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 「神さま、ありがとうございます」と神さまに常に感謝して、日々を暮らせる人は、それだけで実に幸せな人であるのです。

常に「ありがたい」と想える人に
No.2071 2000/08/27 (日) 02:55 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「神への郷愁」(五井昌久著 白光真宏会出版局)P334

【 解 説 】
五井先生のような聖者は、このように常に「ありがたい」という感謝の想いが湧きあがっているのです。いつ会っても、いつ話しても「ありがたい」と話す人は、少ないというよりも、ほとんどいないのが現実です。口を開けば、不平不満ばかり、人の悪口ばかり、人をけなす言葉しか出てこない、のでは、その人自身が地獄に住んでいるようなものです。人の悪口ばかり言っている人を観察していると、その悪口を言っている人自身に不平不満があって、その不平不満の想いが、他人への悪口となっている例が少なくありません。もし、異常なほど、他人の悪口を言っている人は、自分の内面を反省する必要があるのです。

五井先生は、常に感謝することの大事さを説かれていました。「神さま、ありがとうございます」と常に唱えていました。五井先生の心には、不平不満の想いが少しもなかったのです。私も、五井先生に救われてからは、常に「神さま、ありがとうございます」と思えるようになりました。私は、朝から夜まで寝ていても、「神さま、ありがとうございます」と思えます。私の心の中には、不平不満がありません。

どうせ生きて暮らすならば、毎日感謝に満たされて生きたほうが幸せなのに、どうも多くの人は、不平不満の種を探しては、自分がいかに不幸で、みじめで、悲しい人生を送っているかを、人に見せたいようです。戦争中に比べたら、好きな食べ物を食べられるだけで、服が着られるだけで、住まいがあるだけで、どんなにありがたいことでしょう。どうして、食事に感謝できないのでしょう。どうして、住んでいる家に感謝できないのでしょう。どうして、今着ている服に感謝できないのでしょう。

常に物事にケチをつける癖を持った人は、不幸な人だと思います。どんなにおいしい食べ物を目の前にしても、必ず一言ケチをつけないと、食べられない人がいます。たとえば、お寿司を見ても、「このネタはアブラがのっていない」とか「今日のシャリは少し固い」とか、一言ケチをつけてから、食べるのです。この世の中に完全な食べ物など無いのですから、ケチをつけたらキリがありません。人間だって、完全な人はおりません。人のあら探しをしようと思えば、これもキリがありません。どうして、「ありがたい」と思って、お寿司を食べることができないのでしょう。どうして、「この人と会えて、ありがたい」と思えないのでしょう。どうして、五井先生のみ教えに出会えて、「ありがたい」と思えないのでしょう。私には、不平不満を言ってばかりいる人が、不思議に見えてならないのです。

現在の世の中は、完全ではありません。不完全な世界です。したがって不平不満を数えあげれば、キリがありません。ところが、このような不完全の世界に肉体は住みながら、心は完全な世界に住んでいる人がいるのです。完全な世界に住んでいる人とは、すべてに感謝できる人です。形式的に感謝するのではなく心の奥底から感謝の想いが湧いてくる人は、肉体は地上に住みながら、心は天国に住んでいるのです。

テレビに出演していた女性の一人が、「今の家にはお風呂がないので、お風呂のついた家に住みたい。それ以上のぜいたくは言いません」と切実に話していましたが、お風呂のある家に住んでいる人は、それだけでも感謝しなくてはなりません。視力のない人が、「目が見えるようになりたい」と願っていますが、視力のある人は、それだけでも感謝しなくてはなりません。歩けない人が、「歩けるようになりたい」と願っていますが、あなたが自由に歩けるとしたら、それだけでも感謝しなくてはなりません。あなたが、あたりまえに思っていることが、他人から見たら必ずしも、あたりまえ、ではないのです。

不平不満の想いは、自分の心を暗くし、自分を不幸のどん底へと突き落とします。感謝の想いは、自分の心を明るくし、周囲の人の心をも明るくし、自分を幸福な生活へと導いてくれます。感謝できるようになるためには、感謝すべきことを一つ一つ探す、という方法もありますが、守護の神霊に、自分の生命も運命も欲望もすべてお返ししてしまって、守護の神霊から改めて生命を頂き直すとよいのです。

「神さまのみ心のままになさしめたまえ、世界人類が平和でありますように」

と自分の生命も運命も欲望も、神さまのみ心の中に、すべてを投げ入れてしまうのです。そうしますと、すべてが神さまから与えられたものとなり、どんなに小さなことも「ありがたい」と思えるようになるのです。飽食の時に、梅干しを食べても感謝できないかもしれませんが、断食をした後に、一つの梅干しにも深く感謝できるのは、欲望を断ち切った後であるからです。「これが欲しい、あれが欲しい」という欲望を、このような祈りに転換するのです。

「神さまのみ心ならば、これをお授け下さい。しかし、神さまの目からご覧になって、私に必要ない、と思われれば、これをお授けにならなくてもかまいません。神さまのみ心のままになさって下さい」

このように神さまに欲望をすべてお返しして、自己を無にして、常に神さまから頂き直す生き方をしていれば、常に感謝して生きることができます。自己の不平不満の業想念に克つことこそ、宗教の目的であり常に感謝できる人間になることこそ、私達の人生の目標であるのです。 「神さま、ありがとうございます」 と神さまに常に感謝して、日々を暮らせる人は、それだけで実に幸せな人であるのです。