「世界平和の祈り」は現代の全託行 top page 
No.42 1998/09/30 (水) 17:41 静岡県
世界人類が平和でありますように

Q.
なぜ、全託が必要なのでしょうか?

A.
神の分霊としての力を、すでに完全に発現している人ならば、もはや全託する必要はありません。人間は本来、神の分霊です。ですから、「私たちは神の分霊である」と言ってよろしいのですが、正確に申しますと、五井先生が「本来」という言葉をつけているように、「本来、私たちは神の分霊であって、業生ではない」のであって、「現在の私たちは、内部に神の分霊を蔵しつつも、業想念に取り囲まれていて、神の分霊としての真価を充分に発揮していない状態」であるのです。

そこで、どのようにしたら、業波動から超越し本来の人間が持っている神性を顕現できるか、と古代から種々様々な修行方法が編み出され、その中から悟る者、聖者賢者が現れ、各自の体験をもとにした宗教が現れるに至ったのです。

その修行方法を大きく分類すると、自分の強い意志力で自分の想念行為をコントロールして、内部神性を発現してゆく自力行と、「肉体人間の自分は罪悪深重の凡夫なり、自分は何事も為し得ぬ凡夫なり」と自己を見て、守護の神霊のご加護を信じて、守護の神霊に自己のすべてをお任せし、守護の神霊の力によって、人間本来の神性を現していただこう、という他力行の二つに分けられるのです。前者を自力門、自力難行道、後者を他力門、他力易行道とも言います。

自力行の代表的な人物は、禅宗の道元禅師、白隠禅師、ヨガの聖者などで、他力行の代表は、浄土宗の法然聖人、親鸞聖人です。五井先生の守護神である役の行者は、修験道の祖で自力行の代表的な指導者でしたが、霊界に移行してから、まだまだ奥深い計り知れないほど高い神霊の世界があるのを知り、自力行の限界を悟り、神様に他力した瞬間、大悟できたのでした。そうした経緯から役の行者は、五井先生の指導にあたり、初めから五井先生に他力行を勧めたのです。五井先生の指導法が、他力道であるのは、そのような霊的な事情があったからです。

仏教で一番初めに他力門を説いて、自ら実行したのは誰かと申しますと、その人は阿難尊者であります。また、イエス・キリストの教えも、「神の御心のままになさしめたまえ」と全託の祈りを祈るのですから、当然、他力行の教えです。神道でも、人間は神の子としており、ことあげせずと言って、決まった行はないことになっておりますが、実際には「守りたまえ」という祈りをあげていますから、他力行といえるのです。

全託というのは、そうした他力行の方法でありまして、守護の神霊のみ心の中に、自己の全想念を投入してしまう行為をいうのです。「守護霊様、御心のままになさしめたまえ」と自己を守護の神霊の光明の中に全託してしまいますと、それまで存在していた自己の業因縁が急速に浄められて、本心本体のすなわち神人の自分が無理なく現れてくるのです。このように神の分霊の自分が完全に現れきるまで、守護の神霊への全託行は、必要であるわけです。

その全託行の祈りを、個人人類同時成道の祈りに広げて、幼児からお年寄りまで誰でもわかりやすく、実行しやすくした、現代の全託行の祈りが、五井先生の提唱されている「世界平和の祈り」なのです。「世界人類が平和でありますように」と祈っているとき、あなたは、守護の神霊の御心の中、大神様の御心の中に全託しているのです。そして、「世界平和の祈り」をくりかえしているうちに、しだいに大光明波動に同化してゆき、完全円満な神の分霊のあなたが、そこに忽然と顕現されてくるのです。

Q.
 全託してしまうと、今まで「世界平和の祈り」をして積み上げてきた善行が、すべて消えてしまうような気がします。よい行いや、よい言葉を発すること、よい想念は、結局無駄なのでしょうか。

A.
「世界平和の祈り」は、肉体人間の私たちの善なる想念力で世界平和を創造する、というのではなくて、「私たちの力ではもうどうしようもありませんから、神様、世界を平和にして下さい」という気持ちで祈るものであって、「世界平和の祈り」そのものが、すでに神への全託の祈りであり、善行なのです。ですから「世界平和の祈り」をすることによって、悪業因縁は消えてゆきますが、善行が消えてしまうことはありませんから、ご心配はいりません。

また、善い行ないをしたり、善い言葉を話したり、善い想念を発することは、もちろん正しい行為ですから、無駄になるはずがありません。ただし、ここで気をつけなくてはならないことは、そうした善想念行為が、口先だけの形式的なものであったり、偽善的なものであってはならない、ということです。本心からあふれ出た、自然な善想念行為でなければ、かえって、その人の神性を覆い隠してしまう結果となるのです。以前よりも人格が劣ったり、一般の人々から見て、「あの人は、偽善者だ」と嫌われてしまうことがあるのは、真理の言葉、善なる言葉にとらわれて、正直でなくなるからなのです。

人間は、本来、神の分霊であるのですから、「善い想念行為をしよう」と力まなくても、自然に神の行為そのものの善い想念行為をするように、本来はできているのです。その本心の現れを邪魔しているのが、本心の周囲を取り巻く業想念ですから、「世界平和の祈り」の大光明波動によって業想念が消え去れば、おのずと、あなたは神の分霊として、「善行為をしよう」とことさら念じなくとも、無為にして善行為ができるあなたに成っているのです。これを光明思想というのです。

そうした原理をもとに、私は「世界平和の祈りだけを行じていればよい」と簡単に説いているのです。