神の教えは「世界平和の祈り」に単純化された top page 
No.2072 2000/08/28 (月) 16:27 富士宮市
世界人類が平和でありますように

  五井昌久著「神への郷愁」(白光真宏会出版局)より抜粋 P27

 …神のみ心は最高、最深のところに置いたままで、たやすくその神のみ心にとどき得るような教えの単純化こそ、人間の理想なのである。それを成し遂げたのが、日本の法然、親鸞の念仏信仰であり、真実のキリスト教の「イエスの御名によって神に接し得る」という教えである。 「南無阿弥陀仏」の六字の称名により、あるいは「イエスの御名」という容易な行為によって、救われに入れるという信仰は、実に複雑なる真善美を単純化せる信仰方法である。そして、そうした信仰行為が、日本神道でいう神代時代の再現になってゆくのである。…

【 解 説 】

 宗教者が真理をしっかりと自己のものにしていないと、その内容が統一されず、バラバラに表現されるため、その教えはやたらに複雑になってしまいます。これは「統一されていない複雑さ」であり、一方単純化しても、重要な急所がはずれた「的外れの単純化」では、これも意味のないものとなってしまいます。

  神のみ心を、わざと複雑化、儀式化、戒律化して、神と人間とを、かえって引き離してしまっている教えもあれば、単純化を低俗化と間違えて、念力による願望成就法を説いて、神のみ心を、物質利益という低い階層に引き下ろしてしまっている教えもあります。

 五井先生のみ教えの特長は、深遠な宗教の内容を「世界平和の祈り」という一つの行法に単純化したところにあります。宗教の行法の単純化は、もちろん五井先生が初めてではなく、「南無阿弥陀仏」を民衆に教えた法然、親鸞のほかにも、神道の「(神さま)祓いたまえ、清めたまえ」という祝詞など、古くから発案され行なわれてきています。

 昔は、今のように紙が豊富にあるわけではなく、本がたくさん印刷されているわけでもありません。文字を知っている人も、ごく一部の人だけだったでしょう。ほとんどの人々は、難しい文字を知らず、文字を読めない無学の人だったのです。そうした時代にあって、民衆を救うためには、難しい経典では役に立ちません。そこで昔の宗教者は、民衆をいかに救うかを考え、「南無阿弥陀仏」のような短い祈り言を発案し、民衆に唱えさせようとしたのです。そして、称名念仏に触れた多くの人々が救われたのでした。

 現代は、ほとんどの人が文字を知っておりますから、経典の翻訳を読むことができます。しかし、現代は昔のようなのんびりとした時代と違い、仕事や家事や育児に一日の大半を費やさねばなりません。仏教の経典は厖大な量があり、そのすべてを読んで理解するということは、宗教を専門とする学者だけがなしうることでありまして、忙しい現代人には、とても無理なことです。現代人は、別の意味で、長い経典を読むことはできないわけです。般若心経のような短いお経でさえも、日々続けている人は、そう多くはないと思います。現代では、短時間で実行できる、短い祈り言が必要であるわけです。

 たくさんの祈りの行法がありますと、車にひかれそうになった時とか、災難にあいそうになった時など、とっさの時に、何を祈ったらよいのか、迷うのではないか、と思います。迷っている隙間に、業想念がドッと入りこんでくるのですから、少しの間でも迷っていてはいけないのです。複雑な行法では、とっさの時に迷ってしまい、祈りの効果が現れません。それに対して、日頃から一つの祈りの行法に徹しておりますと、とっさの瞬間にも祈り言を思い出すことができ、神のみ心に即座に統一することができるのです。

 「世界平和の祈り」は、神のみ心の深奥にまで到達することのできる、宗教上における最高の方法であるのです。「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、個人の霊性開発はもとより、人類の平和は実現されるのです。潜在意識層に厚く重なっている業想念の種類によっては、消えてゆくのに数年から数百年と長い時間がかかるために、「世界平和の祈り」を熱心に祈っても、業想念が消えてゆく実感がないかもしれませんが、業想念が消えているのは事実なのです。「世界平和の祈り」の効果を疑わず、祈りつづけてまいりましょう。神の教えは、「世界平和の祈り」という一つの行法に単純化されたのです。