『凪を求めるあの鳥は / 永瀬月臣』



「夕凪の音をね、聴こうと思って」

 彼女は言った。河口を見渡す橋の上で、二人きりの夕闇の中で。
 水面は夕日の茜を受けて、金色にきらきらと光っていた。その光に目を細めると、沖に小さな船が二艘あるのが見えた。橋の周りを海鳥が飛んでいる。風にその身を任せる彼らは、自分がどこへ行くかをも決められないようだった。漂うように、あるいは舞い落ちるように。あるものは滑空し、あるものは上昇した。僕はそんな景色の中で、彼女と二人、海を見ていた。

「夕凪?」
「そう、夕凪。もうすぐだと思うの。もうすぐ、風が止むわ」

 未だ海から吹き続ける風に髪を押さえながら、彼女は川の終わりを見る。僕も同じ場所を眺めようと思った。彼女を視界から追い出してしまうのは勿体無かったけれど、彼女が見ているものを見られないことはもっと勿体無いような気がしたから。
 どこか遠くで鉄橋が叫んでいた。背後からは時々思い出したように車の音が聞こえ、そこらじゅうで海鳥が鳴いていた。波は穏やかだった。夕日は眩しかった。長い旅を終えた川の水は、静かに光の中に飲まれていく。まるで最初からこの夕暮れを知っていたかのように、川は静かに光を目指していた。風はまだ止まない。

「夕凪ってさ」
「うん?」

 彼女は振り返らなかったし、僕も海を見たままだった。

「夕凪って、風が止む時のことだろ? そのとき、音なんかするの?」

 僕がそう言うと、彼女はやっと僕の方を振り返った。驚いたような顔。でも一瞬後には、彼女はくすくすと笑い出した。風に溶ける穏やかな声。笑うたびに、風とは違ったリズムで白いワンピースが揺れる。

「そっか、あなた火星の出だったものね」
「そうだよ。壁の街。人工洋だって2回しか行ったことがない」
「最果ての街だね。あの街は風が止まないんでしょう?」

 僕は頷いた。そして、あの懐かしい街を思い出した。壁の街。火星のコロニーの、最果ての地。


      ◆


 両親があの街に移り住んだのは、僕が生まれる2年前だった。父は火星開発における最大の問題、――つまり、大気の維持に関する研究の第一人者だったから、その現場を監督するためにわざわざあの街に移り住んだのだそうだ。世界の中心から最も遠い街。コロニーの外周を720に区切ったうちの第341区が、両親が移り住み、僕が生まれた街だった。街の名前は無い。誰しもが、その720の街を壁の街と呼んだ。
 壁はどこまでも続いていた。
 正確に言えば、それはただの壁ではなかった。無限にも思えるその壁の一つ一つは、父や多くの研究者によって考え出された特殊な装置だった。地上で精製された大気を留め、吹き荒れる砂嵐を防ぎ、熱を逃がさず、紫外線を弾き返す。そんな防護壁をドーム状にコロニーに張り巡らせるのが、その無骨な装置の役目だった。一世紀前では考えられなかった知識と技術の結晶体。その壁の為にあの街は在り、あの街のために僕が在った。そして、あの壁はすべて、コロニーで生活する全ての人の為に在った。コロニーで過ごす何人かは、その事実さえ知らなかったけれど。
 壁はどこまでも続き、砂は溢れていた。
 あの街は砂の街でもあった。もともと火星は砂の星だ。延々と続く砂漠の姿を、僕は毎日のように眺めていた。地球の砂とは違う、赤い砂。壁の外からは絶えず砂嵐がやってきて、防ぎきれなかった砂は毎年数センチずつ積みあがった。僕の家でも、年末には必ず雪かきならぬ砂かきをした。集められた砂は毎日壁の外に捨てられていたけれど、それでも壁から数キロは砂漠だった。広大な砂漠の向こうに霞む、無限の壁。
 壁はどこまでも続き、砂は溢れ、風は止まなかった。
 720あるあの街は、時々風の街と呼ばれた。コロニーの外周区は例外なく風が止むことがなかったからだ。砂嵐は防護壁を歪め、風を生んで消えていく。おかげで、風は街中に溢れ返っていた。砂は積みあがるけれど、風は積みあがることを知らない。彼らは互いにぶつかり合い、泣き叫び、狭い路地を駆け抜けていく。家でテレビを見ていても、頭から布団を被っても、いつもどこかで風の音がしていた。時には雨のように、時には掠れた喉のように。風力発電のプロペラは、いつも大きな影を落としている。
 簡単に言えば、僕の街はそんな街だった。


