『凍らぬ足音 / 永瀬月臣』
春の日差しがゆっくりと地表を暖めていく。雨上がりの大地は黒く染め上げられ、木々はキラキラと光る雫に覆われ、その枝先に付いたいくつものつぼみたちもまた、春の日差しに輝き、暖められ、確実にそのふくらみを大きくしていく。青いキャンバスには、筆先で引っ掻いたような白い雲が吹き飛ばされまいと隅っこに引っかかっていた。緩やかで暖かな春の午後がここにある。
僕は、少し信じられないような気持ちでその景色を眺めていた。夢ではないかと疑いさえした。それでも、頬を撫でる風は春の匂いに満ちていて、世界は疑う余地もなく様々な色彩に彩られていく。
孤独と痛みに満ちた冬は、確かに終わっていた。
春は、そこに在った。
「氷が融けると何になるでしょう?」
そう尋ねたのは彼女だった。
「はっずれー! 氷が融けるとね、春になるんだよ」
そう教えてくれたのも、彼女だった。
川面の薄氷も、バケツに張った厚い氷も、庭の霜柱さえ融けて消えた。霜に覆われた白い屋根も見なくなった。代わりに世界を埋め尽くすのは、生の鼓動と淡い緑。やがては白い花弁が僕の視界を覆うのだろう。
――だけど。
僕は立ち止まって空を見上げた。人々の足音は無機質に通り過ぎるけれど、それでも立ち止まらずにはいられなかった。取り残されているのだ、僕は。前に進むこともできない。戻る道などありはしない。そして、周りの風景だけが前へ前へと進んでいく。時間も、人も、鼓動でさえも。
――だけど、僕の冬は、いつ終わるのだろう。
雪は、ゆっくりと僕を押し潰していく。その重みが、僕の自由を奪っていく。いずれは僕も雪になり、万年雪の底で深い眠りにつくのだろう。
暖かな日差しも、鮮やかな色彩も、浮き足だった人々の楽しげな声さえも、――この場所には、届きはしまい。
僕はそっと目を閉じた。
自分の鼓動と、彼女の想い出だけを胸に抱えて。
◇
「だいぶ暖かくなってきたよな」
そう言いながら、半分ほど窓を開ける。南を向いた窓からは仄かに甘い風が流れてきて、長くなってきた僕の前髪を揺らし、レースの白いカーテンを揺らした。
30分も開けていればエタノールの匂いも和らぐだろう。そうすれば、彼女も良い夢を見られるかもしれない。
「花瓶の水、取り替えてくるよ。新しい花も持ってきたしさ」
彼女に向かって、ここへ来る途中で買ってきた花束を振ってみせる。無意味なことだと分かっていても、そうせずにはいられなかった。ありがとうって、微笑んでくれるのを期待せずにはいられなかった。
でも、期待の裏側には、いつも絶望があって。
廊下に出て後ろ手にドアを閉めると、僕は大きく息をついた。そして、そのままドアに寄りかかる。磨き上げられた床には幾つもの光が反射していて、目を閉じてもその残光はなかなか消えなかった。
いつも期待する。ドアを開けるたび、声をかけるたび、彼女の手を握るたびに。
ドアを開ければ、そこには笑顔の彼女が待っているんじゃないだろうか。声をかければ、そうだねって頷いてくれるんじゃないだろうか。手を握れば、それをきっかけにこの3ヶ月なんていう彼女の長い眠りが覚めてくれるんじゃないだろうか…。そう期待して、期待して、裏切られ続けている。目を開けてくれるのは、いつだって夢の中の彼女だけだ。
◇
その時の風景を、たぶん僕は忘れないだろう。
横断歩道の白と対比されるのは本来アスファルトの黒であるはずなのに、僕の目に飛び込んだのは目の覚めるような鮮やかな赤だった。そして、本来の姿を忘れてしまったかのようにひしゃげた道路標識、斬りつけられたかのようにざっくりと傷口を開けた軽トラック、西の稜線に静かに落ちていく太陽、集まり始めた人々のざわめき、夜を待ち侘びたこうもりの揺らめき、アスファルトに刻まれた長いブレーキの痕、側溝へ向かってゆっくりと流れていく血液と、擦り切れた服に身を包み、赤い池に転がっている彼女の姿。
救いようのない景色とは、こういうものを言うのだろうか。
全ては刻々と死に向かって近づいていく。それを誰も止めることは出来ないが、速めることは可能なのだと、その光景を目の当たりにして初めて思い知らされた。走り去ろうとする彼女を僕は必死で追いかけ、捕まえ、抱きしめた。彼女は、冬空の下で何時間も待っていたみたいに冷たかった。
――たぶん、この時なのだろう。
彼女の頬に、僕の頬に、この街の全ての人々に。どこからか吹き飛ばされてきた白い欠片が舞い落ちた。空には雲なんて見当たらないのに、北風に運ばれた彼らはいくつもいくつも舞い落ちた。
彼女の頬に落ちた雪は融け、ひとつの雫になって頬を流れる。あるいは、それは僕の涙だったかも知れない。
たぶん、この時から、僕の心は凍りついてしまったんだ。
◇
それが1月の出来事だった。寒い寒い冬の日だった。
