであって、もしホテルのマッチがポケットに入っていたのを発見されても、誰かがいたずらに入れたんだろうとか、写真を撮られていたって、よく似た他人さとか、究極の言い訳は裸で二人で抱き合っているところに踏み込まれても、まだ挿〇前だったら、「この女が急にお腹が痛くなったんで仕方なく温めてやっていたんだ、人命救助だよ」なんて最後の最後までしらを切ることができるというね。(これはタモリだかたけしだかがよく使うギャグだ)
私めの長年の国会議員との付き合いで分かったことは、国会議員はまず人を見る眼がないということだ。たいした人付き合いのないオイラでも「あ、この人は危ないぞ」と思える人を平気で秘書やら側近にしてしまう。なんとなく胡散臭い人は初対面で話し方やら風貌やら態度で分かるものなのに、議員は人がいいのか世間知らずなのか疑うことをしない。これは選挙に弱い議員や、若い議員ほどそうだ。もっともこれには理由があることはある。議員は選挙に当選して何ぼの世界だから、選挙になると小中学生はおろか、猫でも犬でも挙句の果ては電柱も郵便ポストでも一票に見えてくる性癖があるので、甘言を呈して寄って来る人にはコロリと騙されてしまう。こっちの水は甘いぞって言われると本当は毒があっても飲んでしまうし、苦い水の方はと言うと良薬は口に苦しといった言葉があるくらいなのに当人にはそれが分からず避けてしまうのだ。結局そういう甘い言葉で寄って来る人はいわゆる票がない人なので、そんな人ばかり当てにしているからいつでも選挙に弱いという悪循環を繰り返すのみだ。
その点では地方議員のほうが地域密着なのでいろいろな様子が分かっている分だけ騙されにくいという事はある。
また、永田議員も謝罪で言っていたように国会議員は思い込みが激しく、なんでも自分の都合のいい方に解釈してしまう傾向がある。
誰が誰を何のために騙そうとしたのか真相は総て薮の中になってしまったが、騙したほうはしてやったりなのか、ちょっと意図と違ってしまったのかどうなんだろう。掛からなくて元々のルアーやフライのような疑似餌のつもりでセットしたのに思わず食いついた魚がいて、「へ−、こんなルアーにも掛かるんだ」なんて驚いているというのが実際の話なんではないだろうか。
ドラマのシーンだったら「だからそうじゃないんだよ、メールで振り込み指示じゃなく、現金でT氏に直接渡したんだってば」という鉄格子の中のH氏の叫びが聞こえてくる場面だが、そのドラマも視聴率はよかったのに途中打ち切りとは。これじゃただのブラックジョークだ。
それにしてもホリエモンが供述調書にもサインせず頑強に容疑事実を否認しているとはどういうことなんだろうか。
2006年3月2日(木)
浮気がばれそうになった
今国会では4点セットの追及を何とか逃れられても人気は落ち目になるだろうから、それを回復するにはこれしかないと思っていたら本当に期待通りに荒川静香が金メダルに輝き、さあ、予定通りだ彼女に国民栄誉賞だ、なんといっても日本唯一のメダルがゴールドなんだから国民は誰も依存があるはずはない、と張り切っていたのに、なんと言うことだ、民主党のオウンゴールじゃないか、これでは国民栄誉賞与えてもインパクトがなくなるぞ、どうしようか、次のスキャンダル発覚までとって置くか、と総理が思ったかどうかは知る由もないが、民主党は大チョンボやらかしたね。

「あなた!あなた!ちょっとそこにお座りなさい!」と妻はすごい剣幕で夫を呼んだ。
「な、何だよそんな怖い顔して」
「何だよじゃありません、あなた、私に何か隠してることがあるんじゃありません?どうなの?あなたには私っていう妻がありながらまったく、良心も愛情も人情も何にもないのね、心も体も売ったのね。鬼!」
「薮から棒に何だよそのひどい言い草は、隠してることなんてあるわけないだろ、一体何のことなんだよ」と夫は強がって言ってみたものの、まさかあのことがばれたのではなかろうなと、内心ビクビクものだった。
「じゃ、何よこの手紙の内容は、あなた、A子と浮気しているのね、キー!」ついに妻は夫に対して問題の核心に迫った。
「バカなこと言ってるんじゃないよ、俺がいつA子と浮気したんだよ、だいいちA子なんて女はどこの誰だか知らないし、会ったこともないよ」と夫はなおも平静を装うが、内心は『ウ、マ、まずい、ちょっと違うけど、いつどこでバレたんだろう、まさかホテルのマッチ・・、いやレシート・・・、いや写真を撮られたかな』と動揺していた。
妻はなおも追及する。