      ◆


「地球に来て何年経つの?」
「両親が死んでからだから、……もう6年になるかな」
「そう。でも、まだ夕凪の音を聴いたことはないのね?」
「うん、ないね」

 僕らは風が止むのを待ち続けた。太陽はゆっくりと海に沈んでいて、さっき見えた船はいつの間にか見えなくなっていた。その代わりに、太陽を掠めるようにシャトルバスが飛んでいく。銀色の機体もまた海の波と同じように、太陽の光を受けて黄金色に輝いていた。名も知らぬ海鳥が視界を横切る。

「ねぇ、鳥の数が減ってきたと思わない?」

 彼女の言葉に、僕は周りを見渡してみた。ついさっきまで数え切れないくらい飛んでいた海鳥は、確かにその数を減らしていた。彼らはどこに行ったのだろう。自分たちの家へと戻ったのだろうか。

「もうすぐよ」

 彼女の言葉と共に、目の前の一羽が音もなく空を滑り落ちていった。


      ◆


 両親は、壁の為に生き、壁の為に死んだ。
 その日はなんでもない一日だった。時間通りのAGM式シャトルバスでコロニー中心地の学校へ行き、少し退屈な歴史の授業を受けていた。AGMの発見からの近代史。僕らにとっては当たり前のその物質を、歴史の先生は『神の石』なんて大げさに説明して僕らを笑わせた。
 そんな気だるい昼下がり。それをぶち壊したのは、慌てて教室に駆け込んできた担任だった。

『第341区から来てる奴はいるかっ!?』

 僕が暢気に手を挙げると、担任は僕に走りよって耳打ちをした。

『ついさっき、第341区が封鎖された。最外壁が爆破されたんだ』

 シャトルバスで戻ると、もうそこに僕の街はなかった。あるのは壁、それだけだった。最外壁が破壊されたため、341区を取り囲むように設置されていた予備の壁を起動したんだそうだ。可及的速やかに、中の住人が逃げる暇もないうちに。
 風が、吹いていた。
 その風の音を、今でもはっきりと憶えている。あの街にはいつだって風の音が満ちていたけれど、そのとき聴いた風の音は今まで聴いたこともないような歌だった。道行く人は遠巻きにその壁を眺め、慣れない強風に髪や服の裾を押さえていた。僕はただただ、その風の歌に聴き入っていた。そうすることだけがその時の僕に出来る精一杯だった。
 壁を爆破したのは、どこかの自然主義者だった。どうして自然主義者が火星にいるのか分からなかったけれど、彼らは確かに存在し、自然への冒涜だと叫んで爆弾を起爆させた。わけが分からなかった。馬鹿馬鹿しすぎて、考えることも億劫だった。酸素を作り、水を作り、AGMによる移動手段が主流の科学の街。そんな場所が、最外壁の破壊くらいで自然に還るはずがないことなど子供にだって分かるだろう。彼らがしたことはただの虐殺だった。人間を酸素のない砂嵐の中に放り込んだだけだった。僕の街は消え、両親は死に、コロニーは齧られたピザみたいに歪になった。
 そして、僕は風の歌の中で立ち竦む。


