念仏と世界平和の祈り top page
No.2901 2001/02/19 (月) 10:39 富士宮
世界人類が平和でありますように「南無阿弥陀仏の一行を唱えれば、救われる」と他力易行道を説いた法然は、その頃の宗教界を考えますと、画期的で、異端視されるほどであったようです。中国に経典が伝わったとき、すでに難行道と易行道の区別をつけた先覚者がいて、中国でも「阿弥陀仏信仰」があるのです。それを日本で初めて教えたのが法然であったのです。
「南無阿弥陀仏」の信仰が広まるにつれて、他宗から排撃されることになった理由は、「阿弥陀仏」という名称のゆえでした。ご承知のように、同じ仏教でも、信仰の対象となる仏名は、いろいろとあります。同じ釈尊の教えですから「南無釈迦牟尼世尊」とでも統一されていれば、煩わしくはなかったのですが、釈尊が、多くの仏名を説いたために、その分だけ、宗派が発生したのです。しかし、阿弥陀仏以外の信仰をしている人々にとっては、阿弥陀仏信仰が広まるのは、おもしろくないわけです。
「南無阿弥陀仏」と現在の「世界人類が平和でありますように」は、同じ原理の他力易行道であるのですが、「南無阿弥陀仏」のほうは、阿弥陀仏という固有名詞の仏名を使っていたために、他宗から反発を受ける要素があったのに対して、「世界人類が平和でありますように」のほうは、固有名詞の神仏名を対象にしているわけではありませんから、他宗から反発される要素がありません。「世界平和の祈り」のほうは、念仏の精神を生かしつつ、現代に合った祈り言になっているのがわかります。
釈尊にしても阿弥陀仏にしても、イエスやマホメットにしましても、聖者方は皆、世界平和を願っていらっしゃるのですから、「世界人類が平和でありますように」という祈り心で、私たちは宗派を超えて一つにつながることができます。どこの神仏のほうが偉いなどと、神仏の名前争いをする必要がありません。ですから、現代においては、念仏よりも「世界平和の祈り」のほうがふさわしい祈り言であるのです。
「南無阿弥陀仏」を教えた法然も現代に生きていれば、「世界平和の祈り」を勧めるでしょうし、「南無妙法蓮華経」を教えた日蓮も現代に生きていれば、「世界平和の祈り」を勧めることでしょう。思えば、「南無阿弥陀仏」は、もう900年も前の時代の祈り言です。「南無阿弥陀仏」は永遠に光り輝く祈り言でありますが、表現としては古いものとなってしまいました。やはり、現代においては、現代のわかりやすい言葉で祈るほうが、現代人の心にピタッと合うのです。
「世界人類が平和でありますように」という祈り言には、神仏の固有名詞がありませんから、他宗からの反発を受けません。神を説けば、仏教信者から反発されますし、仏を説けば、神道やキリスト教信者から反発されてしまいます。神とも仏とも言わずに、神仏名争いを避けて、神仏のみ心である世界平和を願う祈り言にした点に、「世界平和の祈り」の素晴らしさがあります。すべての宗教宗派と調和でき、誰でも容易に実行できる「世界平和の祈り」が、この現代において広まらないわけがないのです。