空即実相・和光同塵・無限供給・唱行・如来印 top page 
No.2912 2001/02/28 (水) 13:15 富士宮
世界人類が平和でありますように

Q.
空の心境の生活とは、どういうことでしょうか?

A.
空とは、想念が空っぽになる、想念が空っぽの状態、ということですが、記憶を失ったり、意識を失う、ぼんやりする、という意味ではありません。想念が無くなり、空っぽの状態になりますと、その瞬間に、神のみ心でもある自己の本心が現れてくるのです。それを仏教では空即是色(くうそくぜしき)といい、空の境地から実相(ほんとうの姿)が開かれるのです。本心の現れを、潜在意識にたまっているよけいな業想念が邪魔してしまっているので、その業想念を無くして、空になって、本心を現わそうと、座禅をしたり、お祈りをするのです。空の心境になった人、というのは、業想念が無い人、あるいは業想念の波に把われることなく、神のみ心のままに、本心のままに行動できる心境になった人のことです。もっと具体的に申しますと、いつも愛と感謝と勇気と智慧に満ちている人、と言えます。

Q.
「五井先生や森島先生のように悟ってる人って、いつも何をお考えなんでしょう?」と講義を聴いていて、疑問に思いました。(変な質問ですいません)「悟ると、よい感情だけが残る」というのはわかるのですが、その他の時間には、常に祈りを唱えているんですか?それとも、想念停止という言葉を、五井先生の本で読みましたが、そうした状態で、何も感情がわいてこないのですか? 何をみても聴いても驚かないし、一瞬の怒りも湧いてこないのですか?

A.
五井先生も私も、いつも考えていることは、「世界平和の祈り」です。この祈り言が、口先で唱えなくとも、常に心の中で鳴りひびいているのです。口先で「世界平和の祈り」を常に唱えようとしましても、勉強や仕事や娯楽や家事をやらなくてはなりませんから、どうしても限界があります。ですから、この世の生活を第一に優先して、余暇の時間をお祈りに使えばよいのです。時間のあいた時でよいから、「世界平和の祈り」をお祈りしておりますと、だんだんと口先で唱えなくとも、お祈りしている時と同じ心境になってゆくのです。そうなるためには、やはりお祈りの練習を積み重ねなくてはなりません。

お祈りして業想念の渦から解脱しますと、何を見ても驚かないし、一瞬の怒りの感情も湧いてこなくなります。但し、喜怒哀楽を感じない、無感情の人間になるわけではないのです。自分みずからは業想念を出すことは無いのですが、肉体を持っていますから、他人の喜怒哀楽の波を感じることはできるのです。そして、人々の業想念の波に同調しながら、その業想念を浄め去っているのです。老子の「その光を和し、塵に同じくす」(和光同塵)の心境です。

五井先生でも、怒るときもあれば泣いたときもありました。しかし、その行為は、業想念の感情からそうしたのではなく、衆生の感情に光を同調させ、衆生を浄めるための叱責であり、涙であったのです。ですから、五井先生は、いつまでも人を責めるように怒ることはなく、涙で苦悩の波に陥ることなく、夏の落雷の後の爽やかな光と風のように、すぐに慈愛の眼差しの明るい笑顔に戻られていました。

修行時代は、目を宙に向けた狂人のような五井先生でしたが、神我一体になられてからは、普通の人と同じように生活されていました。普通の人のようにテレビも見ますし、映画も見るし、音楽も聴かれていました。五井先生がお好きなテレビドラマは、「逃亡者」で、毎週欠かさずに見ていたようです。また、ニュースに、悪い人が出てきますと、「なんて悪いやつだ!」と普通の人のように怒っていたようです。もちろん、先ほども申しましたように、怒ると言いましても、表面からはわかりませんが、普通の人とは違って、業想念を浄めているのでありまして、すぐに明るい表情に戻っているのです。

「ああ疲れた」とか「今日のごはん、何にしよう」とか「あそこに変な人がいる」とか、そういうことは五井先生もおっしゃっていたし、私も言います。普通人と同じような会話をしているのです。ただ、普通人と違うところは、あたりまえに会話をしながらも、恐怖感に把われたり、クヨクヨと悩むことがないのです。悩んでいるように見えても、悩んではいないのですし、怒っているように見えても、怒ってはいないのです。迷っているように見えていても、迷ってはいないのですし、恐れているように見えても、恐れてはいないのです。心は太陽のようにいつも明るく、青空のように、どこまでも澄みきっているのです。

Q.
最終的に何の感情も想念もない、からっぽの状態を、私たちは目指すべきなのでしょうか?(そんなことは凡人にはできなさそうだけど)それとも穏やかな気持ちでいられればそれで良いのでしょうか?「天命を見つけたい」とか、「幸せになりたい」とか「お金持ちになりたい」とか願望したり夢を描いてみることも消え去るべき邪心なのですか?