「どうも前から態度がおかしいと思っていたわ、世間様の噂でもなんだか怪しいと思っていたらやっぱり浮気だったのね。この手紙にちゃんと書いてあるわ、あなたがA子とBホテルに入るところを見たって」
「そ、そんなこと言ったって俺は知らないよ、ちょっとその手紙見せてみろ、一体誰から来た手紙なんだよ?」
「誰から来た手紙だっていいじゃないの、この手紙は見せられないわよ、見せたらあたしのその人に対する信用が無くなっちゃうじゃないの」
夫も自分の罪を隠すのに懸命だ、なおも食い下がる。「おまえなア、誰から来た手紙かも明かさないで一方的に俺が浮気をしただろうはないだろう。そんなのどうせ暇なトラブルメーカーのどっかのババアが人違いかなんかしたのに構わずにおまえに手紙を出したんだろうって。どうせ世間の評判の良くないろくなやつじゃないんだろ、その差出人は。写真か何か証拠になるようなものでもあるのか?」
「な、ないけど、ホテルの入り口であなたとA子を見たって書いてあるからきっとそうよ」
「バカなこと言うんじゃないよ、まったく。ただそのおせっかいババアが見たって言っただけで何の証拠もないのに俺を疑うなんてどうかしてるよ、あぁバカバカしい、さあ、飯だ飯だ」
夫は形勢逆転、これは無罪放免、何とかごまかせるぞと確信した。
夫が事実無根を頑強に主張したのには理由があった。浮気をした事実は確かにあったのだが、この手紙の内容は事実と異なっていたのだ。手紙を出した主はあまりにあからさまに事実を書くと差出人として自分の姓名がばれてしまい、後々困ることになる事もあろうかとわざとはぐらかしておいたのであった。事実と違っても類推していけばこの夫の行状は明かされるだろうと。
そうです、浮気の相手はA子でなくC子、ホテルもBホテルでなくDホテルだったのです。
どこかで聞いたような話だ。(この話はフィクションです。)
直木賞受賞作「容疑者Xの献身」もちょっとこれに似ている。
続く。
2006年2月18日(土)
スタート
立川志の輔が文化放送の自分の番組の中で、現在行われている冬のオリンピックのスピードスケートのスタートについて述べていた。スピードスケートの短距離などは100分の何秒というごくごくわずかの差で勝敗が決まるほど微妙なものなのに、その割にはスタートが大雑把である、何とかならないのか。二人以上で競技するのは見ている人を楽しませる為にしているのだが、本当に記録で勝敗を決するならピストルの合図でなく陸上競技のように各選手にスタートセンサーをつければ良いと、概要そんなことを言っていた。
確かにそうだ。私めも常々大体同じような意見を持っていたので、さすがは大学の後輩、我が意を得たりと嬉しくなった。
フライングもなんだか公正なんだか不公平なんだかよく分からない。2回目にフライングした選手が有無を言わせず失格なんてちょっとおかしいし、該当者は誠に気の毒だ。
一人で滑走するアルペンのダウンヒルのような競技は、詳しくは分からないが、見ている様子ではバーのようなものを脚で押してそれが開くと自動的にタイムが記録されるようになっているようだ。こういうようにすれば確かに記録は正確に計れる。
今回から新種目として採用されたらしい雪上のモトクロスともいうべきスノーボードクロス競技は4人で一斉にスタートしてゴールまでの速さを競う。このスタートはバーのような物が前に倒れて、それを合図に一斉にスタートしていた。これだとバーが倒れない限りスタートできないのでフライングも無いしスタートは公正だしタイムも正確に計れる。
競馬のスタートもこのようなもので、各馬ゲートインしてから一斉にゲートが開くのでフライングはないし、中にはゲートが開いてもスタート体制になかったりすりと出遅れたりする。これはこれで公正だ。
スピードスケートもこの方式を採用したほうがいいと思う。そして例えば「用意」の合図があってから3秒から5秒以内とか、いつゲートが開くか分からないようにファジーにすれば非常な緊張感がスタート時に生まれて見ている方も面白いし、的確なスタート時の反射神経が要求される。現在のようにスタート前にわずかでも動くとフライングというのも記録とはほとんど関係ないのではないかと思われるので、ゲート一斉オープン方式にすればいくら動こうがフライングに該当無しだ。
100メートルなど陸上短距離のスタートはスターティングブロックにフライングセンサーを採用しているらしいが、いまだに用意・ドンでピストルを合図にしているとはお笑いだ。聴覚から来る反射神経とゲートが開いてスタートするいわば視覚の反射神経の関係を研究したほうが良いのではないか。