それからのことはよく憶えていない。毎日彼女の病室を訪れ、一日が終わり、時間だけが過ぎていった。大学の試験もひとつも受けずに終わってしまった。
別に、大学なんてどうでもよかった。留年してしまったとしても、来年また彼女と1年生をやればいい。そう思った。
彼女が目覚めることを信じていた。来る日も来る日も彼女が目覚める時を待ち続けた。
だけど、いつからだろう。
信じるということが、こんなにも苦しくなってしまったのは。
信じてる。彼女が目を覚まし、日々が元通りに回りだすと信じてる。でも、そう信じれば信じるほど、何もかも実現しない不安に押し潰されそうになる。心の何処かが少しずつ脆くなっていって、信じたいと願う心すら崩れ落ちていってしまう。
それまで、僕は知らなかった。信じるということがこんなにも辛いということを知らなかった。
「信じるってすごく良い言葉だけど、私はあまり使いたくないな」
いつか、隣を歩く彼女がそんなことを言っていたのを思い出す。
どうして、と問いかけた僕に、彼女は少し悲しげな微笑みと一緒にその答えを返してくれた。
「だって、誰にも裏切られない世界だったら必要の無い言葉でしょ? 誰かに裏切られるかもしれない、そう思ってるから信じたい人に『信じてる』って言うんでしょ? だったら、私は使いたくないな。信じたい人に『信じてる』なんて言ったら、その人のことを信じてないみたいじゃない?」
その日から、僕は信じるという言葉を使わなくなった。全てを疑うためじゃない。彼女を信じているからこそ、そんな言葉は不要だったんだ。
だけど、それが今、僕を縛り付けている。彼女を信じることに苦しみを感じ始めた今、これ以上僕が押し潰されてしまわないためには、その言葉を口にしてしまうしかないようにさえ思えた。
――信じてる。
目を覚まさない彼女にそう呟くだけで、僕は彼女を信じ続けることが出来るような気がした。
でも、そう言ってしまった時、その安堵はどこからやってくるのだろう。
彼女の束縛から解き放たれるからか、それとも、本当に信じるということから逃げ出せるからだろうか。
そして、僕は、彼女を信じ続けたいが故に、そのひとことを言葉に出来ないでいる。
◇
病院の屋上はひとつの檻だ。
世界との隔絶は銀の編み目によって明確に示され、それが世界と僕との距離が遠くなってしまったことを否が応でも理解させる。遠さは、時に寂しさを感じさせる。僕の立つこの場所と、誰か達が賑わう遠い街。見えるのに届かない。叫んでも届かない。
白いシーツが風に揺れている。この風だけが世界とこの場所とを繋げている。もう、空でさえこの場所とは繋がっていないのだ。見上げた空は青いけれど、銀の編み目からは逃れられない。
閉ざされたもうひとつの部屋が、ここにある。
生命を閉じこめた、隙間だらけの青い部屋。
屋上には僕の他には誰もいなかった。いつもならば何人かの患者が日光浴をしていたりするのだが、今日は暖かい陽気にも関わらず、そんなことをしている患者は1人もいなかった。鉄の扉を閉め、金網に向かって歩き始める。
以前、屋上から飛び降りようと考えたことがあった。どんな建物であっても、おそらく最も死を連想しやすい場所は屋上だろう。近代の建物にはもう首を吊れるような太い梁(はり)を持つ部屋はなく、水洗トイレからは怪談が消えた。屋上からは、今でも人が飛び降りる。学校で、職場で、マンションで。彼らは導かれるように屋上へと足を向け、綺麗に靴をそろえて落下するのだ。
それに倣うように、僕もまた屋上へと来たことがある。あれはもうひと月も前だったか。今日のように彼女の部屋の花瓶を洗うために廊下に出ると、何故だか僕は階段を上り始めていた。足が勝手に動いている、などというワケではなかったが、その方向性を持った運動を止めるだけの意思は僕の中に存在しなかった。むしろ、止まらなければいいとさえ願っていたかもしれない。
しかし、その願いは呆気なく潰えてしまった。たった1枚の金網が、僕の行く手を塞いでしまったから。
病院は死で溢れている。日々刻々と人が死に、細胞が死に、願いや希望が死んでいく。不用意にその死臭を吸い込めば、たちまち死は僕らを内側から縛り上げてしまうだろう。そして、人々から抗う術を奪い取り、屋上へと引きずっていく。一度落ちてしまえば、止めるモノは何もない。
だから、空は絶たれた。
金網にそっと触れる。カシャン、という無機質な音が微かに響くけれど、そんな雑音は風があっという間に運び去ってしまう。ただ、僕だけがどこにも行けなかった。目の前には金網の壁。見上げれば、金網の天井。
生命への強制。生きながらえることの無理強い。
僕は彼女に生かされ続け、彼女はこの場所に生かされ続ける。僕も彼女もこの檻に閉じこめられたまま。たとえ空を絶たれようと、僕らは死ぬことを許されない。義務づけられた生になんの意味も見出せなくても。
