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No.57 1998/10/09 (金) 18:33 静岡県
世界人類が平和でありますように

 「個人の自由な意見を権力で封殺したり、思想や主義を一方的に押しつける」ということは、もう時代遅れのやり方で、日本の政府も国民に対して、そんなことはできませんし、マスコミの情報を操作して権力を維持しよう、という気持ちも政府にはありません。公務員でも思想の自由がありますし、まともな会社ならば、会社の社長も部長も、社員の思想を束縛することはありません。

 このような今の時代に、宗教団体であっても、何から何までトップダウン式に「こうしなさい、こうしなければいけない」と会員に様々な行を押しつけることは、会員を馬鹿にしたやり方で、もはや時代遅れのやり方なのです。自由に生きることを教えるべき宗教団体が、会員の自由を束縛することは、あってはならないことです。宗教団体だからこそ、より自由に生きることを、人々に教えるべきなのです。

 ここで問題になることは、「神示」ということです。人間からの命令ならば、常識に反することや、自分にできそうもないことはやらないのですが、「神示」という形で、神様から「こうしなさい」と言われると、信者としては弱いんですね。神様からの絶対的な命令ならば、神様を信仰する立場の自分たちは、やらないわけにはいきません。この理由から、心から納得しなくても、多少無理なことであっても、自分の反発する気持ちを抑えたり、自分をだましてでも、「神示」を実行しようと努力するわけです。そうすることによって、自己の信仰心を満足させるわけです。

 しかし、ここで知らなければならないことは、「神示」と言いましても、本物と偽物がありまして、実際には、「偽物の神示が多い」ということです。「神示」というのは、そう度々あるものではありません。「私には霊能力があって、守護神の声を聞くことができるのです。私の神示を聞いた人は、みな恐れ入って聞いています。私の守護神が、森島さんについて、これこれしかじかと伝えてきた。どうです?みごとに当たっているでしょう」と私に偉そうに言ってきた人がいました。

 「それは間違っています。それは守護神の声ではありません。あなたの潜在意識にある、こうであってほしいという想念が、あたかも守護神が言っているかのように、聞こえてくるのです。真実の霊能力がないのに、霊能力があるふりをして、人にあがめ立てまつられたいという、つまらない欲望で、そんなことを言って歩いても、見る人が見れば、嘘だとわかってしまうのですから、恥をかくだけです。人の心を覗いて見るような、当てもの屋になっては、本心開発が遅れます。そんな暇があったら、人々の幸せを祈り、世界平和の祈りを祈ったらどうでしょうか?」と、私がはっきり言いましたら、相手の人はカンカンに怒って、去って行きました。

 皆さんの中には、神様の姿を見たり、声を聞いたりして、教え導いてもらいたい人が、かなりいると思います。ところが、真実そうなるためには、その人の心境がよほどすぐれてきていないと、非常に危険な状態に陥ることがあり、かえって、自己の運命を損ない、他人の運命をも傷つけてしまうことが多々あるのです。その人の潜在意識が、神霊の心のような状態で、声で、いろいろなことを、その人に教えたり、命令したりすることが多いのです。それが真実の神霊の声と入り混じって聞こえてくるので、その判断をすることが実に難しいのです。神示といっても、ほとんどが、自己の潜在意識であったりするのです。

 一人の人を判断するのでも、潜在意識がその人に悪意を持っていれば、その人が事実は立派な人であっても、そのお告げは「あの人は悪い人である」というように出てまいります。また、実際にはやらなくてはならぬことでも、潜在意識でやりたくない場合には、「やらなくともよい」という命令になります。それが自分だけの生き方であるのならば、損をしても自分だけのことですが、これを他人の指導に用いた場合には、他人の運命を狂わせることになってしまいます。

 やたらに神の声を聞きたがることは、無謀なのであります。守護の神霊は、守っていることを、いちいち声で聞かせて 知らせるようなことはいたしません。肉体人間の何気ない一挙手一投足の間に、その使命を遂行してゆくのであります。たとえば、「その人に会ったほうがよい」という有益な人には、何気なく会わせたり、知らないうちに、傷害や過ちを防いでくれたり、日常生活の中の一言が、相手の運命を開く言葉になったり、あらゆる面で、目に見えないところから、守護霊守護神は、肉体人間を守ってくれているのです。ですから、声でささやかれたり、目で見たりする必要は毛頭ないのです。目で見たり、声に聞いたりすると、かえってそのことに把われて、潜在意識で自他の運命を危うくしてしまうことがあるのです。ただ、常になさねばならぬことは、守護霊守護神への感謝なのであります。

