五井先生があなたに教えたいこと top page
「五井先生が、あなたに教えたいこと」を、ここに書きます。すべて五井先生のご本からの抜粋です。五井先生が、あなたに教えたいこと
No.1402 1999/10/30 (土) 23:11 富士宮市
世界人類が平和でありますように◆ 「我は神の子なり」と叫んでいても、神の子にはなれない◆
「生きている念仏」(白光出版)P36より自己の業想念をそのままにしておいて、「我は神の子なり、仏子なり」と叫んでいても、その神の子観、仏子観は、業想念波動の中での観念に過ぎないので、真実の仏の姿、神の子の姿が、その人の行為に現れてくることはないのです。
◆自己の思う通りになるという念力主義は、光明思想のはき違え◆(同本P38より)
光明思想のはき違えのような、自己の想う通りになるという念力主義や、業想念と真我とを混合させて、「神の子だ」と威張っているような無反省な生き方も困りものです。
◆「人間神の子」に把われるな。「業因縁の法則」にも把われるな◆(同本147より)
人間神の子とか、仏とかいって、神の子、仏に把われ、空といって空に把われ、業因縁を言って業因縁に把われるのが、肉体人間の習慣であります。私は、この把われを放つことに重点を向け、すべての想念をひとたび消えてゆく姿として見送らせると同時に、その想念を神仏(守護の神霊)の方に転じさせて、把われなき生活を、この世に顕現せしめようとしているのであります。
◆「誰をも神の子として拝め」とは、五井先生は教えてはいない◆(同本176より)
悪いことをしている人を、「そのまま神の子として拝め」というのではない。神の子の現れるための、業想念の消えてゆく姿として、その人の不都合な想念行為を見てやる。そういう想いで見ようとしても、自己の心に憎しみや妬みや怒りの思いが強くて、消えてゆく姿と思うことができなかったら、そうしたすべての想いのままで、世界平和の祈りをなさい、というのです。
◆高い理想を説いても、かえって自らの心を責めさいなんでしまう◆(「光明をつかむ」P42より)
日常生活をそのままにして、この一生において、釈尊やキリストの説いた真理の奥深いところを行ずるということは、よほど上根の最も秀れた僅少の人々にしか、でき得ないことだ、と私には思われるのです。
キリストのいうように、上着を取る者があったら、みずから進んで下着をも与え得る人が、この世にどれほどありましょうか。また「右の頬を打たれたなら、左の頬をも出しなさい」と教わっても、恐怖の想いでそうするのではなく、寛容の心、愛の心で、そうした行為を為し得る人が、一体何人あるでしょうか。あるいは、美しい女性を見て、心をひかれぬ青年が、身心異常者でない限りは、滅多にあるものではありません。理想は勿論高いほうがよいでしょうが、その高い理想が、あたかも誰にでも達し得るように説かれていると、良心的な人は、かえって自らを顧みて、自らの心を責めさいなんでしまいかねません。…金持ちの生活様式を、貧乏人がいくら聞いても、どうにもならぬと同じように、上根でない、宗教的に特別秀れた素質を持っていない人々に、宗教的天才の通ってきた道を説き、その天才の到達した境地になれ、と言っても、これは無理な話です。そこで私は、空ということを説くにしても、人間の理想の道を説くにしても、常に、一般大衆にでき得る方法で説くことに、心を定めているのです。特定の少数の人々だけしか通り得ぬような道では、この世における宗教者の役目が果たせない、と私は思っているからです。
(※註釈…聖書では「下衣(したぎ)を取らんとする者には、上衣(うわぎ)をも取らせよ」が正しい。
この時代は、上衣は寝るときに、かけ毛布のように生活の必要品として用いたために、借金の担保に上衣を取ることは法律で禁止されていて、金貸しは借金の担保として下衣を取ったのである)◆真理そのものを行じてゆくことは実に難しいことである◆(同本P66より)
私は根本真理が、いかに真理であるとしても、一度に急速に、それを実施しようとする態度そのものが、真理に反すると思うのであります。一時から二時になり、春から夏になるように、この世の動きには、すべて順序というものがあるのであって、いっときに真理そのままが現れる、ということはないのです。…今日の現実生活は、自然そのまま、真理そのままを、行じ生かしてゆくことは実に難しいことであり、できにくいことなのであります。…いかなる真理といえど、押しつければ、それは不自由となり、真理ではなくなってしまうのです。真理とは、常に自由に行なわれるものなのであります。
天地万物に感謝する、ということでも、天地万物に感謝すること、その真実は、最高の真理への行為であり、それが日常行なえる人は、実に幸福な人であり、真の人間であります。ところが、この立派なことが、ひとたび、声に出る言葉となって、他人に強要された場合は、この内容が、まるで死んでしまうのであります。また、強要した人も、もはや感謝の人ではなくなっているのであります。
◆ 現世の人間は、まだ「神の子である」と大見得を切るほど、光明化してはいない◆(同P66より)
人間は神の子であり、神そのものであるのは真理なのでありますが、それは、文字の上や、声に出る言葉で言うべきものではなく、その人の全人格、言語動作、全行為に現れるべきものであって、文字や、発声による言葉で言うのは、ただたんに、その真理につなげるための、一つの動作であるのです。それを、ことごとに「人間は神の子なのだ、円満完全なのだ」と、他人の立場やおもわくを無視して、しゃべりまくって、自らの想いを満足させているような者があるとしたら、その人は、「行き過ぎた人」というべきなのであります。
神が現れる時には、愛となり、慈悲となり、真となり、美となり、善となり、調和となって現れるのであって、ただ単なる、文字や、発声による言葉に現れるのではありません。その行為が、愛であり、慈悲であり、真であり、美であり、調和でなければ、その人は、神の子とは言いがたいのです。現世の人間は、神内部に蔵して、その僅かの光を外部に発光しているものであって、まだ「神の子である」と大見得を切るほど、光明化してはいないのであります。理想はいかほど高くてもよいのでありますが、その理想のみに把われて、理想と現実の差異を忘れ去ってはならない、と私は言いたいのであります。