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 宗教の目的は、神様のみ心の中に入りきり安心立命を得ることです。それは神様に全託する道であります。その一番のやさしい方法が「消えていく姿で世界平和の祈り」の行です。

「世界平和の祈り」の中にすべてがある
No.51 1998/10/06 (火) 01:52 静岡県
世界人類が平和でありますように

 南無阿弥陀仏という念仏は、もっとも短い祈り言の一つです。他力易行道で、短い祈り言であったからこそ、浄土宗と浄土真宗は日本で最大の信者数をかかえるようになったのです。僧職についている人は、朝から晩までお経を唱えていることはできますが、家族をかかえ、食べるために仕事に追われる民衆にとりましては、長いお経を唱えている時間的精神的余裕はありません。その南無阿弥陀仏にしても、「ナムアミダ」「ナマミダブ」「ナマンダブ」「ナンマイダ」と短く唱えられるようになり、さらには「ナムアミ」「ナイダ」と唱える人もいました。民衆が、いかに短い祈り言を求めているかが、よくわかります。

 ダラダラとした長い祈り言や、難しい行法などは、それが良いことであるとわかっても、民衆は、そうした祈り言や行法をやっている暇がないのです。宗教指導者は、そうした民衆の立場を深く思いやって指導することが大切なのです。多くの民衆に受け入れられなくては、そのお説教がどんなに立派であっても、実際に役に立たないのですから、机上の空論となってしまいます。

 「世界平和の祈り」は現代の念仏といえるもので、短く簡単で、しかも英語フランス語ドイツ語など、外国語に翻訳しても、祈り言の効果はありますから、世界の人々に理解されて、世界に大きく広まってゆく可能性があるのです。仏教の一部では、外国でも日本語のお経をそのまま発音するように教えている宗教団体がありますが、そうしたやり方ではいずれ行き詰まることになるでしょう。「世界平和の祈り」も、もし日本語だけで世界の人々に発音させようとしたら、世界に広まることはないでしょう。

 伝教大師最澄が開いた比叡山は、日本仏教の発祥の地として有名です。密教を含む幅広い仏教の集大成が保存され研究され伝えられているのですが、比叡山からは浄土門の法然聖人、親鸞聖人、法華経に帰依することを説く日蓮聖人、禅宗の道元禅師など、総合仏教のすべてをやるのではなく、膨大な仏教教典の中から、自分に合った一つの修行方法を探し出し実行し、その体験で得た教えを民衆に伝えたのでした。このように歴史的に見ても、一つの短い祈り言へと、しだいに集約されてゆく様子がわかります。

 「世界平和の祈り」は、やさしく簡単な言葉でありながら、神のみ心の奥深くへとつながっている、美しく高い気品のある言葉です。現代の人類にふさわしい祈り言です。「世界平和の祈り」の中には、すべての宗教の教えがつまっているのですし、人類の神性を顕現させる力と、地球の平和を実現する力が秘められているのですから、何も行法を付け足す必要はないのです。それがわかりますと、「世界平和の祈り」一つに想念がピタッと統一して、「あの行もしなくてはならない、この行もしなくてはならない」という煩わしさが消え去り、心がスーッと軽くなり、晴々としてくるのです。

 「一つの祈り言だけを唱えていれば救われる」という教えは、あなたの日常生活を非常に楽にします。「世界平和の祈り」に統一したシンプルな生活は、心がすっきりして、明るくなってきます。私の教えを聞いて、実行した人々は、「世界平和の祈り一つに統一したら、自分でも驚くほど明るくなった」と異口同音に体験を話しています。「ラジオ体操が体にいい」とわかっていても、毎日つづけている人は少ないですし、一生つづけている人は、そうはいないでしょう。それと同じように、長い祈り言や、難しい行法などは、一時期は熱中してできても、しだいに疲れてきて、なかなか長続きするものではないのです。「世界平和の祈り」には大光明の力がありますし、短く簡単で疲れませんから、長続きできるのです。

 「世界人類が平和でありますように」と祈れば、人間は自然に神性を顕現できるようになるのです。「世界人類が平和でありますように」と祈れば、人類は自然に平和を実現できるようになるのです。

 朝の目覚めの時から、夜寝るまで、眠りに入ってまでも、いつでも「世界平和の祈り」が鳴りひびいている幸せは、体験した者でなければわからない幸せです。「世界人類が平和でありますように」と祈っている時、私たちは神様のみ心の中に入っているのです。ですから、この上ない深い安心感を得るのです。「世界人類が平和でありますように」の中に、私たちの望むすべてがあるのです。