あるいは、死の意味すら曖昧としている。
◇
肌寒さを感じて時計を見ると、とっくに30分なんていう時間は過ぎ去ってしまっていた。風向きが北寄りになった所為だろう。太陽はまだだいぶ高いところにあるけれど、気温はさっきより確実に下がっていた。慌てて鉄の扉を開け、階段を駆け下りる。
入院病棟の廊下は閑散としていた。遠くに看護婦の後ろ姿が見えるだけで、あとは窓からの光だけがリノリウムの床を暖めていた。細かな塵が光の柱を作り、その柱を薙ぎ倒すように彼女の部屋へと歩みを進める。靴が高らかに鳴り、足音が薙ぎ倒したはずの柱を作り直した。陽が沈むまで終わらないインフィニティ。
彼女の病室までもう2部屋というところで、僕が開けるべき扉が唐突に開かれた。一瞬の期待。しかし、慣れきってしまった僕の心がその期待を否定し、案の定、現実が後押しするように期待を絶望へと塗り替える。その横顔には見覚えがあった。いや、ない方がおかしいだろう。彼女はその人によく似ている。
「あ、今日も来てくれてたんだ」
足音に気付いたのだろう。緩慢な動作でこちらを振り返ると、その人はやわらかく微笑んだ。僕は軽く会釈をして足早にその人に歩み寄る。彼女と同じ香りがした。
「お久しぶり、ですね」
「そうね。もう3週間ぶりだから。……駄目な姉だわ」
そう言って苦笑する。その終わり際、口元に引っかかる自嘲の欠片。僕はそれを見なかったフリをして笑みを作った。この3ヶ月で身につけたことのうち、最も胸が痛む方法。
「ねぇ、コーヒーでも飲まない?」
唐突に、その人はそんなことを言い出した。
「え、でも」
「心配しなくても、窓は閉めてきたから大丈夫よ」
言い篭もる僕の理由を見透かされたよう。
「ですけど、お見舞いに来たんじゃないんですか?」
「コーヒー飲んでからでも遅くないわよ。それとも、あの子の着替え見てから行く?」
「いえっ、そっ、そんなつもりは…」
「あははっ! じゃあ決まり。いつもお花買ってきてくれるから、今日は私がおごるね」
僕の答えを聞く前に、その人は颯爽と歩き出した。僕は慌ててその背中を追いかける。踏み出すたびに小さな背中の上を長い髪が揺れ、光の柱はされるがままに梳ったかのようなその長い髪を受け止めていた。
――デジャ・ヴ。
いや、重ね合わせているのは自分だ。受け止められずにいる弱い僕だ。
遠ざかる背中を、僕は追いかけずにいられない。その先にあるものが過去ではないことを知りながら、僕は歩みを止められない。彼女は僕の背中をどう見ているのだろう。淋しい気持ちで見送っているのだろうか。
可笑しいね。言葉にしないだけで、こんなにも伝わらない。
心配しなくても、僕は君から離れられない。
◇
待合室で缶コーヒー。そんな僕の予想を裏切って、彼女は当然のように病院を出た。駐車場の入り口を抜けて緩やかな坂道を下る。街路樹はハナミズキで、いくつかのつぼみが新緑の間に見え隠れしていた。もう少しすれば白い花弁をつけた花が咲くのだろう。桜のように絢爛ではなく、銀杏のように煌びやかではないけれど、坂道はひっそりと淡い花弁に彩られる。
喫茶店は坂道の中腹にあった。入り口から病院を振り返っても彼女の部屋は見えなかったけれど、この建物は確かに見覚えがあった。カーテンを開けば、あの部屋からはよく見える。チョコレート色の屋根は鮮やかな緑の中でひどく目立った。
カウベルと、蝶番の軋み。煙草とコーヒーの匂い。足音に混じるシューベルト。
僕らは陽当たりの良い窓際の席に座り、僕はブレンドを、彼女はミルクティーを注文した。
「コーヒー飲むんじゃなかったんですか?」
「気が変わったの」
彼女はそう言って煙草に火を点けた。セーラムピアニッシモ。白い煙にメンソールが微かに香る。
「君は吸わないの?」
「やめたんです。正確には、やめさせられたんですけど」
「あははっ、あの子、煙草嫌いだもんね」
紫煙は春の日差しに渦巻き、光を捻り切るように消えていった。けれど、光が切り取られることはない。包むものの大きさに、彼らは耐えることができない。
「私、本当に駄目な姉だわ」
熱の塊は己を焼き、静かに全てを灰に変える。
「お見舞いには来ない。煙草はやめない。挙げ句の果てに、あの子の彼氏と喫茶店」
それでも、胸の痛みまでは焼き切ることは出来ないから。
「どうしてかな。あの子の嫌いなことしかできないのよ。昔からね」
何か言いたくて、だけど、何も言えないまま。無言のまま時は過ぎて、気付けば目の前にコーヒーが置かれていた。彼女の前にもミルクティーが置かれていたけれど、彼女は煙草を手にしたまま窓の外をぼんやりと眺めていた。もう、随分と灰が長くなっている。