A.
空の境地の後に開けるのは、空即実相(くうそくじっそう)の光明世界です。すべての業想念が消えた後には、本心が残るのです。本心とは、永遠につながる真・善・愛・美の神のみ心です。私達は、自己の本心顕現と人類の平和を目指すべきなのです。神への感謝に満たされ、穏やかな気持ちでいられれば、それだけで世界の平和に寄与していることになります。もちろん、あなたに必要なすべての物質も環境も与えられるのですから、精神的な幸せだけでなく、物質的喜びも感じることができるのです。

「天命を見つけたい」「幸せになりたい」というのは本心の働きです。「お金持ちになりたい」というのは物質的欲望ですが、それも元をたどってゆきますと「自由を得たい」という本心の働きが、物質的欲望に変形してしまっているにすぎません。しかし、現代において欲望の無い人はいないし、「こうした欲望を持つな」と言っても無理ですから、「すべての欲望を持ったままでよいから、『世界平和の祈り』の中に飛び込みなさい」と五井先生は教えて下さっています。そうしておりますと、欲望がしだいに純化してくるのです。すると、わざわざ願望を心に描いたりする気持ちが、いつのまにかスーッと消えてしまうものです。

自分の願望や夢を、紙に細かく書かなくても、守護の神霊は、あなたに必要な物を知っていて、あなたに与えようと用意して下さっているのですから、あなたは守護の神霊に「み心のままになさしめたまえ」と全託していさえすればよいのです。どんなことがあっても、欲しいものが与えられなくとも、不平を言わないで、「神様、ありがとうございます」と感謝していたり、「世界平和の祈り」を祈っていることは、神への全託と等しい心境なのです。

宗教者は、「神様から必要な物を授けていただく」という「神への全託行」をただひたすら教えるべきであって、たとえ口がすべっても、信者におもねって、自分勝手な業想念の欲望を増長させるような「念力による願望成就」を教えてはいけません。「必要な物は神様から与えられる」という大信念を説かなくてはなりません。かといって、「神様、お願いします、と言ってはいけない」と固く考えることもありません。自己の念力でやることが、神のみ心に反するということであって、守護の神霊に自己の願望も夢も投げ入れてしまえばよいのです。

守護霊様、私の天命が見つかりますように
守護霊様、私が幸せになりますように
守護霊様、私がお金持ちになりますように
世界人類が平和でありますように

というふうに、最初のうちは、欲望や願望を神に祈ってもよいから、その後で「世界平和の祈り」をすればよいのです。そうしているうちに、欲望や願望は純化されて、しだいに「世界平和の祈り」一念の心境に高められてゆくのです。そして、「世界平和の祈り」以外に祈る必要はなくなってくるのです。初心者ならともかく、十年も二十年も「世界平和の祈り」を祈りつづけた人の中にも、現世利益が与えられないからといって、神の愛を信じられなくなり、途中で自己の念力による願望成就法をやりだす人がいますが、五井先生は「全く情けない」とおっしゃっていました。

自己の念力に頼っているようでは、業生の渦の中で生活することになりますから、いつまでも真実の安心立命は得られません。念力を強めて、念力を謳歌している時は、良い調子に乗っていられますが、念力が弱まった時、いくら念じても何も得られなくなる、という悲惨な状況が待っているのです。自分の念力を捨て、自分の欲望のすべてを捨てて、神の愛に全託した時に、神の無限供給力が発動するのです。神の無限供給力は、念力による利益よりも、はるかにはるかに勝る大きな利益であるのです。そして、何よりも真実の安心立命が得られることを、改めて知って下さい。

