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No.82 1998/11/01 (日) 08:24 静岡県
世界人類が平和でありますように

 神には、宇宙の法則としての働きと、愛の救済の働きの二つの働きがあります。「宇宙の法則のままに生きなさい」と教えられても、宇宙の法則から外れた人間が、自己の力だけで宇宙の法則に戻すことは、なかなか容易なことではありません。現在の肉体人間は、宇宙の法則から外れてしまったので、宇宙の法則に合わせて生きなければならないことは充分に承知していても、肉体人間のみの力では、宇宙の法則に合わせて生きることが難しいのです。そこで、神の働きの一つである愛の救済の働きをする、守護霊守護神の力によって、宇宙の法則に乗せていただく必要が、どうしてもあるのです。「法則論」を説くのは結構なのですが、「法則論」を説く人は、おおむね「守護の神霊による救済論」を説かずに、「法則論」に傾き終始する人が多いようです。

 「法則論」のほかに、「守護の神霊に頼るな」という「自力論」を教える宗教者もいます。人間には、内在する神として分霊を持ち、外部の神として守護の神霊を持っているわけですが、内部神性を顕現するためには、外部神性である守護の神霊の力を借りなくてはならないのです。守護の神霊の力が加わって初めて、人間は分霊としての内部神性を完全に発揮できるようになっているのですが、この場合も、内部神性の力を強調するあまり、守護の神霊に頼ることを拒絶する教えを説く宗教者がいるのです。「守護の神霊に頼らず、自己の内部神性の力を発揮して、自分の力で自分の運命を切り開け」と教えるのですが、健康で経済的にも家庭的にも恵まれている人はともかく、病気や貧困で苦しむ人々にとっては、このような教えは、少しも救いにはならないのです。

「法則論」や「自力論」は、目に見えない守護の神霊への祈りが無いので、インテリ向きの教えではある は立派な話には違いないが、自分たちには実行不可能の教えのように思えるのです。人々に冷酷さを感じさせる「法則論」や「自力論」では、人類は救われません。民衆の心は、自分の力だけではどうにもならないと思うから、守護の神霊にすがろうとするのです。その気持ちを無視するような宗教論を説いても、多くの民衆はついてきません。民衆は、何か大きな力に救われたいのです。絶対的な力を持つ神に愛されたいのです。そうした民衆の心を無視した「観念論的宗教」は広まることはありません。

 自分の力だけで、自分の身を守ることはできません。守護の神霊に守られてこそ、安全に生きることができるのです。「守護霊さま、お守り下さい」と守護の神霊に加護を祈る気持ちは、自然な感情であって、そうした自然な感情を無視して、「自分の力で自分を守れ」と言われても、一般民衆の心は納得しないのです。どんなに真理の言葉であっても、どんなに立派な教えを説いても、納得できない、実行できない教えというものは、実際の役には立たないのです。そうした役に立たない教えを「観念論」というのです。

 五井先生の教えは「守護の神霊による救われ」を説いているのですから、「法則論」でもなく「自力論」でもありません。「自力で宇宙の法則に乗れ」と五井先生は説いているわけではありませんし、「あなたは神の子なのだから、守護の神霊に頼らずに、自分の力で運命をよくしなさい」と説いているわけでもありません。「守護の神霊にお任せすれば、おのずとあなたの内部の神性が開いてきて、知らないうちに、宇宙の法則に乗って生きることができるようになるのです」と五井先生は説いているのです。守護の神霊に救われるという「他力論」は、神の愛を感じさせ、温かさを感じさせます。すべての人が救われるには、守護の神霊による救われを説く「他力道」しかありません。個人人類同時成道の他力道の「世界平和の祈り」こそ、世界中のすべての人々に受け入れられて、実行される教えであるのです。

 守護の神霊を抜きにして、「世界人類が平和でありますように」と祈るのではありません。 「世界人類が平和でありますように」と祈る対象は、愛に満ちた守護の神霊であるのです。 「あなたは、あなた自身で、運命を開け」というような教え方は、私たちはいたしません。 「あなたが幸せでありますように」と守護の神霊の方々に、私たちは祈りつづけるのです。 「法則論」をいくら説いても、人は癒されません。愛の祈りこそが、すべてを癒すのです。