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悟り・統一・消えていく姿・・・五井先生のみ教えに関するQ&Aです

五井先生の教えの解説
No.964 1999/08/24 (火) 14:25 富士宮市
世界人類が平和でありますように

Q. 「続・如是我聞」(白光出版)No.195
「悟りというのはむずかしいものじゃない。よけいなことを思わなきゃいいんだ」とは、どういう意味でしょうか?

A.
「私は神の子になることができる、できる」と、自己の思念の力で悟りを開こうとするから、むずかしいわけです。「これも念じなくてはいけない。あれも念じなくてはいけない」と行がどんどん増えてゆき、多行難行になってゆくわけです。しかし、悟りを開くには、思念の力を無くせばよいのです。何も思わなければ、本心が現れてくるのです。その原理を、釈尊は「空即是色」として教えて下さったのです。

しかし、何も思わないというのは、かえってむずかしいもので、業は流転しておりますから、次から次に業想念が浮かんでくるものです。そこで、一つの的をしぼり、一つのことだけを考えて、空に近い状態に持ってゆこうとして、座禅のときには臍下丹田に想念を集中したり、一つの祈り言に統一するわけです。この場合は、空になるための集中なので、念力と区別するために統一と呼んでいるのです。

その空になる方法の中で、五井先生は「世界平和の祈り」が一番やさしく安全に空になれる方法であると教えて下さっているわけです。そして、「世界平和の祈り」以外のよけいなことを思わなければ、誰でも悟ることができるのです。その明らかな証明として、私が存在しているのです。

Q. 「続・如是我聞」(白光出版)No.355
「審神(さにわ)をするのに、一番根本なことはなんでしょうか?」「自分を完全になくすことだ」という会話がありますが、「自分を完全になくす」とは、どういう意味なのでしょうか?

A.
霊媒体質の人には、高級神霊が肉体を借りてしゃべったりする場合と、動物霊のような低級霊魂が憑依してくる場合があります。そして、霊媒自身には、自分の肉体を霊魂に占領された形になっていて、自分の意思で自分の体をコントロールできない状態でいるのです。自分の意思とは関係なく、占領した霊魂が口を動かして話したり、手を動かして文字を書いて、霊の意思をメッセージで伝えてくるのです。したがって、その霊媒にかかってきた霊魂が、高級神霊であるか単なるいたずらをする低級霊なのかを、慎重に見きわめる、客観的な第三者が必要となります。その判断する行為や人を、審神(さにわ)というのです。

たとえば、統一中に「われは弥勒(みろく)菩薩である」とか「われは天照大御神(あまてらすおおみかみ)である」などと語って姿を現わす霊魂があるのです。「われはその昔、役(えん)の行者のおそばにお仕えし者なり」と言う霊もあります。しかし、霊魂がそのように自己紹介したからといって、必ずしも正しいとは限らないのです。詐欺師と同じように、動物霊や低級の幽界の生物が、その人の強く信じている信仰の対象の神仏をよそおって、だましてくることがあるのです。

このとき、自分の心の中に、少しでも名誉欲、権力欲、金銭欲、物質欲などがありますと、その欲望に目がくらんで、たとえば「汝のその願いを叶えてあげよう」と言われたりすると、自分にとって都合がよいので正しい神霊と信じてしまい、霊視に現れた霊魂が、高級神霊なのか低級霊魂なのかが、判断できなくなってしまうのです。ですから、ここで五井先生が説いている「自分を完全になくす」とは、「自分の欲望を完全に無くす」という意味であるのです。自分の欲望を完全に無くさなくては、審神はできません。

それでは、自分の欲望を完全に無くすには、どうしたらよいかと申しますと、すべての欲望を「消えてゆく姿」と想い、「世界平和の祈り」を祈ることなのです。「お金が欲しいのはあたりまえだ」「人間なんだから、このくらいの欲はあってもいい」というふうに、自分の欲望を肯定してしまっては、欲望は消えてはゆきません。自分のすべての欲望を「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」の中に欲望を消滅し去ったとき、はじめて真実の審神ができるようになるのです。