たとえ、過去世からの業因縁消滅のために、死ぬまで現世利益が一つも与えられなくても、死ぬまでどんなに不幸がつづいたとしても、道端で人に知られぬまま哀れに孤独で死んだとしても、私達は神の愛を信じて、「世界平和の祈り」に一生を捧げようではありませんか。そのくらいの心境になってほしいものです。

Q.
五井先生と森島先生を知って以来、ずっと毎日祈っています。ここ二ヶ月は、さらに勢いづいて24時間体制になってきています。仕事のふとした合間とか夜中に目が覚めたときとか、とにかく何か自分の感情に入れる時間があれば、まるでおまじないのように祈りを唱えています。わたしは初心者なので、よくわからないままに「世界人類が平和でありますように」とひたすら心の中で、もしくは小さい声でぶつぶつと早口で何度も何度も唱えているのですが、方法としてはこれでよいのですか? ときどき「守護霊様、守護神様ありがとうございます。わたしに天命を授けてください」とお願いしています。おまじない状態だと一つ一つの言葉に感情がこもらないのでは(?)と思いながらも、何となく自分のノリでぶつぶつ早口でやっています。もっとゆっくりと心を込めた方が良いのですか?

A.
その方法でよろしいのです。早口でもゆっくりと唱えても、それはどちらでも構いません。五井先生の話し方は、わりかた早口のほうでしたが、「心を落ち着かせるときには、ゆっくりと、世界人類が平和でありますように、と唱えるといいね」と五井先生はおっしゃっていました。一瞬の隙なく祈ろうとすると、どうしても早口になると思います。声帯を痛めても、南無阿弥陀仏の称名念仏をつづけるという荒行もありますが、声帯を痛めないように小声で念仏するという行法もあります。女性がダミ声になっては困るでしょうから、声帯を痛めぬような声量で「世界平和の祈り」を唱えたらよろしいでしょう。これは祈りつづけているうちに、自然にリズムが生まれてきて、自分の納得できる祈り方になってゆくはずです。

Q.
さらに基本的なことなんですが、祈るときは仏教のように手を合わせるのですか? 如来印とかいうものを組んだほうがいいのですか?

A.
個人で祈る場合には、形は自由に祈ってよいのです。しかし、自由に祈って良いからといって、集団で祈るときに、逆立ちをして祈っている人や、おせんべいをかじりながら祈っている人や、太極拳のように踊りながら祈っている人がいたら、統一指導をする側も困ります。そこで基本的な祈り方として、正座するか椅子に腰掛けて、背筋を伸ばし、目を閉じて、膝の上で如来印を組むように指導しているのです。

合掌は大調和を示しており合掌印でもよいのですが、五井先生は如来印で統一することを勧められました。「その人個人に合った印もある」というお話も、五井先生からお聴きしましたが、基本は如来印として定めてあるのです。宗教教団によっては、信者同志がお互いに向き合って合掌する、という規律を作っているところもありますが、五井先生は、「大調和を意味する厳粛な合掌を、そんな軽々しくやるべきではない。形式的合掌、偽善的挨拶はやってはいけません」とおっしゃっていました。

合掌に比べて、如来印は電車の中でも、会社や学校の中でも、コンサートでも病院でも、どこでもできる長所があります。何も知らない人が見ても、奇異に思われることがありません。病院のお見舞いに行って、病人が合掌されたら、ゾッとするでしょうし、電車の座席に座りながら仏像のように合掌していた
ら、「あの人、頭がおかしいのかな?」と一般人からは思われてしまいます。その点、如来印は、どこでやっていても、奇異に見られることがありません。非常識な態度に見られません。それに合掌印は長い間やっているうちに両手が疲れてくるのに対して、如来印は、膝の上に置いているので長い統一行にも耐えられます。このように常識的に考えても、如来印のほうが現代人の統一行には向いている、と言えます。

また、初めは如来印をして統一しているうちに、自分でも知らないうちに、自然に手が動いて、合掌したり、法界定印を組んだり、自分でも知らないさまざまな印を組む場合があります。この場合には、守護霊が背後で霊的に必要があって手を動かしているのですから、自然に動かしておけばよいのです。必要があれば、守護霊が手を動かして下さるのです。必要がなければ、手は動かしません。自分の意思力で動かそうと思う必要はありません。自力を捨て、「世界平和の祈り」に全託することが何よりも大切なことであるのです。