この3ヶ月で色々なことに慣れてしまった。病院へと通う道。街で人と目を合わせないこと。独りの時間の過ごし方。何も考えずに眠る方法。慣れることは酷く簡単だった。ただ、全てから焦点を少しだけずらしてやればいいだけなのだ。どんな刺激も拡散し、あるいは届くこともなく、あるものは心地よくすら感じられる。
でも、胸の痛みが全て消えるわけではなかった。あるものは確実に僕の胸に焦点を置き、集約された因子は研ぎ澄まされた針となって僕の胸を貫いた。僕はそれを隠すために笑みを作るけれど、それが余計に針を胸の奥へとねじ込んでいく。
それだけが痛みだった。
それだけが痛みだった。
無力感が彼らを笑わせる。何もできないという現実と、何もできなかったという確かな過去。それらは補色となって笑顔に混じり、彼らの笑みを灰色へと塗り替えた。彩りを失い、純白さを見失い、攪拌された感情はどす黒く濁っていく。そして、濁ってしまった感情は、総じて彼ら自身を汚す結果となった。
――自虐。
己の不甲斐なさを嘲り、痛む心に彩りを探している。痛みはまだ濁らないから、それだけをただ求め続けて。彼らは、その色が彼らの感情を黒く染め上げることに気付かない。気付かないまま、必死に自分の心に鮮やかさを加えていく。
そして、その攪拌物が、濁った微笑みが、僕の胸に突き刺さる。
「やめましょうよ、自分を責めるのなんて」
「あ、ごめんね、私ったら変な話しちゃって。……でも、本当のことだから」
暖かいカップに唇を当て、いつもの微笑み。
それがどんなに痛いものか、彼女は知らないから。
「……くだ、さいよ…」
「え?」
「やめてくださいよッ!」
拳がテーブルを叩いていた。言葉は叫びに変わっていた。のどが渇いている。軽い目眩がする。うまく呼吸をすることが出来ない。
無力なのは僕だ。何も出来なかったのは僕だ。責められるべきは僕のハズだ!
どうして要らない痛みを背負おうとする!? 僕を責めれば全て済むはずなのに! あの日、あの場所で、何も出来なかったのはあなた達じゃない! 僕だ!
「…………」
そう言葉にしたくて、してしまいたくて、なのに、――僕は何も言えなかった。
僕は臆病だ。言ってしまえば君を失うかもしれない、そんな考えが僕の口を塞いでしまった。僕のこの生活から君すらが消されてしまう、そんな現実がたまらなく恐ろしかった。もしかしたら、目の前の彼女なら分かってくれたかもしれない。それでも、僕には何も言えなかった。
ただ、落ちる灰だけが時の経過を教えている。
◇
「どんなことがあってもね、あの子は私が守るんだって。そう思ってた」
◇
柔らかな日差しの中に、いつの間にかざわめきが戻っていた。先ほどまでの奇異の視線もなく、耳をそばだてる者もいない。シューベルトはチャイコフスキーに変わっていた。交響曲第6番、悲愴。灰皿の中には吸い殻がひとつ。
彼女は2本目の煙草に火を付け、黙り込んでしまった僕に1本勧めた。僕はそれを受け取り、久しぶりに胸いっぱいに煙草の煙を吸い込んだ。メンソールの香りは心地よく肺を満たし、僕の困惑と混乱を少しずつほぐしていく。三分の一ほどが灰に変わった頃、彼女はぽつぽつと言葉を紡ぎだした。
「小さい頃の話よ。あの子が産まれたとき、私もまだ幼稚園に入ったばっかりで。でもね、子供ながらに思ったのよ。この先どんなことが起こったって、私はこの子のことをずっと守るんだって。私にしか守れないんだって。それがお姉さんになった私の役目だと信じてたの。疑いさえしなかったわ」
可愛いものよね、と彼女は微笑んだ。それこそ、子供のような無邪気さで。
「そのうちあの子が言葉を覚え始めて、ママ、とか、パパ、とか言えるようになって。でも、おねえちゃん、って、ママとかパパとか言うよりずっと難しいじゃない? なかなか呼んでもらえなくて拗ねちゃったこともあったわ。だけど、初めておねえちゃんって呼ばれたときは本当に嬉しかった。誕生日とクリスマスがいっぺんに来ちゃったくらい嬉しかったの。嬉しくて嬉しくて、お母さんが呆れるくらい何度も何度もお姉ちゃんって呼ばせたのを憶えてる。それからかな。私の想いが決意に変わったのは」
「決意、ですか」
「そ。たぶんあれは決意って言えるんじゃないかな」
2人分の灰が灰皿に落ちる。
「重すぎるわよね、決意だなんて。決まった時間にお昼寝をするような幼稚園児がよ? で、やっぱり重すぎたの。当たり前よね。私はいつもあの子と一緒に遊んでたわ。もちろん一緒に遊びたかったからだけど、それでも心の何処かであの子を守ることを考えてた。危ない遊びはできるだけさせなかったし、男の子とは絶対に一緒に遊ばなかった。でもね、やっぱりそれはやりすぎだったの。あの子には私が窮屈で仕方なかったんだと思う。ブランコの立ち漕ぎはダメ、木登りはダメ、ジャングルジムで鬼ごっこなんてもってのほか。それじゃあ私が重荷になってもしょうがないわよ」
「確かに」