競走競技は競馬を見習うべし。
走り幅跳びなど跳躍競技は踏み切り板をわずかでも越えるとファウルになるが、ファウルでなければ実際に跳躍した距離は優勝相当なのになんてことはよくある。踏み切り板のかなり手前で踏み切ってファウルでなくても記録は踏み切り板からの跳躍距離になるので、これも実際に飛んだ距離とずいぶん違ってくる。踏み切り板を越えたらファウルとするのは仕方ないとしても、手前で踏み切った場合はその踏み切った位置から測れば正確な実力通りの跳躍距離が測れると思う。現在の科学で測れないはずがない。
しかも手前で踏み切ってそこからの距離が認められれば思い切って跳躍できるので記録も伸びるしファウルも少なくなるので競技時間が短くなり、スムーズな運営ができるようになる。
トリノオリンピック、私めの日本のメダル予想は期待を込めて、スピードスケート500メートルの加藤条治、ショートトラックで誰か、アルペンスラロームの佐々木明、女子フィギュアスケートで一人誰かの、メダルの色は関係なく4個だったが、どうやら予想外れになりそうだ。
2006年2月7日(火)
日本橋
小泉首相が東海道五十三次の起点になる日本橋の上に覆い被さる首都高の移設検討を経団連奥田会長らに要請したらしいが、その費用概算がなんと3000億から5500億円!バカも休み休み言えだ。どうせ利権が絡んでいるんだろうが、そんな金があったら災害復旧のために使えと言いたいのは、大雪や地震や洪水や耐震偽造等々の災害・被害に遭っても国から何も援助してもらってない人たちだけではないだろう。また、石原都知事はそれより日本橋を移設したほうがいいとか能天気なことを言ってるらしいが、この人たちの頭の中はどうなっているんだ。日本には国民のために先に為すべき事が山ほど有るというのに。
ここにも一極集中、地方・弱者切り捨て、弱肉強食の思想が色濃く映る。
一方、浸水を防止する目的で作られた世界最大規模の地下河川「首都圏外郭放水路」が全面運用を前に公開された。これが完成すると首都圏の浸水などの被害が大幅に軽減されるという。
この総事業費が2400億円。これなら多少利権が絡んでも(いけないことではあるが)納得してもいいかなというのが人情だろうに。
2006年1月30日(月)
読書
このところずっとアウトドア(ライブドアではありません)関連等の要保存版を除いて本は市の図書館から借りて読んでいた。図書館で借りると無料なので私のような貧乏人には誠に都合がいいが、人気本などは予約してから手元に来るまでにかなりの日数がかかり、借本申込みをしたのを忘れた頃に来るというのがたびたびあった。
しかも借りられても予約者が多いと余計返却期限を厳守しなければいけないので完読せず返却などということもあって、やはり本は自分で購入しなければいけないと思うようになった。
本を購入といっても私のように殆んど外出せず仕事している身にとって本屋さんに行ってパラパラとめくり内容を確かめて気に入った本をというような楽しみはなかなか出来ないので、新聞や週刊誌等の書評を参考にするしかないが、それはそれで内容の当たり外れを賭ける楽しみにすればいいだけだ。
そこで今回、まだお目にかかったことがないが敬愛する東京農業大学教授小泉武夫先生の「☆味覚人飛行物体☆美味巡礼の旅」(毎日新聞社刊)と「料理道楽食い道楽」(日本経済新聞社刊)を遅ればせながら初めてamazon.co.jpに代金引換で、また「新源流紀行−深山幽谷の渓魚を訪ねて−」(有限会社モア刊)を出版社に直接メールで代金振込みで申し込んでみた。
ITと物流の発達は誠に便利で3冊とも2〜3日で届いた。望む物は一時も早く手に入れたいのは人情で、この希望する書籍を待つ気持ちというのはなかなかいいものだ。しかも借りるのでなく自分で購入するのだからなおさらだ。
今日届いたばかリなのでまだざっとめくっただけだが、多分読後は満足できる内容だと思うし、何よりもいつも手元にあって読後も参考にできるというのが当然だがやはり嬉しい。
希望した本が3冊手に入って喜んでいたら、近所の友人が直木賞受賞作の「容疑者Xの献身」(東野圭吾著 文藝春秋刊)をもう読んだからといって貸してくれた。その友人はこれを直木賞が決まる前に買って読んだらしい。東野圭吾と言えば既に中堅の作家で新人対象の直木賞には似つかわしくないが、出版社の思惑もある。まあ、賞が決まる前に購入して読んだというのはなかなか先見の明があるぞ、この友人K氏。