      ◆


「風の歌を聴いたことはある?」

 そう問いかけると、彼女は少しだけ戸惑った後で静かに首を横に振った。

「ないわ。あなたが夕凪の音を聴いたことがないようにね」

 海鳥はもう見えなかった。


      ◆


 あの歌を思い出したのは、地球へ向かう星間シャトルバスの中だった。正確には、空間連結ゲートをくぐる途中。その巨大な金色の輪は、嫌でも僕にコロニーの姿を思い出させた。上空からコロニーを見ても思い出さなかったのは、もうあの場所から341区が欠け落ちてしまっていたからだろう。
 その瞬間まで、僕はすっかりその歌のことを忘れていた。精神的にかなり参っていた所為もあるだろうし、それ以上に移住の手続きや退学の手続き、荷造りや遺産のやりとりだとかで忙しかった所為もあったんだと思う。それらを全て片付け、半ば眠りに落ちたような頭でそのゲートを目にした時、その歌は濁流となって僕の脳に溢れかえった。あの街の壁のように、あの街の砂のように、あの街の風のように。
 そして、真実それは風の歌だった。
 僕は混乱した。今まで避けてきた全ての混乱に飲み込まれてしまったみたいだった。体中から汗が噴き出し、心音は風の音を更に強固なものにした。目を開けていると眩暈がし、目を閉じていると吐き気がした。僕の想像はまったき混沌の中に埋没し、僕の過去と僕の未来は野菜ジュースよりもかき混ぜられた。境界線はどこにもない。僕の中にあった全ての壁が取り払われ、僕の思考は酸素の無い砂嵐の中に放り込まれる。風と砂は僕の表皮を丁寧にはがし、筋組織の隅々にまで潜り込んだ。指を動かすたびに砂が軋み、息を吸うたびに肺は砂で満たされる。それを運んだのは風の歌だった。風の歌は僕の中にあの街を作ろうとしているみたいだった。壁に取り囲まれ、砂に埋もれ、風に削られていく第341区。僕は砂で満たされていき、壁は風に侵食され、血液はあの赤い砂に取って代わられてしまっている。耳だけが正常だ。耳だけが、まだあの歌を聴き続けている。僕の思考は砂嵐の中で消え、降り積もる砂の上に耳だけが落ちていた。混乱は混沌を懇願し、混濁した意識に混声のあの歌を混同させる。ソプラノより高く、バスより低い風の歌。僕の中に街が出来る。僕の中に街が出来る。空間を連結するより早く、金色の輪を抜けるより早く。
 そして。
 そして、ついに風は止むことを忘れてしまった。
 気がついた時、僕は座席を倒して造られた即席のベッドに寝かされていた。ベッドサイドには乗務員のお姉さんがいて、ちょうど僕の額に乗せるタオルを交換しようとしていたところだった。

『きぶ……はどう……か?』

 彼女の声を、風の音が邪魔をする。空調が随分強いと、そう思った。

『おきゃ……ま?』

 心配そうな声。僕は大丈夫だと伝えようとしたけれど、言葉を発しようとするとひどい吐き気に襲われた。どうしてこんなことになっているのか自分でも分からなかった。ただただ、風の音だけが聴こえていた。僕は吐き気をこらえてなんとか座席から起きあがった。窓の外が暗い。