僕は思わず笑いを噛み殺した。それを彼女は見逃さない。
「あ、ひどいなー。笑わなくたっていいじゃない」
「笑ってませんよ」
「ほら、笑ってるじゃない」
「違いますって。気にしないで続けてください」
彼女は納得していなかったようだけど、まあいいわ、と話を再開した。
「それでね、あの子が小学校に上がってすぐ大喧嘩したの。私に構わないで、ってあの子に言われて。よせばいいのに私もカッとなっちゃってさ、本気で叩いて大泣きさせた。それから2週間くらいはお互いに徹底無視。同じ部屋だったのに一言も喋らないし、目が合うと先を争うように顔を背けあうの。なかなか凄いでしょ?」
「ですね。僕もそんな喧嘩はしたことない」
「えへへ、ちょっとした自慢なの。自慢にならないけどね」
彼女は照れたように笑う。
「結局、どっちから謝ったんですか?」
尋ねると、彼女は少し困ったように眉をひそめた。
「んー、それが憶えてないのよね。いつの間にか仲直りしてたみたいなの。まぁ、姉妹喧嘩なんてそんなものだとは思うけど。ただね、その喧嘩の最中のことはよく憶えてるの。徹底無視してた割には、やっぱりその決意ってのが影響してたのかな。学校でも家でもずっとあの子のこと気にしてたみたい」
そこで一度、彼女は言葉を切った。煙を吸い込み、そのまま煙草を灰皿に押し付ける。気づけば僕の煙草もずいぶん短くなっていて、彼女に倣って僕も煙草の火を消した。久しぶりで、なかなか火が消えなかった。
「いま思うとね、そのとき徹底無視できればどんなに良かったかなぁって思う」
吸殻がようやく煙を上げなくなったとき、彼女は独り言のように呟いた。
僕は黙って彼女を見上げる。
「守るってことは、あの子をいじめる何かがある、ってことでしょ? 敵がいなくちゃ護衛なんて必要ないものね。でも、その2週間一生懸命あの子を観察したけど、あの子には敵なんていなかった。あの子をいじめる男の子も、あの子にだけ辛く当たる教師も、あの子を仲間はずれにする女の子もいなかったの。自分のクラスの窓から下校するあの子を見つけても、あの子の周りにはいつも友達がいるのよ。その友達の中であの子は楽しそうに笑ってるのよ。それが凄く悔しかった。あの子に、叩いてごめんなさいって謝ることなんかよりずっと悔しかった。泣きたくなるくらい悔しかったの」
言葉とは裏腹に、彼女の口元には微笑が浮かんでいた。
自嘲ではない、本物の微笑み。
「それで、どうしたんですか?」
「どうもしないわ。ただ、あの子を毎日教室まで迎えに行くのをやめただけ。完璧な姉になろうとするのをやめただけ。それで、わざと欠陥のある姉を演じるように切り替えただけのことよ。中学生になっても子供料金で電車に乗ったり、高校生で煙草を覚えたりね」
「なんでまたそんなことを…」
「あれ? つながらない?」
「つながらないですよ。守ってあげたかったのなら、どうして…」
どうして、欠陥のある姉なんか演じなきゃならなかったんだろう。そんなことをしたら頼られることもなくなってしまうのに。
あからさまに腑に落ちないという顔をしていたのだろう。そんな僕に彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「目的がひとつだったらね、方法はいくつもあるものなのよ。どんなに遠回りに見えてもね」
そして、彼女は3本目の煙草に火をつけた。
「昔の人も言ってたじゃない? 風が吹けば桶屋が儲かる、って」
◇
夜の街を歩きまわって、歩道橋の上でようやく足を止めた。
見上げた空には満天の星なんていうロマンチックな舞台は用意されておらず、春特有の薄い雲がビルの隙間を埋め尽くしていた。もちろん、雲なんかなくたって星を散りばめたこの街に星空は与えられない。明るすぎる月だけが雲の向こうからその存在を主張していた。雲を形作る水の粒子は光を貪欲に吸収し、拡散させ、雲の存在を際立たせる。
ここに闇はなかった。赤いテールランプが忙しなく足の下を通り過ぎていく。
◇
「それ、使い方間違ってませんか?」
「うーん、間違ってるかも」
指摘すると、彼女は気にする風もなく可笑しそうに笑った。僕は深いため息をつく。
「結局、教えてくれないんですね」
「あら、そんなことはないわよ」
「じゃあ教えてくださいよ」
「今ね、必死で故事成語を思い出してる」
「そのままを言ってくれれば良いじゃないですか!」
必死の僕の訴えに、彼女はさらに可笑しそうに笑った。
「君、なかなか面白いね。いっつも暗い顔してるからつまらない人だと思ってた。あの子が選ぶだけあるわ」
「えっ、なっ」
突然の言葉に狼狽してしまう。たぶんご丁寧に顔も赤くなっているだろう。それが余計に彼女を笑わせる。
「だからよ。だからなのよ。君みたいな人しかあの子の周りにいないから、だから駄目な姉になったの」
