旧光明思想と新光明思想 top page 
No.2952 2001/03/26 (月) 10:11 富士宮
世界人類が平和でありますように

 今日は、五井先生の新光明思想についてお話しましょう。現在の肉体界は、神のみ心の現れと業因縁の現れが混ざった世界であり、したがって、この世での人間関係、人との出会いというのも、神のみ心によって出会う神縁と過去世からの因縁による出会いとがあるのです。現在の人間というのは、完全な神の子の人間ではなく、神の子になる過程の人間であり、神のみ心である本心と、過去世からの業想念を併せ持つ不完全な存在といえます。

 現在の人間は、まだ神の子になりきってはいないのです。業想念が存在しているのであり、過去世の業想念が現れては消えてゆく、という現象が起こるのですから、守護霊に加護を願っていても、業想念が完全にきれいに浄まるまでは、百パーセント事故にはあわないし、病気にもならず、嫌な上司や同僚に逢わない、ということはありえないことになります。未来において、業想念がすべて浄まり、守護霊とピタリと完全に一体化すれば、その時は神の子の完全性を発揮しますから、もちろん百パーセント事故にはあわないし、災難にも、嫌な目にもあわなくなります。

 そこで現実に戻りますが、不幸や災難や嫌な出来事が起きたら、「これは過去世からの業因縁の消えてゆく姿なんだ。守護霊様が、大きな業因縁をこんなふうに小さくして消して下さっているんだ」と解釈し、「守護霊様、どうか一日も早く私達の業因縁をお消し下さい。そして、私達の本心が現れますように、お願いします。世界人類が平和でありますように…」とお祈りして、「守護霊様は、きっと私の運命を善くして下さるに違いない。これで業因縁が一つ消えたんだから、私の運命はこれから良くなるんだ」と明るく考えるようにするのです。これが私達の新光明思想であるのです。

 「人間は神の子、完全円満。我も他人も人類も、神そのものである。病無し、不幸無し、災難無し」という古いタイプの旧光明思想では、真理に片寄ってしまって、現実の不完全な現象についての説明がつかなくなり、「病気も災難も嫌な出来事も無い。無いものは無いのだ」と苦し紛れに言い訳するしかありません。「無いものは無いのだ」といくら言われても、聖者は別にして、ふつうの人には業想念はあるように見えるのですから、納得させることができません。また、「あなたは神の子なのです」と言われても、正直言ってそうは思えませんし、「他人に対して、神の子として拝みなさい」と説かれても、形式的にはできますが、本気ではできません。

 現象の悪や不幸や嫌な出来事について、「それは無い」と説いていても、人々は納得しません。多くの民衆が納得しない教えでは、その教えがどんなに高い教えであっても広まりません。実行するのに難しくて広まらない教えでは、人類の救いの教えにはなりません。そこで観念的に真理を説き、真実に悟っていない宗教者は、「人間神の子、完全円満、悪も病気も不幸も無し」という高い真理を説いておきながら、その教えとは矛盾する因果法則を持ち出してくるのです。

 「現在のあなたの不幸は、過去のあなたの想念が作ったのだ。あなたの運命は、あなたに全責任がある。あなたが病気なのは、あなたが不幸なのは、あなたが嫌な目にあうのは、すべて、あなたの想念が作り上げたものであるから、あなたが悪いのだ」と悪の存在を認めさせ、初めに説いた光明思想に徹することができなくなってくるのです。

 これは明らかに矛盾しているのですが、矛盾にも気づかぬままに説いてしまっているのです。深い知性を持った宗教者も、信仰を持つ大学の教授でさえ、案外この矛盾に気づかない人がいるのですから、ましてや、一般の信徒となりますと、この矛盾に気づかないのも無理はありません。

 五井先生の新光明思想では、その点、現象の悪は存在すると、現実の存在を認めながらも、未来には悪は消えてゆくと、未来においてはその悪の存在を否定しているので、現実の姿にも矛盾せず、しかも未来の理想の姿にも矛盾しない、現実と理想をつないだ中庸の光明思想と言えるのです。

 現象の悪の存在を一度は認めているのですから、「すでに完全な神の子が、なぜ悪行為をしたり、不幸災難にあったり、嫌な人にあったりするのか?」と質問されることはありません。しかも、未来においては「あなたは完全な神の子になる」と理想の神の子人間の存在を認め、業想念を完全否定しているのですから、因果法則を持ち出して「あなたの心の持ち方が悪いから、不幸になったのだ。あなたが悪いのだ。善なる想いを念じなさい」と相手を責める必要もなくなります。新光明思想は徹底した神の子論で業想念を否定しているのですから、業想念の法則である因果法則の教えは、まったく不要であるのです。言いかえますと、五井先生の新光明思想は、因果法則の無い、中庸の神の子論だけを説く一元論なのです。

 「業因縁は消えてゆく姿」と中庸実相論を説いたら、もう「想念法則による運命改善法」という現象論を説いてはいけないのです。中庸実相論一つで徹底しなくてはいけません。「業因縁は消えてゆく姿」と言いながら、「私もあなたも人類も神の子である」と無理に背伸びをするように真理の言葉をことさら宣言したり、「悪いことを思えば悪いことが起こる。これは絶対の真理である」と想念の法則を説いて人々を地獄へ落としては、矛盾だらけの三元論となってしまいます。中庸の生き方は、もともと難しいことではあるのですが、「世界平和の祈り」に徹した時、おのずと中庸の生き方ができるようになるのです。