『間もなく地球です。ご気分はどうですか?』

 今度はちゃんと言葉が聞こえた。たぶん体が風の音に慣れたのだろう。もともと僕は風の街で育ったのだ。風を気にしない術なら心得ている。

『大丈夫です。少し吐き気がするだけで……。僕はどうしたんですか?』

 そう尋ねると、彼女は僕が空間連結ゲートを通過中に意識を失ったのだと言った。特に異常はないし、こういう症状は稀にあることだから気にするな、とも。僕は彼女に礼を言い、本来の仕事に戻る彼女の背中を見送ってから窓の外に目を向けた。
 そこは宇宙空間だった。暗いと思ったのは一瞬のことで、眼下には地球の青がどこまでも広がっているのが見えた。ゲートは衛星軌道上にある。シャトルはこれから少しずつ高度を下げて目的の空港へ向かうとのことだった。後方を見ると、シャトルが通ってきただろう空間連結ゲートが小さく見えた。漆黒の宇宙空間にぽつんと浮かぶ、金色の輪。
 それを見て、僕は漸く全てを理解した。
 混乱はやってこなかった。それどころか、今の今まで僕を苦しめていたひどい吐き気がすぅっと消えていくのが分かった。考えてみれば当たり前のことだ。僕は混乱したのではなく、『全てを理解した』のだから。
 僕は理解した。あの風の歌がなんだったのか。あの歌は鎮魂歌(レクイエム)だったのだ。僕の中に作られた街。砂に埋もれ、壁を失い、ただ朽ちていくだけの風の街。僕の中だけの、僕が抱える、僕にしか見えない壁の街に響くあの歌は、僕の思い出や、僕の両親や、僕の過去、過去の僕が描いた未来、理想や思想や信念や信条、そういったあの街のすべての魂を鎮める歌だったのだ。
 レクイエムは止むことを知らない。魂が鎮められるその日まで、あの街に吹き荒れる風のようにレクイエムは歌われ続ける。ぶつかり合い、泣き叫び、狭い路地を駆け抜ける風の歌。気にせずとも聴こえるほどの音で、気にしなければ聴こえないほどの音で、高く低くその歌は歌われ続けた。
 風は、もう止まない。


      ◆


「あの街は、本当に風が止まないんだ」

 僕は海を見たままそう言った。彼女は、そう、と言っただけだった。

「ひどい街だったんだ。コロニーの中心地や地球の街に比べたら、とても人が住めるような街じゃなかった。砂と壁ばっかりで、住んでいるのは頭の固い研究者とその家族だけだった。だから中心地まで行かないと店もないし、砂に埋もれてしまうから公園もなかった。植物だって、ほんのちょっとしか生えてないんだよ。風と砂と壁の街だった。移動する時はもっぱらAGM式のバスでさ、そのバス停までも大抵は地下の通路を歩くんだ。通路はいつも風の音がしてた。通路だけじゃない。家の中にいたっていつも風の音がしてたんだ。僕は今でも風の音を覚えてる。ううん、もう忘れられないんだ。あの歌はいつでも僕の鼓膜を震わせている。いつでも、……そう、今だって」

 太陽はもう半分沈んでいた。海鳥は一羽も見えなかった。海風は彼女の長い髪を揺らし、彼女の白いワンピースを揺らしていた。僕の声は風に乗り、僕の見えない場所へと流されていった。風の歌が聞こえる。高く低く、僕の体を駆け抜けていく。

「だからさ」

 たった二人、橋の上で。

「少し楽しみだよ。君の言う、夕凪の音ってやつがさ」

 そう言うと、彼女は僕の方を向いてにっこりと笑った。それはまるで、僕を安心させるための微笑みのようだった。風に遊ばれる彼女の髪と白いワンピースだけが時間の流れを教えていた。そして同時に、それらもまた風の歌を歌っていた。

「その歌も、もう止むわ」

 彼女は言った。同時に、遊ばれていた彼女の髪が、ふわりと。

「風だって、ずっと歌ってたら疲れちゃうもの」

 ふわりと、最後に一度だけ大きく、舞った。


      ◆


 僕は、その瞬間をどう表現したらいいのか分からない。
 いつまでも続くと信じていたもの。不変と信じたそれが崩れる瞬間は、たぶん痛みに似ていたと思う。
 本当に、凪は訪れた。
 風は、本当に止んでしまった。
 僕にはその本当が信じられなかった。何かの間違いじゃないかとも思ってしまった。例えば、そう、僕の五感全てが機能することを忘れてしまったんじゃないか、とか。だけどそれは、彼女の温かい左手が否定してしまっていた。
 波の音がすぐ近くに感じられた。川の音もはっきりと聴こえていた。海鳥が鳴き、遠いと思った鉄橋がすぐ近くで叫んでいた。何もかもが近く、何よりも近くに彼女が居た。