というわけで、当面読む本が一気に4冊になってしまったけれど、図書館で借りた本でないので期限付きでないのが嬉しい。
あ、そうそう、昨年の11月からいつも枕もとに睡眠薬代わり、あるいは魔除けになっている文庫本もあったっけ。わが高校時代の恩師、今は亡き中平浩司先生が訳したルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」。
『世界とは出来事たる一切である』で始まる本論はおろかバートランド・ラッセルの序文を通過するのにも睡魔と頭の中の思考回路のショートさらには断線と戦わなければいけない。で、本は埃をたまに払う状態に相成ってしまっているのでございます。中平先生、ごめんなさい。
2006年1月25日(水)
アドバイス
人生一寸先は闇、天国から地獄というのはこのことで、ホリエモンも逮捕された。
この事件は一種の国策捜査なので、あれだけ持ち上げていた小泉総理や竹中、武部氏も当然事前に了承していたと思われる。それがGOサインを出したのだからホリエモンはいくら否認しようが逃れようがない。しかも特捜が予告もなく一斉に動いたということはかなり裏付けを取っているということだ。
ここは一応、本人は承服し難いであろうが、あってもなくても素直に認めるしか手はない。
日本の現行法による訴訟においては、証拠力や範囲などを裁判官が自由に裁量する自由心証主義を採っているので、このまま否認を続けては地検や裁判所の印象を極めて悪くし、起訴→実刑有罪となるのは間違いない。
憲法に保障された思想信条の問題ではないので、自己主張を貫徹しての徹底抗戦は得策でない。
ホリエモンはまだ若い、実力もある。うまくいけば起訴されても保釈が認められ有罪になっても執行猶予つきで済むかもしれない。今はそれをねらい早く出てきて真面目に自分の能力を生かしたほうがいい。
経験はないけどアドバイスなのだ。
やはり予想通り大勢の人の命が懸っている耐震偽装や狂牛病や大雪の被害の問題はかすんでしまった。
今の日本で本当に追求すべきはなんなんだろうか?
2006年1月23日(月)
その時の判断
アメリカからの輸入牛肉に危険部位が混入していた問題で、安倍官房長官は昨年の輸入再開決定について「その時の判断は間違っていない」旨の発言をした。
小泉総理を始めとする日本政府中枢は政策的ミスがあるとこの種の発言を繰り返して責任を取ろうとしない。イラク問題然り、ホリエモン問題然り、耐震偽装問題でも然り。
「判断が甘かった、間違っていた。責任を感じている」ぐらいの素直な発言がなぜ出来ないのだろうか。
そもそも判断が間違っていたからそういう結果になったのであって、日本語としてもおかしい。
下の欄に車の話を書いたので車の例で言えば、高速道路で入り口を間違えて逆送したドライバーが幸い事故に至る前に発見され事なきを得たが、逮捕されて「その時の判断は間違っていなかった」と言うようなものだろう。この手の言い訳は重大ミスの時が多く、人の生死に関することが多い。そう言えば医療ミスなどでもよくこの手を使う。
これでいけばあらゆる犯罪は無罪放免になってしまうし総ての戦争は正当化される。
この程度の人物が政府の中枢にいて、しかも次期総理の呼び声も高く、国民的人気が高いとは恐れ入るが、まあ、トップがそうなので仕方ないか。耐震偽装事件で名前も出たし狂牛病問題でもミソをつけたので、多少は人気が下がるかも知れないが。
印刷ミスをしても責任を取らず「その時の判断は間違っていなかった」なんて言ったら、即お得意様を失いますね。
2006年1月21日(土)
狂牛病
米国の圧力で昨年12月に再開されたばかりの米からの輸入牛肉に狂牛病の特定危険部位の脊柱が入っていたということで再び全面輸入禁止になった。
こういうときによく言われるのは「だから言ったじゃないの!」ということだ。今回はその特定危険部位が目視で簡単に見つかる所だったからいいけれど、そうでないところが市場に出回って狂牛病が発生していたら、「だから言ったじゃないの」では済まされない。
昨年のライス国務長官やブッシュ大統領の来日以降急に輸入再開ということなので政治的圧力であったことは明らかだが、ことは生命に関すること、そんな都合で簡単に重要な政策を変えてもらっては困る。それも改革なのかね?
