「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法 top page
No.291 2001/03/02 (金) 00:35 富士宮
世界人類が平和でありますように
Q.
「消えていく姿」の教えは、悪いことが出てきても、その原因を追いかけたりせず、人も自分も責めずに悪いものが消えて好くなる、との教えは分かりますが、いつかの掲示板で、過去はすべて消えていく姿としてとらえる、とあったと思いますが、ここでの過去は今生だけのでなく過去生のものも当然含まれていると思いますが、それでは、過去で努力したこと、楽しかったことも、消えていく姿としてとらえるのでしょうか?A.
過去で努力したことは、未来に良い結果、良い運命として現れてきます。楽しかったことは、いつまでも楽しい思い出として記憶に残ります。人生の記憶、記録としては残るのです。楽しいことは、ことさらに「消えてゆく姿」と思う必要はありません。「努力したことも楽しかったことも消えてゆく姿」と思いますと、虚無感に陥ってしまいかねません。「過去はすべて消えてゆく姿」というのは、過去の自分の行為を悔やんで反省している人や、過去の苦悩を忘れたい人を対象に、赦しの言葉として説いているのです。この世は、本心の現れと業想念の現れが混在しておりまして、本心の現れは永遠に存在するのであり、業想念の現れである、すべての苦悩は消えてゆくのです。消えてゆくといっても、もちろん記憶として歴史としては残ります。また、本心の現れである愛、真、善、美は、本質的なものですから、この世から消え去ることはありませんが、形の現れとしては、刻々と完全円満な形に近づいてゆきます。
「消えてゆく姿」の教えとは、人間は本来、神の分霊であって、完全円満な存在であり、現在の苦悩、悲しみ、怒り、不安、恐怖、悪の姿は消えてゆく姿なのだ、そして不完全な姿が消え去った後には、完全円満な光明生活が現れてくるのだ、というふうに、明るい希望を持たせるために用いているのです。
「消えてゆく姿」の使い方を、「どうせ消えてゆく姿であるから、悪いことをしてもかまわない」と無反省の言い訳に用いてはいけません。それでは悪い行為を善いこととして認めているのですから、悪い行為は消えてはゆかないのです。また、「善い行為をしても、努力をしても、いずれ消えてしまうのだから、いくら努力しても無駄だ」と本心の善行為をも否定してしまったのでは、本心顕現をさまたげる行為となってしまいます。このように虚無的で怠惰な生き方の言い訳に用いたりしてはならないのです。
「消えてゆく姿」の教えは、「病気は無い、不幸は無い、悪は無い」と真理の言葉を大上段にかざして、業想念を否定する方法よりは、おだやかで、人を責め苦しめることにはならないと思いますが、それでも使い方によっては、病人に向かって「そんな病気は消えてゆく姿よ」と冷たく突っぱねてしまい、愛も情けもない使い方をする人が出てきます。困ったものです。そこで実際に「消えてゆく姿」の教えを使う場合には、「神にお浄めしていただく祈り」の形で用いたらよい、と私は提言するのです。
すなわち、「この業想念は消えてゆくのだ!消えてゆくのだ!消える、消える、消えるのだ!」と自己の念力で力んで消そうとはしないで、守護の神霊に業想念を消していただくようにするのです。
「守護霊様、この苦しみを消して下さい」
「守護霊様、この悩みを消して下さい」
「守護霊様、この病気を消して下さい」
「守護霊様、この貧乏を消して下さい」
「守護霊様、この怒りや憎しみを消して下さい」
「守護霊様、この不安、恐怖の想いを消して下さい」
「守護霊様、この悪の姿を一日も早く消して下さい」
「守護霊様、あの人の馬鹿な想念を早く消して下さい」
「守護霊様、悪い人がこの世から一日も早く消え去りますように」というふうに、思い浮かんでくる自己の雑念や他人の悪行為を、守護の神霊に浄めていただくのです。こうしておりますと、現れてくる悪の姿に、いちいち怒って把われることもなくなり、「あ〜、誤った行為、悪い姿、不完全な姿は、すべて消えてゆくんだなあ。後から神様の本心の姿が現れてくるんだ。ありがたいなあ…」と自然に思えてきて、心がいつもおだやかで平静でいられるようになるのです。
すなわち、「消えてゆく姿」と思う信念の前には、「神様、この業想念を消して下さい」という祈りの行為が必要であるのです。守護の神霊にお浄めしていただくお祈りを一生懸命にしているうちに、いつしか「業は消えてゆく姿である」という信念が、自然に心の奥底から実感として思われてくるのです。これが無反省や虚無に陥れさせない、「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法であるのです。