『あ……』

 何故か声が漏れた。不自然に発せられたその声は、僕が今まで聞いたこともない音だった。何者にも邪魔されなかった純粋な音。風に掻き消されてしまいそうなその音は、けれども凪という現実の元に直接僕の鼓膜を震わせた。そう、届いてしまったのだ。永遠忘れられず、永遠聴こえ続けると信じた歌。あの歌が、砂に埋もれた街を慰めるはずのあの歌が、その瞬間だけは確かに聴こえなかったのだ。僕はどうしたらいいか分からず彼女を見た。彼女は微笑んだだけで、少しだけ強く僕の手を握った。温かさ。柔らかさ。そんなものすらが全て風の歌を忘れていた。何もかもが新しく、何もかもが僕の頬を撫ぜなかった。

『ああっ……』

 どうしてそうしたのか分からない。僕は彼女を抱き締め、そのまま少しだけ泣いた。彼女の心音と僕の心音とは混ざり合い、懐かしい歌を歌い始める。涙をさらっていく風は吹かなかった。どうしようもなく風は吹かなかった。

『ね? 止んだでしょ?』

 全く違う声で彼女は囁いた。それこそが本当の彼女の声だった。僕が何度も頷くと、彼女はくすぐったいと言って笑った。彼女の笑い声。柔らかな髪の匂い。それらのおかげで、僕の心はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。

『これが、夕凪の音?』

 そう問いかけると、彼女は少しだけ躊躇ってから言葉を紡いだ。

『もう少し、かな』
『え?』
『もう少しこうしてないと、聴こえないかも』

 僕らは夕凪の音を待った。彼女の提案どおり、橋の上で二人、抱き合ったままで。何台かの車が僕らの横を走り去ったけれど、たいして気にならなかった。それよりも、こうして彼女を近くに感じられることのほうが嬉しかった。
 太陽はもう水平線に吸い込まれてしまいそうだった。遠くの住宅街にぽつぽつと明かりが灯り始め、僕らの真上にあった街灯もまたささやかな光を落とし始めた。朱と交わる群青。夜が降ってこようとしている。視界の右隅に小さな星が見えた。あれはたぶん金星だろう。
 どれくらい抱き合っていただろうか。どこかで、今まで黙っていた海鳥が、鳴いた。
 それが合図だった。

 橋を、僕らを、僕らの目に映る全ての景色を。
 風が包んでいた。陸から海へと吹く風が。

『これが、夕凪の音よ』

 彼女の言葉と羽ばたきとは同時だった。今まで何処にいたのかと思うほどの数の海鳥が、一斉に風に乗って羽ばたいた。雨のように降りつけるその音は、陸風に運ばれて海の彼方へと消えていく。海鳥もまた沖を目指して羽ばたいていた。無数の影と、それを運ぶ風の歌。彼女が何か囁いたけれど、それすらも風の歌は運び去った。
 僕の耳に風の歌が戻ってくる。壁を越えて、砂を忘れて、僕の耳に戻ってくる。それはずっと忘れていた歌だった。あの日、あの歌を聴いた日までずっと聴いていた歌だった。どうして忘れていたんだろう。僕はいつだってあの歌と共に在ったのに。
 海陸風。海風は夕凪を目指し、陸風は朝凪を求め続ける。そこにあるのは一瞬の安息。風だって疲れてしまうと彼女は言った。彼女は知っていたんだ。一日に二度だけ、こうして風の休まる時があることを。
 6年間休むことなく吹き続けた僕の風は、ついにその長い旅を終えた。新しく歌われる風の歌は、懐かしく僕の鼓膜を震わせ続けた。僕は強く彼女を抱き締め、彼女は痛いよと笑いながら少しだけ身じろいだ。無数の羽ばたきと、懐かしい風の歌と、彼女と鼓動と僕の歌。全てが優しく絡み合い、チョコレートみたいに甘くほどけていく。太陽が海に沈んでも、僕は彼女を抱き締めたままずっとその歌を聴き続けた。ずっと、ずっと聴き続けた。


