「心の法則開運法」の欠陥と「真理宣言法」の欠陥を知れ top page
No.1755 2000/03/08 (水) 03:14 富士宮市
世界人類が平和でありますように「思う通りになる」という「心の法則による開運法」には非常な欠陥があり、「我は神なり」と真理を宣言する「真理宣言法」にもまた、非常な欠陥があるのです。この二つの方法には、どちらも非常な欠陥があることを知りさえすれば、「世界平和の祈り」の素晴らしい完全性に目覚めてくるのです。ところが、惜しいことに、その欠陥を知らずに、「自分は最高の真理を説いている」とみずから思い込み、「心の法則による開運法」や「真理宣言法」を、自信を持って、信者さんたちに説いている宗教者が多いのです。その宗教者が、あまりにも自信に満ちていて、堂々としておりますために、信者さんたちも、その教えに潜んでいる欠陥に気づかぬままに従ってしまっているのです。
「思う通りになる人生」とか「語った通りになる人生」という「心の法則」は、三界(肉体界・幽界・霊界の下層)で作用する想念の法則であり、三界においてその法則は存在するのですが、霊界の中層以上の世界には、業生の法則である「心の法則」は通用しないのです。その法則が三界に存在している事実を、五井先生は否定しているのではありません。「心の法則を応用して、神性を開発することはできないし、真実の安心立命を得ることはできない」と、五井先生は説いているのです。そういう意味で、五井先生は「心の法則による運命改善法」を否定しているのです。
実相論と現象論、いいかえれば「人間神の子、完全円満、悪も不幸も病気も無い」という真理宣言法(神想観)と、「あなたの人生は、あなたの思った通りになるのであるから、善を思えば善が現れ、悪を思えば悪が現れるのだ。だから、善のみを想い、悪を想わぬようにしなさい」という心の法則の開運法は、異なった原理に基づく思想でありまして、同時に行なおうとしますと、二元論になり、その人の言動は矛盾したものとなってしまうのです。矛盾した言動をしていては、神性が現れるはずがありません。
「心の法則を応用した開運法」は、自力の意思力によって、業想念の強い力に対抗してゆかねばならないのですから、神性を開発することは、頭で考えるほど、そう生易しいことではないのです。これが簡単にできるならば、人類世界はすでに平和になっていることでしょう。自力の意思力では、どうにも運命を変えられぬので、人類は滅亡寸前まで追い込まれてしまったのです。肉体人間以上の強力な守護の神霊に運命修正をお願いしなければ、どうにもならない状況であるのです。
五井先生は、生長の家の教えである「心の法則による開運法」を捨て去り、やはり生長の家の「人間神の子、完全円満論」という現在完全円満論を、「人間は本来、神の子であり、完全円満である。現在は未完成の段階にあるので不完全であるが、現在の不完全な姿は、時間の経過と共に消え去ってゆき、未来には神の子の完全円満な姿が現れてくるのだ」という未来完全円満論に修正されたのです。五井先生は、生長の家の複雑で矛盾した二元論の教えを、未来完全円満論だけの一元論に、教えを単純化したのです。
この「未来完全円満論」を、意外に理解していない人が多いのです。「未来完全円満論」が一つあれば、もう「心の法則論」を用いる必要は無くなるのです。人間は未来において神の子になるのです。この未来実相論を本当に信じれば、「心の法則」を用いて「悪を思うまい」と念じたり、「神の子になろう」と念じたり、無理に「私は神の子である」と偽善者ぶらなくても済むのです。それを再び「心の法則」を持ち出すのは、「人間は神の子になる」という真理を、その人自身が信じていないからに他なりません。
善を思えば善が現れ、悪を思えば悪が現れる、というのが「心の法則論」ですが、この思想は、性善説ではなく、性善悪混淆説であるのです。「人間は悪いことを想い、悪い行為もする、だから、善を思わなくてはならないのだ、善を行なわなくてはならないのだ」というのですから、「人間神の子、完全円満」と性善説を唱える実相論とは矛盾する原理であるのです。ある時は「完全な神の子人間」になったかと思えば、ある時は「過ちをする業生の人間」になったりするのは、実におかしなことであるのですが、この矛盾した教えを、矛盾と気づかない人の、なんと多いことでしょう。まず、この二元論の矛盾に気づくことが、五井先生の教えを理解する第一歩であるのです。
二つの思想には、それぞれどんな欠陥があるかといいますと、「心の法則」を説けば、それはいつしか、人を責め裁く道具と化します。また、「人間神の子、完全円満」を説けば、嘘ばかりつく偽善者を生みます。そこで五井先生は、「心の法則論」をきっぱり捨て去り、自他を責め裁く苦しみから、解放して下さったのです。五井先生が、あれほど「心の法則を用いて人を責め裁いてはいけない。心の法則を持ち出せば、そのつもりがなくても、いつしか自分や人を責め裁くようになってしまう。それを知っているから、私は心の法則をきっぱりと捨て去ったのだ」と幾度も説いたにもかかわらず、それを今になって、再び「心の法則論」を持ち出し人を責め裁いているようでは、「親の心、子知らず」と言うほかありません。