彼女は涙を指で拭いながらそう言った。
「正義の味方っていうのは必要なときに変身できればいいの。あの子の周りには悪役なんていないから、いつもは私が悪役でいいのよ。仲間と力をあわせてもどうにもならないときだけ呼んでくれれば十分なの。あの時、私はそう思ったのよ」
いつの間にか、彼女は笑うのをやめていた。
「でも、呼んでもらえないと変身できないとは気づかなかったな。ほんと、笑い話にもならないわ」
◇
テールランプが描く赤い軌跡を目で追っていた。シャッター開けたまま放っておかれたフィルムのように真紅のラインがひとつずつ描かれ、やがてはそれが束になり、確かな奔流として僕の網膜に焼きついた。光の濁流に架けられた橋の上。濁った空が降らす赤い雨。
◇
「じゃあね。君と話せてよかった」
別れ際、彼女は振り返らないままそう言った。赤い光の中で彼女の長い髪が風に揺られていた。坂道を下る彼女の背中が遠くなる。太陽はもう半分沈んでいた。
「あのっ!」
その背中を呼び止めないなんて、僕にはできなかった。彼女が彼女でないことなど分かっていたのに、僕には2人を重ねずにいられなかった。遠ざかる背中を見過ごすことなんてできるはずがなかった。
彼女が振り返る。シルエットは間違いなく彼女であり、僕が求めるべき彼女でもある。長く伸びた影に2人の境は見えなかった。
「またっ、またコーヒー飲みましょう!」
もっと気の利いた台詞を言いたかったけれど、出てきたのはそんな言葉だけだった。まぶしい逆行の中で彼女が手を振る。微笑んでいるように見えたのは僕の気のせいかもしれない。
ただ確かだったことは、彼女の背中が遠くなっていくことと、病室で眠る彼女に無性に会いたくなったこと。それだけだった。
彼女の背中が見えなくなると、僕は坂道を駆け上った。僕の気持ちを表すように、長く伸びた影が僕より先を走り抜ける。
「こうしてると、影と追いかけっこしてるみたいだね。追いつけない追いかけっこだけど」
ずっと昔の君の言葉。
でも、今なら追いつける気がするよ。きっと夜が来る前に追い抜けるさ。
◇
光の川と、星を撒いた土くれの街。高みを目指した鉄塔の群れ。
無機質に覆われて、それでも人はどこかで感情を持ち、確かな有機体として動き回っている。
炭素を体内に含んでいるというだけで、どうして人は心なんていう曖昧なものを持てたんだろう。どんなに金属を混ぜ合わせたってそこに生命は宿らず、動き出すことも思考することもない。ただ在るだけだ。アメーバですら持つ自由意志を彼らは未だ手に入れられずにいる。
生命の金字塔。その頂点に人間は立っているという。弱肉強食を制し、自然を意のままに御し、感情や倫理を携えた進化の極み。その存在であることを煩わしく思ってしまうことは、人間的に言ってしまえば罪というものなのだろうか。思考という進化の集大成を捨ててしまいたくなるのは許されざることなのだろうか。
許される?
一体、誰に?
それは同類によってか、あるいは薄っぺらな想像の上に立つ神とやらによってか。数の暴力が僕を裁き、天罰が僕を裁くというのならば、やはり僕はこの存在であることを煩わしく思ってしまうだろう。生命の意味など忘れてしまったほうが幸せになれる気がする。
でも、君が許さないとしたら、僕はこの存在でい続けたいと思う。
そのための生命なら、僕は受け入れることができる気がするんだ。
「夜が降ってくるよ」
紫色に染まっていく空を見ながら、眠る彼女に声をかけた。声は返ってこないと分かっていたけれど、今はそれでも構わなかった。期待を捨てたわけじゃない。ただ、今を受け止めた結果だった。
「君のお姉さんに会ったんだ。一緒にコーヒーを飲んで、君の話をいろいろ聞いたよ。僕の知らないことばっかりだったけど、それでも話の中の君は僕の知っている君だった。それがなんだか嬉しくってさ」
くすり、と笑みを零す。
「いつも同じ夢を見るよ。君の夢。どの夢も内容は違うけれど、どの夢も過去の話なんだ。君と過ごしたいつかの夢だよ。懐かしくて懐かしくて泣きたくなる。切なくなって目が覚める。だけど、今日からは少し違う夢が見られるかもしれない。少し楽しみなんだ、夜が来るのが」
シーツの中に手を入れ、彼女の手を探し当てる。握り返してくれないけれど、だからこそ僕が強く握った。小さな手のひら。柔らかな温もり。
夢なら覚めてほしいと願ったことがある。いや、ずっと願っていたかもしれない。彼女が眠りについてしまってから、目覚めないままでいる今の今まで。でも、今は夢から覚めてしまうのが怖かった。怖くて怖くて、また少し強く彼女の手を握った。君は目覚めない。夜は降り始めた。今日という日が刻々と削り取られ、明日という日に侵され始めている。君が目覚めないことが過去という日々を無意味なものに変えていく。消灯時間という薄っぺらな絶対が、君とのこの時間を確実に奪っていく。
