小説

夏目漱石メモ
夏目漱石夏目漱石の略歴
 夏目漱石(本名、夏目金之助)は、慶応3年(1867 )、江戸牛込馬場下横町(現在、新宿区喜久井町)に生まれた。幼くして養子に出された。
 東京帝国大学卒業後、松山中学校、熊本第五高等学校などで英語を教える。
 明治33年(1900)から明治35年(1902)まで、英国へ留学する。
 帰国後、東京帝国大学などで教鞭を取るが、明治38年(1905)、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載、明治40年(1907)には教職を辞し朝日新聞社に入社する。以後、朝日新聞に『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こゝろ』、『道草』、『明暗』などを連載する。
 大正5年(1916)12月9日、胃潰瘍のため死去。

坊っちゃん『坊っちゃん』明治39年4月
『坊っちゃん』は数ある漱石の作品中もっとも広く親しまれている。直情径行、無鉄砲でやたら喧嘩早い坊っちゃんが赤シャツ・狸たちの一党をむこうにまわしてくり展げる痛快な物語は何度読んでも胸がすく。が、痛快だ、面白いとばかりも言っていられない。坊っちゃんは、要するに敗退するのである。  

吾輩は猫である『吾輩は猫である』明治38年1月〜明治39年8月
「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。」猫を語り手として、苦沙弥、迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ、語らせる、小説家漱石の出世作。
猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は『坊っちゃん』とあい通ずる特徴をもっている.それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である.この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石となった. (解説 高橋英夫・注 斎藤恵子)

三四郎『三四郎』明治41年9月1日〜12月29日
『それから』『門』と続く3部作の第1篇にあたる。大学生活を背景とする知的環境のうちに成長しゆく純潔なる一青年に、意識と反省を越えた世界では愛しながらも、意識と反省の世界では男をあなどりさげすむ聡明にして自由なる女性美禰子を配し、触れようとして触れ得ぬ思慕のたゆたいを描く。明治41年作。

それから『それから』明治42年6月27日〜10月14日
若き大助は義侠心から友人平岡に愛する三千代をゆずり自ら斡旋して2人を結びあわせたが、それは「自然」にもとる行為だった。それから3年、ついに大助は三千代との愛をつらぬこうと決意する。「自然」にはかなうが、しかし人の掟にそむくこの愛に生きることは2人が社会から追い放たれることを意味した。

門『門』明治43年3月1日〜6月12日
横町の奥の崖下にある暗い家で世間に背をむけてひっそりと生きる宗助と御米.「彼らは自業自得で,彼らの未来を塗抹した」が,一度犯した罪はどこまでも追って来る.彼らをおそう「運命の力」が全篇を通じて徹底した〈映像=言語〉で描かれる.『三四郎』『それから』につづく三部作の終篇. (解説 辻 邦生・注 石崎 等)

こゝろ『こゝろ』大正3年4月20日〜8月11日
親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品。鎌倉の海岸で出会った“先生”という主人公の不思議な魅力にとりつかれた学生の眼から間接的に主人公が描かれる前半と、後半の主人公の告白体との対照が効果的で、“我執”の主題を抑制された透明な文体で展開した『彼岸過迄』『行人』『こころ』と続く、後期三部作の終局をなす秀作である。

明暗『明暗』大正5年5月26日〜12月14日
晩年の漱石は人間のエゴイズムを扱った作品を多く書いた。彼はこれを克服しようとする境地を“則天去私”と名づけているが、『明暗』はその実践といわれる。虚栄心の強いエゴイストの津田、お延の夫婦生活を通し、その暗さから明るさへの転換を描こうとして絶筆となった。漱石の思想的到達点を示す作品。

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