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業波動の法則圏内で真理を宣言しても真理が現れることはない。他力による想念変換法「世界平和の祈り」の出現は、中庸光明思想を、さらに大光明思想へと完成させた。
かくして大光明思想は完成した
No.1202 1999/10/08 (金) 00:37 富士宮市
世界人類が平和でありますように想念の法則、心の法則、因果法則は同じ意味で、業の法則にすぎない 「想念の法則」を利用して運命を改善しようとする人は、自分の未来を「こうありたい」「こうなりたい」「こうしたい」と強く念願し、希望しつづけるならば、想いの法則の通り必ず成就するものなのである、と説いています。これは昔から仏教で説かれていた因縁因果の法則を、「想念の法則」とか「心の法則」という新しい言葉で言いかえたにすぎず、これらは神の法則ではなく、業の法則にすぎないのです。
願望がすべて成就されることはない ところが、想念法則論者が、いくら「あなたは成功するのだ」と説いても、願望が成就される人もいる反面、願望が成就されない人も出てまいります。現実には、病気や自己や災難にあっている人がいるわけです。その人たちは「私は健康だけを願っている、事故を欲してはいない、災難などにあいたいとは思っていない。だけど、病気です。事故にあいました。災難にあいました」と主張します。
想念法則論者は、相手のせいにして、相手を責める すると、想念法則論者は、「あなたが、希望の目標を実現できないのは、目標が実現される前に、待ちきれなくて目標を投げ捨ててしまっているか、または、成功するという信念を無くしてしまったか、成功するための行為を棄ててしまったか、によるのです」と答えます。つまり、「あなたが成功できないのは、あなたの信念が弱いからなのだ」と相手のせいにするのです。
想念法則論の成功法則は、恐怖法則に一転する さらに、「何かを恐れれば恐怖の対象を創造してしまう、という想念の法則によって、あなたが、病気、事故、災難を恐れているから、あなたは病気、事故、災難にあうのだ」と説くのです。最初は、因縁因果の法則の善の面だけ、成功法則の面だけを説いていても、現実の失敗に対して、このように「恐怖は恐怖を呼ぶ」という想念の法則の悪因悪果という暗黒面を、説明しないわけにはゆかなくなるのです。とどのつまりは、「あなたが病気になったり、事故や災難にあったりするのは、あなたが悪いのだ」と人を責めることになってしまうのです。
想念法則論で業想念を「無い」と否定する方法 そして、このままでは人を責めることになってしまう、と気づいた想念法則論者は、ひたすら善念だけを徹底して潜在意識にたたきこむ、という方法を考えます。そのために、病気、事故、災難といった否定的な言葉や想念を、否定して打ち消そうとする方法を、思いつきます。たとえば、「病気は無い」「事故は無い」「災難は無い」と否定する方法です。しかし、病気、事故、災難という言葉を使っているのですから、いくら「無い、無い」と唱えても、否定的な言葉がつきまといます。
想念法則論で真理の言葉を"I am 〜"と宣言する方法 そこでもっと良い積極的な方法はないか、と考えて、「私は完全に健康である」「私は安全である」「私は幸福である」という真理の言葉を宣言する方法を、思いつきます。「そうだ、これ以上の方法は無い。病気、事故、災難は消えてゆく姿、と否定しているうちは、まだ、病気、事故、災難という言葉を使っているから、完全な光明思想にはなっていない。真理の言葉を宣言してこそ、完全な光明思想になるのだ」と法則論者は考えるのです。
完全な健康、完全な安全、完全な幸福、完全な富、完全な能力、これらを一つの言葉に言い表すと、「私は完全である」"I am a Perfect"すなわち「私は神の子である」"I am Son of God"という言葉になります。そこで、「私は神の子である、私は神の子である」と宣言し唱えつづけていれば、想念の法則によって、神の子の完全な人間が現れてくるはずだ、と考えるのです。
業波動の法則圏内で真理が現れることはない しかし、私から見ますと、そのような法則論者は、真理に把われた迷妄者としか映りません。「私は神の子である」と宣言したり、「私は完全である」と唱えても、そうやすやすと神の子の姿が顕現されてきたり、完全な人間になったりは、いたしません。なぜかと言いますと、業想念波動は、そんなに甘いものではないからです。どんなに善念を思っても、業波動の圧倒的な力で、善念を押しつぶしてしまうのです。想念法則論者は、いかにも簡単に「私は神の子である、と宣言すれば神の子になれる」「私は完全であると唱えれば、私は完全になれる」と説きますが、そのように説いている指導者自身、何年やっても、神の子になっていませんし、完全な人間にもなってはいません。「こうしたら、たぶん、なれるだろう」と推測してやっているにすぎないのです。私は、はっきり断言しますが、そのような方法では、決して神の子にはなれません。完全な人間にはなれません。業想念の力を無視した、自力の方法では、神の子にはなれないのです。