大体アメリカという国の気質は万事大変大雑把なので、いちいち狂牛病のことなんか考えていないし、危険部位のチェックなんかやらないと思う。そうでなければ見ただけですぐわかる危険部位なんか入れない。
筆者はアウトドアで活動することが多いので、フルオープンになるジープのかなり古い型の’J3’やトヨタのランドクルーザー、さらにいまだにわがHPのトップを飾っているジープのチェロキーと乗り継いできた。チェロキーは8年ほど愛用したがついに3年ほど前手放した。なぜかというとものすごく故障が多かったからだ。ただし、これはうちの車だけかもしれないが。
車にその国の国民性を散見できると思うのだが、わがかつての愛車チェロキーの故障の例はこうだ。

右側ドアの取り付け部分の溶接が剥離してドアの開け閉めが完全でなくなったので再溶接。
高速道で休憩の際足回りを点検したら左前車輪付近からオイル洩れを発見した。サービスステイションで見てもらったが原因が分からない、ブレーキオイル洩れだと大変な事故になる恐れがあるので注意しながら何とか帰って来たが、あとでディーラーに点検してもらったら、高速で走るとブローバイガス装置からオイルが逆流してそれが左側車輪付近に付着していることが判明。一応ブレーキには支障がないと分かったが、それを修理するのにはエンジン本体を取り外さなければ出来ないと言われ、高速で走ることもそれほどないのでいいかと修理は諦めた。
最後部ドアの開閉の際に作動するオイルダンパーの故障で開扉時に上方で止らず、仕方ないのでつっかえ棒で代用した。たまに開扉時にそのつっかえ棒が外れ、頭部を強打したことがあった。
フロントパネル内の各計器の照明が総て消えた。どこかがショートしていてヒューズが跳ぶということが分かったが、それを修理するのにはフロントパネル全体を外さなければ出来ないというので、もちろんこれも上の故障修理と同じように多大の修理代が掛かるという事なので修理は諦め、そのまま乗っていた。夜は計器が何にも見えないので非常に困った。
ラジオを点けると自動的にアンテナが出るが(これも大雑把で、点ければ真っ直ぐ伸びて最高点まで行き、消せば車体に総て収まる。アンテナは途中では止らない)、このアンテナが出なくなる故障。(こんなのは大した事ないが)
車内のバックミラーの剥脱。これは強力接着剤で自分で直した。
ざっとこんなものだが、この他にもよく前照灯や後尾灯(古い表現だ!)が消えたり、電気系統の故障が多かったり、細かい故障はあったがいちいち覚えてないほどだ。また、この例の修理は個人負担分で、この他にリコールが確か2回ほどあったと記憶している。

フー!思い出して書くのに疲れた。(よく思い出せばまだ重大な故障があったかもしれないが。)
チェロキー愛好家はかなりいたが、よく「島崎さん、まだチェロキー乗ってるんですか、頑張りますねえ、私はとっくに諦めましたよ」なんて言われた。林道や山道、オフロードを走るにはガンガン行くし申し分なかったのだが、この故障の多いのには泣かされ、ついに私めも諦め今は日産の車だ。
米国車は日本のような狭い国でチマチマ走るように出来ている車ではなく、広大な西部の大平原を岩にぶつかり、川を渡り、コヨーテを轢き殺しながら走る車というイメージで作られているのだ、多分。
車と狂牛病は関係ないかもしれないけれど、要するにその国の国民性や気質、考えが食品や料理、他の様々なものに引き継がれているので、食品で言えば狂牛病なんて考えは端からないということだ。
何しろ何万頭だか何百万頭に一頭の発症率なんて米国ではゼロということなのだ。
その国民性をよく理解した上で付き合わないと大変なことになる。
誰だかが、狂牛病BSEなんて言い出したのは誰だと。狂牛病と言わなくてはその恐怖心が薄らぐと言っていたが、そう思うので、狂牛病。
2006年1月17日(火)
風説の流布
出る杭は打たれるというけれど、早くも打たれたか時代の寵児ホリエモン。
耐震強度偽造でヒューザーの小嶋社長の証人喚問の前日に家宅捜索をぶつけた権力の狙いは?