それでも、今という夢が覚めることを恐れた。それほどに今が幸せだった。
「君が楽しい夢を見ていると良いな」
歩道橋から見える世界はずいぶんと濁っているから。
だから、君の見る夢が、この世界を映すものでないことを祈ってる。
◇
冷たい雨が降る夜に、彼女は完全な眠りについた。
花開こうとするつぼみを雨粒が容赦なく打ちつけ、ガラス窓を軽やかに叩く。僕は自分の部屋から雨を眺めながら彼女のことを考えていた。電話が鳴ったのはそれから大分過ぎてからだった。
「どう、しよう。私、お姉さんじゃなくなっ、ちゃった……ッ!」
電話口で、彼女は嗚咽を押し殺してそう言った。僕は雨の中を走り、坂道を駆け上った。
雨は止むことを知らなかった。
『氷が融けると何になるでしょう?』
『そんなの水に決まってるだろ』
そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
『はっずれー! 氷が融けるとね、春になるんだよ』
『ハル?』
『そう、春!』
『あー、なるほどねー』
『む、なんでそういう言い方するかなぁ』
そう言って口を尖らせる。
『せっかく春になる合図を教えてあげたのに』
『合図…って。冬だって昼になれば氷は融けるだろ』
『違うよぉ。融けるっていうのは、降ってくる氷の話!』
『降ってくる氷?』
『そう。雪や霙が降ってるうちは冬なの。でもね、雨が降ってきたら、それは春になる合図なんだよ』
だったら、なんで今夜は雨なんだろう。
春は確かにやってきたのに、どうしてこんなにも冷たい雨が降っているんだろう!
濡れた靴がリノリウムの床に音を立てる。その音に彼女が顔を上げ、次の瞬間には彼女は胸の中にいた。
死の香りに満ちた廊下。嗚咽を包む白い壁。冷たく濡れた僕の服に、彼女の温かな涙が混じる。
だけど、その温かささえ僕の氷を融かすことはできなかった。
濡れきった僕の体でさえ、眠る彼女の手は冷たく感じられた。
◇
3月の最後の日、雨の降る中で彼女の通夜は行われた。
◇
排気ガスの臭いが立ち込める空を、注意しなければわからないほどゆっくりと雲が泳いでゆく。その景色は濁った水の中で溺死した魚を思い出させた。生きるべき場所ですら呼吸の術を奪われ、酸素を求めて終わらない濁流を泳ぎ、辿り着く場所もわからないまま果てを迎えたソレ。彼らはさらなる腐臭と濁りを撒き散らし、朽ち果てるまでその場所を漂い続ける。終わりはない。
彼らの遥か高みで、空を穿ち続ける月光。
ならば、濁った水の中にいる僕らはなぜ生き続けられるのだろう。水面はあんなにも高く、その表面には死骸しか存在しないというのに、どうして僕らは呼吸し、鼓動し、思考し続けられる?
答えはあまりに簡単だ。
僕らは、全てに慣れ過ぎた。
穢れ、痛み、悲哀、歓喜、緊張、誕生、死滅、殺戮。それが行為であれ思考であれ、内面的なものであれ外的要因であれ、僕らは順応という最低最悪な進化を遂げた。自身を押し上げるための進化ではなく、堕ちる為だけに発達した能力だ。
どんなに清楚なものを手に入れようと、あるいは幸福という曖昧さを手にすることができようと、僕らは慣れることで彼らに飽き、更なる高みを略奪する。期待、希望、そんなものは讃えるべき感情ではない。
そして、絶望すべきことは、どんなに繰り返そうと人は絶望に慣れるとができないということだ。
「また、雨だね」
いつの間にか、隣に彼女が立っていた。僕と同じように空を見つめ、深い雨の森の向こうを見つめている。あるいは、そこに彼女を見ているのかもしれない。
無言のまま雨を眺めていた。漆黒に身を包み、暗闇の向こうを見つめていた。
「もう、春なのにね」
彼女が呟いた。
「雨だから、ですか?」
「そう、あの子がよく言ってたの。雨が降ると春がくるんだって」
遠い想い出。
繰り返される夢の世界。
ただの日常が美しいものになってしまったのはいつだっただろう。退屈で窮屈だった世界が色を帯びてしまったのはいつのことだっただろうか。
現実が早足で明日へと進み、過去が同じ速度で彩られ、今という時間が灰色のまま通り過ぎていく。彼女が現実でなくなり、確かさを失い、曖昧な輪郭のまま少しずつ滲んでいく。記憶という危うい存在へと生まれ変わる。
それを誰が望むだろう。
僕も、彼女も、きっと君だって望んでいないはずだ。
だから僕は受け止められない。結末を見届けたって、僕はソレを受け止めることができない。
「君は強いね」
「そんなことないですよ。分からないだけです」
「分からない?」
そう、分からない。結末を受け止められない僕には、この現実が分からない。
「まだ夢を見るんです。彼女が眠りについてから、ずっと見続けてる夢を」
彼女がこちらを向いたのが分かった。