神の子論を説いた宗教者が、新たに想念法則論を説く場合 初めは「神の子論」を説いた宗教者が、現実の業の存在を実相論から「無い、無い」と説いても、多くの人々は「業は無い」とは思えないのですから、「神の子論」「実相一元論」では説明しきれなくなって、「想念法則論」を持ち出して、「神の子論」と「想念法則論」の二元論になってしまうのです。「想念法則論」は、善因善果、悪因悪果が存在していて、人間は善の行為をするけれども、悪の行為もする存在と見るのです。つまり、「人間は完全な神の子ではない」という前提が、「想念法則論」にはあるのです。いいかえれば、「人間は完全な神の子ではない」と思っているから、ことさらに「悪いことを思うまい、善の想念を思おう」とするわけです。完全な神の子が、悪いことを思ったり、悪いことをするわけが無いからです。したがって、「神の子論」と「想念法則論」の二つを合わせて説けば、矛盾した二元論になってしまうのです。
想念法則論を説いた宗教者が、新たに神の子論を説く場合 その逆に、初めは「想念法則論」だけを説いていた宗教者が、善の想念を念じるうち、「人間は神の子である」という真理の言葉を念じるように、教えてゆく場合もあります。しかし、低い想念波動の世界の中で、「私は神の子である」と念じることによって、神の子になろうとしているわけですから、いつまでやっても、やはり神の子にはなれません。想念の法則は業生の法則であるのですから、神の子にはなれないのです。かえって、偽善者になってゆき、神の子の本心を厚い偽善の皮で覆っていってしまうのです。
自力による想念変換法と他力による想念変換法 暗黒想念から積極想念へと想念を転換しようとするのですが、次々と押し寄せる業波動に呑み込まれて、自力で想念を転換することは、不可能といっていいくらい、むずかしいことなのです。私の「想念波動変換原理」とは、自力で業想念を善想念に変換するのではなくて、守護の神霊のみ心の中で想念を変換していただく方法です。「神様、お願いします。この想念をお浄めして下さい。世界人類が平和でありますように」とささげ入れるだけでいいのです。電気洗濯機に、服を投げ入れれば、あとは自動で服が洗濯されるように、守護の神霊のみ心の中で、業想念波動が光明波動に変換されて、「ありがたい」という光明波動となって、私たちに還ってくるのです。
光明思想とは積極思想でも真理偏重思想でもなく、理想と現実をつなぐ中庸光明思想 五井先生の光明思想とは、想念の法則を利用した積極思想ではありません。無理無理に真理の言葉を宣言する、理想に偏り、現実を無視した、神の子論でもありません。五井先生の光明思想とは、理想と現実を一つに結んだ中庸の神の子論であるのです。それがすなわち、「消えてゆく姿」の教えであるのです。「業想念は現実には存在している」と現実を認めた上で、「しかし、この現在の業想念は、時間がたてば消えてゆくのであり、未来には一切無くなるのだ」と時間の要素を加えて、無理なく業想念を否定するのです。このように「消えてゆく姿」という言葉で業想念を否定すれば、「業は無い」というような無理をすることなく、現実に正直に生きられて、しかも理想にも矛盾しない中庸の生き方ができてくるのです。
五井先生の光明思想には、「想念の法則」「心の法則」を利用した教えは、一切ありません。また「業は無い。悪は無い。病気は無い、地震は無い。災害は無い。不幸は無い。私は完全である。私は神の子である」というような「理想に片寄った神の子論」でもありません。五井先生の光明思想は、「業は消えてゆく姿」と時間の経過と共に、徐々に業を否定してゆき、未来において人間本来の神の子の姿が現れてくるのだ、と説いているのです。ですから、現実と理想をつないだ光明思想と言うのです。この中庸の光明思想こそ、自分を責めず、人も責めず、おのずと自分を赦し、人を赦せて、少しも力む必要がなく、偽善とならず、正直に、楽に、明るく、生きることのできる素晴らしい光明思想であるのです。
「世界平和の祈り」の出現は、中庸光明思想を、さらに大光明思想へと完成させた その「消えてゆく姿」の業想念中庸否定法に加えて、守護の神霊に向かって「世界平和の祈り」を祈れば救世の大光明によって、業想念を浄めていただき、私たち人間の本体を顕現していただけるのですから、五井先生の光明思想の行法としては、「世界平和の祈り」一つだけであるのです。五井先生の光明思想の具体的な実践法とは、「世界平和の祈り」を祈ることであり、「世界平和の祈り」以外に、光明思想の行法は不要であり、「世界平和の祈り」が、神の子の本体を顕現する最も効果的な方法であるのです。
「私は神の子である」と、ことさらに言わなくとも、黙っていても、純粋な愛の行為をしている人は、神の子を顕現している人です。「神は愛なり、愛は神なり」であるからです。それと同様に、人類愛の祈りである「世界平和の祈り」をしている人は、ことさらいわなくとも、神の子の行為をしている人であるのです。「世界平和の祈り」をしていれば、偉ぶらず、偽善者ぶらず、嘘をつかず、正直に、力まずに、明るく、自然に神我一体になってゆくのであります。このように救世の大光明によって、人類の想念を光明化するところから、五井先生の光明思想を、私は「大光明思想」と名付けているのです