五井先生は、従来あった旧光明思想の「人間は、現在神の子であり、現在完全円満であり、現在悪も病気も不幸も無い」という現在完全論を、「人間は本来、神の子である。現在は、完全な神の子を現す途中であるから不完全なのだ。しかし、その不完全な姿は、いずれは消えてゆき、未来は人間は完全な神の子の姿を現せるようになるのだ」という中庸に位置する新しい未来完全論に修正したのです。それなのに、「五井先生の光明思想は、昔の低い心境だった信者の皆さんに合わせた古い光明思想である」と説き、生長の家の真似をして、「我は神なり、という真理宣言形(現在完全論)こそ、より進んだ新しい光明思想である」と誤り解す宗教者が現れてきたのは残念なことです。五井先生の「業は消えてゆく姿で、人間は神の子になる」という中庸光明思想こそ、新しい光明思想であるのにもかかわらず、「五井先生のそれは古い光明思想である」と封印されてしまったのです。
完全な神の子の自分が、守護の神霊に頼るのは、おかしなことです。守護の神霊に頼っていては、自分が完全であるとは、宣言できません。不完全な自分になってしまいます。そこで「私は神である」と真理宣言行をする人は、自力的になり、守護の神霊に頼らなくなってくるのです。「私は神である」と観念的に言ったところで、真実は神の子になったわけではないのですから、自力で運命を改善しようとやってみても、なかなか改善することはできません。しかし、「私は神の子であり、完全円満である」と宣言してしまった手前、守護の神霊に頼るわけにはゆきません。そこで、自力難行道へと陥ってゆくのです。
現在の人間が、神の子であり、すでに完全であるならば、一つも過ちが無いのですから、反省も努力も必要ありません。しかし、現在の人間は、神の子になる途中の未完成な段階にあるのですから、五井先生がいつも説く通り、たえず反省し、努力する必要が出てくるのです。すでに自分は完全な神の子である、とうぬぼれて、自己の言動を反省せず、向上する努力を怠れば、かえって神の子にはなれません。人間は、内に神の子を蔵しているのですが、「自分は神の子である」と宣言しても、偽善者になるだけで、自力でその神性を顕現することができないのです。不完全な心境の持ち主が、「私は神の子である」と宣言すれば、それは神に対する不遜となってしまい、かえって、神の子への進化を阻害することになります。
そこで人間は、守護の神霊に助けてもらうほかない、と五井先生も私も声を合わせて説いているのです。「心の法則による開運法」は自他を責め裁く欠陥があり、「我は神なり、我は完全円満なり」の真理宣言行は、正直な人は心苦しくなり、正直でない人は偽善者となる、という非常なる欠陥があるのです。その欠陥に、五井先生は気づいたのでした。「もっと正直に、あたりまえに生きられて、しかも理想へと無理なく登ってゆける道はないだろうか?」と五井先生は考えられました。その思索の結果、守護の神霊に神性開発を助けていただく他力行を発見したのです。他力行即神我一体、他力行が神我一体への最短の道であることを知ったのです。その他力行の具体的な方法が、「世界平和の祈り」の道であるのです。
五井先生の教えを理解した私たちは、「心の法則による開運法」はしませんから、自他の心を責め裁くようにはなりません。「真理宣言行」もしませんから、無理に背伸びして偽善者になることなく、正直に明るく生きることができます。私たちは、「世界平和の祈り」しかやらないからです。私たちには「世界平和の祈り」しかなく、責め裁く教えが無いのですから、誰をも責め裁く必要がないのです。偽善の教えが無いのですから、偽善者になることがなく、正直に明るく、しかも理想に向かって希望を持って生きることができるのです。私たちは、「心の法則」によって責められることがありません。無理に「私は健康である」と真理を宣言するように強制されることもありません。正直にありのままに打ち明けても、誰もその人を責めることはありませんし、無理に真理を宣言するように叱咤されることもありません。「世界平和の祈り」以外の余計な教えが無いからです。
「世界平和の祈り」を唯一の行法としている私たちは、このように大光明の生活を送っているのです。「世界平和の祈り」こそ、光明思想の行法であり、一つも欠陥のない完全な神性開発法であるのです。「心の法則による開運法」と「真理宣言法による神性開発法」、この二つのいずれの方法にも、神性開発をさまたげる致命的な欠陥が潜んでいるのです。この事実を、一日も早く気づいて、「世界平和の祈り」に全託する人が、一人でも多く増えることを、五井先生はじめ私たちは祈りつづけているのです。