 五井先生が伝えている大神様からの神示は「世界平和の祈りは、地球を救う唯一無二の方法である。世界平和の祈りを祈るところに、救世の大光明を輝かすから、世界平和の祈りをしなさい。世界平和の祈りを祈っていれば、地球は滅亡することなく、必ず完全平和を実現できる」という神示です。

 「世界は平和になる」という神示以上の大きな神示は、どこにもありません。「世界は平和になる」ということは、「あなたも幸せになり、あなたの家族も幸せになる」ということです。この神示さえ知れば、もうこれ以上、何も神示はいらないではありませんか。「世界は平和になる」のですから、「今日は右に行きなさい」とか「明日は、こうしなさい」という細々とした神示は、一切必要ないのです。あなたがどこへ行こうと、あなたが何をしようと、何をしようとしなくても、世界は平和になる、に決まっているのです。そこで「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をまねて、「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」と私は説いているのです。

 それでは、もし、神様から声が聞こえてきたり、神示を聞いたら、その時にはどうしたらよいか?その時は、五井先生の「消えてゆく姿」の教えを思い出して下さい。その神様が、仏菩薩であろうと、宇宙人であろうと、宇宙神であろうと、五井先生のお姿であっても、すべての神示を一度「消えてゆく姿」にしてしまうのです。五井先生からお聞きしたお話を例にして、具体的に書いてあげましょう。

宇宙神「あなたもお金がなくて困るだろうから、金を与える。これから浜松町駅で降りて、
その降りた右側に四十位の女性が宝くじを売っているから、その人から××××番
の宝くじを買いなさい」あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありま
   すように」
宇宙神「今、目の前の広い道路には、たくさんの車が猛スピードで行き交っているが、神
はあなたを守っているから、神の無限なる力を信じて、安心して、目を閉じて、向
こう側まで歩きなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたは神より選ばれた偉大な人間だ。今まで誰にもできなかった大菩薩の仕事
をするのだ」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたの願いをすべてかなえてあげよう。あなたの願いを強くイメージしなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたは役立たずで、もう使い物にならないから、世界平和の祈りもやめなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「今は、時代が進んだので、世界平和の祈りよりも、もっと素晴らしい方法がある
のだ」あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」

 このように、すべての神の声を「消えてゆく姿」にして「世界人類が平和でありますように」の祈りの中に入れてしまうのです。そうしますと、偽物の神示は、すべてきれいに消え去ってしまいます。本物の神示である場合には、否定しても、自然と行為となって現れてきますから、ご心配はいりません。本物か偽物かは、判断がつきかねるのですから、一度すべてを「消えてゆく姿」として否定してしまうことです。神示を「すべて本物である」と鵜呑みにして、「消えてゆく姿」と否定しないで、その神示を実行することは、非常に危険ですし、神の子としての自分の尊厳を失う、無批判無判断の隷属した立場に立っていては、いつまでたっても神の子の神性は現れてはまいりません。「消えてゆく姿」と否定し、「世界人類が平和でありますように」の祈りの中に入れる日まで、いつまでも神の試みは続けられるのです。

 私のように神様の試みに合格した者は、神様はもう何も干渉してこなくなります。私は答えを知っているのですから、神様は私を試みる必要はもうないのです。ですから、皆さんが神示の通りに種々様々な行法を行なっている時も、私一人は無為の境地に在って、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をやっておりました。「世界平和の祈り」以外に、私は何もしておりません。

 何を言われても、何を指示されても、何を命令されても、「ハイ、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」とまるで馬鹿のように答えていましたから、講師たちから「森島さんは、古い世界平和の祈りに把われている。あんなふうになっちゃ、いけませんよ。あの人は把われているんです」と集会所や講演会で、さんざん笑いものにされたものです。イエスキリストが、真理を知らない民衆によって十字架にかけられたように、五井先生の教えをろくに知らない者が、五井先生の教えを正しく実行している私に向かって、見下した目でけなしてくるのです。「世界平和の祈り」を祈っている私を侮辱することは、五井先生に対して侮辱することと同じである、ということも知らず、気の毒なことです。

 「世界平和の祈り」だけをやっとけば、大丈夫なのです。安心して下さい。真理の言葉に把われず、神示に把われず、因縁因果に把われず、想念の法則(心の法則)に把われず、念力に把われず、現世利益に把われず、光に把われず闇にも把われず、すべてを消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」の中に投げ入れてしまうことです。「世界平和の祈りに把われてはいけない」と言う人がいますが、「形に把われてはいけない」という言葉はあっても、「世界平和の祈りに把われてはいけない」という言葉は、五井先生の教えの中には、どこにもありません。安心して「世界平和の祈り」に統一して下さい。「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、「ああしよう、こうしよう」「こうしなければならない、ああしてはいけない」といちいち思わなくても、神のみ心が自然法爾のうちに、あなたの行為となって現れてくるのであります。