 僕は思う。
 あの歌を、あの夕凪を、いつまでも憶えていられたならどんなにか良かっただろうと。
 あの瞬間だけは、あの橋の上でだけは、僕は本当の僕であり続けることが出来た。何者にも邪魔されない純粋な音を、躊躇うことなく受け止めてしまうことが出来た。たぶんそれは、あの夕凪に起こった全ての出来事が痛みに似ていた所為だと思う。そのことに気づいたときには、痛みはもう治まろうとしていた。
 ゆっくりとあのゲートが近づいてくる。漆黒を穿つ光の輪。
 その痛みを忘れかけて、僕は漸くそれを悟った。あの時吹いたあの風もまた、朝凪を求めているのだということを。僕の中には歌がある。歌があり、壁があり、街がある。彼らが凪を求めるのなら、僕がそれを探そうと思った。もう一度だけあの凪を、もう一度だけあの痛みを。
 連結ゲートが迫っていた。僕の中に歌が生まれ、それ以来一度も通らなかった場所。彼女は怖くないと言ったけれど、正直なところ少しだけ怖かった。僕の気持ちに関係なく、シャトルは無機質に進んでいた。
 あれから10年の月日が経った。第341区は元に戻り、コロニーの拡張によって風の街ではなくなっていた。ガニメデに新しいコロニーが作られ、月の人口が5千万人を突破した。世界は確実に進んでいる。音もなく少しずつ、まるでこのシャトルのように。
 軽い眩暈がして、僕は静かに目を閉じた。耳を澄ますと微かにあの歌が聴こえていた。ポケットの中には彼女がくれたAGMが入っていた。空間は連結される。あの街へ向けて、あの歌へ向けて。
 暗闇が降りてくる。静寂が舞い降りる。
 そして僕は、穏やかな眠りに落ちていった。



 >>了。




◆あとがき◆
 これを書いている時点でまだタイトル決まってません。
 このお話は、知っている人は知っている、知らない人はまったく知らない『Seaside_Story』の前にあたるお話です。ですが、あくまでも(仮)ということで。いつの間にかこんな話になっちゃった、といういつもの裏事情を汲んでください。『彼女』が『そっか、あなた火星の出だったものね』なんて言わなければこんなことにはならなかったんです(泣)
 このお話の出発点は、バイト中に突然浮かんだ『彼女』の『夕凪の音をね、聴こうと思って』という台詞でした。正確には『夕凪の音を聴きたかったの』だったんですが、変更してこのカタチに。最近の永瀬は台詞から話を思いつくことが多いです。思いつくと言うよりは勢いで書いている気もしますが。
 俺は残念ながら夕凪や朝凪という現象に立ち会ったことがありません。海なし県に住んでいれば当たり前かもですが、いつか体験してみたいものです。海は嫌いじゃないんですが、夏以外に『行こう』と言ったところで誰も相手にしてくれないので諦めています。夏の海は行きたくない。暑くないなら可。
 『風の歌』と聞くとどうしても春樹が浮かびますが、別に意識したつもりはありません。シャトルの中で気分が悪くなる、とかは『ノルウェイ』っぽいですど、無関係で考えてくれると嬉しいです。俺、あの作品嫌いですしね。わ、言い訳っぽく聞こえるなぁ。
 とかとか、長くなりましたが、楽しんでいただけたなら幸いです。
 ではでは。