統一行と消えてゆく姿 top page 
No.984 1999/08/26 (木) 13:44 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Q.
「『統一は、業想念(自我欲望)を超えるためにするのであり、業想念を超えれば、自ずから神と一体となり、本心が開顕出来、真実の神通力といわれる能力も発現してくるのであって、業想念をなんら否定しないで、自己の念力で統一しようということは、非常に危険であります。そこに私が日頃説いている『消えてゆく姿』の教えが生きてくるのであります。一度は必ず、自己の肉体想念を消えてゆく姿として否定し、否定したところから統一に入らなければ、その統一は、いつまでやっても業想念世界の統一になってしまって、神のみ心、本心開発には役立たぬことになってしまいます。』(「宗教問答149頁」より)

この部分の解説をお願いいたします。

A.
統一行をしておりますと、肉体界から幽界、幽界から霊界へと意識が上昇してゆくのですが、途中の幽界を通り抜けるとき、日頃から抑圧している怒りや不平不満の感情が噴き出してきたり、嫌らしい雑念が湧いてきたりします。体質的に幽体が大きくて霊的な波動を受けやすい人は、地獄の世界に堕ちて人知れぬ恐怖を味わったり、未来の地球の滅亡の姿を見せられて悲観させられたり、自分の知人がどこにいて何をしているかを霊視させれて心を乱されたりするのです。

「魔境のような危うい世界で、よい気持ちになる」とは、「あなたは地上最高の菩薩だ」と神仏におだてられたり、天国のような自己の思い通りになる世界に行ったり、「あなたは神である」とおだてられて、名誉欲を満足させられて、よい気持ちになる、という意味です。またときには、他人を呪う「憎いあいつを殺せ」というような霊聴が聴こえてきて、その憎しみの業想念に動かされるままに殺人をおかしてしまう人も、実際にあるのです。善き指導者のいない統一行というのは、非常に危険であるのです。

そこに、五井先生の「消えてゆく姿」の教えが生きてくるのです。統一中、何が感じられても、何を見ても聴いても「消えてゆく姿」と否定しなければなりません。ところが、霊視に見え、霊耳に聴こえるものですから、「存在するもの」として、ついつい肯定してしまいがちなのです。業想念は肯定すれば、消えてはゆきません。「業想念は消えてゆく」と否定してこそ、消えてゆくのです。

しかし、何が本心の現れか、業想念の現れかを区別するのは容易ではありませんから、その区別がはっきりとつくまでは、悪想念だけでなく、たとえ神仏の姿が見え、神仏の声が聴こえてきても、すべての現象を「消えてゆく姿」と否定しなければなりません。「これは宇宙神からの神示である」と言われても「消えてゆく姿」と否定し、ほめられても、けなされても、おだてられても、おどされても、「消えてゆく姿である」と否定することです。そうしますと、業想念は消えてゆき、本心の現れだけが残るのです。

統一に入る前には、自力で統一しようとしないで、守護の神霊の加護を願い、守護の神霊に導いていただけば、光明で業想念を浄めていただけるので、幽界の嫌な波動をほとんど受けることなく、神界へとスーッと昇ることができるようになるのです。「世界平和の祈り」の中には、守護の神霊への感謝の祈りが含まれておりますから、「世界平和の祈り」を祈る人は、統一中の業の障りを心配する必要はありません。しかし、たまに試みとして、霊視や霊聴の現象が現れる場合があります。そのようなときは、あらためて「消えてゆく姿」と否定して、守護霊守護神をお呼びして、「世界平和の祈り」の中へと飛びこむことです。「世界人類が平和でありますように」と唱えつづけていれば、いかなる業も消え去ってゆきます。