与党の証人喚問の質問者はヒューザーと関係の深い伊藤公介元国土庁長官の所属する森派の二人とあっては裏に何かあるのか?は適当にお茶を濁しておいて、マスコミは今までさんざん持ち上げてたくせに掌を返したように権力の尻馬に乗るどころかお先棒を担いであることないこと書き立て、ホリエモンバッシングに走るに違いない。それが我がマスコミの常套手段だ。
今日は宮崎勤の最高裁上告審判決もあるし、11年前阪神大震災の起こった日でもある。報道から耳目を離せないが、またやったぞ日テレ、やらせ報道!
昨夏のニュースで名簿売買の販売シーンでやらせがあったらしい。どこまで信じていいのか報道?

M&Aとか株がどうしたのとよく分からないホリエモン問題は各紙トップだったが、殆んどの一般市民にとって話題性はあっても他人事(ひとごと)だ。耐震強度偽造は実際に命にかかわる問題なので阪神大震災が風化する中で、とても他人事とは思えない。
しかもこの大雪でかなりの家屋が倒壊しているし、雪国にとっては風説の流布より風雪の流布のほうが切実な問題だ。
2006年1月7日(土)
豪雪
今冬の豪雪地方に対して小泉総理が自衛隊の出動を示唆したとか検討を指示したとか報道されているけど、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんじゃないの。総理大臣は自衛隊の最高指揮官なんでしょうから総理が「即出動!」って言えばいいのと違うの?
またある町では一人暮らしのお年寄りがこの大雪で閉じ込められたり生活が困難になったり、さらには雪下ろしもままならないので生命の危険があるというので町では今後の対応を会議するところであるなんて報道もなされていたけど、これもそんなことで会議なんかやってる場合じゃないんでは?しかるべき責任者が「一人暮らしのお年寄りを安全なところに避難させよ」って言えば一言で解決なんでは?
地震や豪雨や大雪等々の自然災害でも国民を助けない政府が、さらにいざというときに助けると思いますか?
2006年1月6日(金)
年頭所感
当社のメインバンク(と言うほどの付き合いじゃないけど、一度この言葉を使ってみたかったのだ!)がUFJ銀行から合併により三菱東京UFJ銀行という名に変わった。三和銀行からUFJに変った時も「なんじゃこの名は」なんて思っていたけれど、今度の行名は長くて書くのが面倒くさい。但し前行名と違って単純だがどことどこが合併したか分かりやすいし、力関係も一目瞭然ということはある。まあ、それが分かったからといってどうという事もないが・・・
印刷の仕事に携わっていると、いろいろな名称の変更というのが厄介で、昭和から平成に変ったり、郵便番号が変ったり、電話番号の桁数が変ったりすると旧版が使えないのでいちいち新名称に直すことになる。
昨年結局ご破算になった入間市と狭山市の合併問題の際も印刷発注者も受注者も調整にかなり悩んだと思う。印刷物は部数が多いほど単価が安くなるので、新市になるのかならないのか?また、新市名は?と言っているうちに使用している伝票が無くなってくるので仕方なく在来版で小部数の発注をすると単価が高くなるのである。
伝票関係などはお客さんは無くなってから注文ということがままあるので、私共では取り敢えずの間に合わせのためにある程度の冊数を余分に刷って在庫しておく。相当以前から名称変更を周知してくれればいいのだが、いきなりの場合はその在庫部数の調整が出来ないので総て無駄になる。
新名称になると印刷の発注が増えるとお思いの人が多いようですが、お客さんは手元にある在庫印刷物は変更箇所を訂正をしてそのまま使うし、新しく発注する場合は新版でということになるので、結局印刷業者は在庫分を廃棄しなければならないのでマイナスになるのです。しかも新しくした版の制作費はいつもお世話になってるお得意さんということでサービスということが多いので、やっぱりプラスにはなりません。
財界のお偉方の新年経済予測・所感では堅調あるいは上昇予測が殆んどの中で、みずほFGの前田社長だけは景気回復に実感がないと言っていたのが印象的だ。合併の際のコンピュータートラブルがまだ尾を引いているのか、あるいは言っている通りの日本経済なのか?
2006年1月1日(日) 明けましておめでとうございます。皆様にとりまして今年が良い年でありますように。
なお本年もよろしくお引き立ての程お願い申し上げます。