「出会ったときのこと。一緒に雪を見た日。彼女の誕生日に出かけた街。夕日の中を歩いた坂道。いろいろな場所で彼女は笑ってるんです。これが夢だって気づかないくらい自然に彼女は笑ってるんです。可笑しいですよね? 目が覚めると、どっちが夢なのかも分からなくなるんですよ。目を閉じればそこに現実があるような気がするんです」
「だから、泣けない?」
「少なくとも、彼女は笑ってるから」
胸ポケットから煙草を出し、火をつけた。久しぶりに吸うラークに軽い眩暈がする。
「また吸い始めたんだ」
「ええ」
「あの子に怒ってもらえそうだから?」
その言葉に少し驚いたけれど、結局それに笑いながら頷いた。なんとなく買ってしまった煙草だけれど、もしかしたら僕もそう思っていたのかもしれない。彼女も自分の煙草に火をつけた。2人分の煙が雨の中に淡く溶けていく。
「ここまでどうやって来たの?」
「電車です。ちょっと遠かったですけど」
「終電は大丈夫?」
「さっき行っちゃいました。タクシーで帰りますよ」
雨粒がアスファルトを叩く。
不規則なソレと、どこまでも規則的な鼓動。
けれど、その不完全さが互いを混ぜ合わせ、融け合わせ、その境界はいつの間にか奪われていた。もう、どちらがどちらなのかなど意味のないものだった。
確かに雨は降り、心臓は血液を吐き出していた。
空は濁り、僕は生きていた。
「……良かったら、うちに来ない?」
小さな彼女の手が、冷たくなった僕の手を包んだ。
◇
そうすることが正しかったかどうかは分からない。
だけど、僕はあの場所じゃなかったら、彼女の前じゃなかったら、きっと泣くことなんてできなかった。
だから今は、あれで良かったんだって、そう思ってる。
◇
件名:HAPPY BIRTHDAY♪
誕生日おめでとうっ!…って、すごいありきたりな出だしだけど許してね。私、ボキャブラリーないからさ(知ってるとか言うなー!)
今日だったよね、誕生日。4月1日。不思議だね、あと1日遅れてたら同じクラスどころか同じ学年ですらなかったんだから。そしたら知り合うこともなかったかもね。2度目だけどおめでとう。それと、今日という日に生まれてくれてありがとう。
ちなみに、今日じゃないなんて言わせませんよ? だって、さっき君が言ったばっかりなんだから。あ、これグリーティングなのね。指定日に自動送信してくれるアレです。私って忘れっぽいからこれで確実に届けます(笑)というわけで、今日はクリスマスだけど独断先行で誕生日メール! 君、いま隣にいるけどね。
あーー、しまった! ってことは、受信したときも私が隣にいるかもしれないってことじゃん! やだなぁ、送るの止めようかなぁ。だって絶対照れるし(笑)んー、でもやっぱり送ります。メールが届いたとき、君の隣にいたいから。
でも、もし私たちが別れてたら隣にいるどころじゃないね。3ヵ月後、そうなってないことを祈ってます。君と君の誕生日を祝えることを祈ってます。
なんだか顔が熱くなってきちゃったからここでおしまい! じゃあね。これから君と豪華なディナーなのだ!
◇
ドアが閉まる音が合図だった。僕らはどちらともなく互いを求め、触れ合った。
いや、触れ合うなんていう生易しいものではなかったかもしれない。悲しみを反動にして、僕らはどこまでも暴力的に目の前の誰かを求め続けた。愛し合っているというよりは、憎しみ合っていると言ったほうがずっと正しいようにすら感じられた。唇を噛み、背中に強く爪を立て、軋む音が聞こえてきそうなほどに強く強く抱きしめあう。しっとりとした雨の匂いと振り払っても消えることのない線香の香りが、僕らの理性を呆気なく抉り倒した。止めるものは何もなかった。
服を脱ぎ、あるいは脱がせながら部屋の奥へと向かっていく。下着姿同然で2人、狭いベッドに倒れこむ。
僕の上に乗って唇を押し付ける彼女は、あの病院の廊下と同じ涙を流していた。唾液と涙は混じりあい、その境界は既にない。そしてその混合物は僕の体液と絡み合い、互いの存在を奪い合い、僕らから境界線を奪っていった。名もつけられぬ体液の混合物を媒介にして、僕らはひとつの境界に組み込まれた単体へと成り下がる。それはとても原始的で無意味な行為だった。
そう、無意味だ。
どこまで行っても出口のない袋小路。
僕らは灯りを失ってしまったから、この道の先に何があるのかなんて分からなかった。灯りを持っていたときは確かに知っていたのだ――この先にあるのは、高く厚い無機質な壁だけだということを。
けれど、僕らは望んでその道へと足を踏み入れた。闇に閉ざされた僕らにとって、目を閉じていても進める道はこれしかなかった。そして、知っていたからこそ踏み入れてから全てに気づく。だけど、今となっては後悔することすらが意味を持ち得なかった。
「どう、してかなぁ!」
呼吸の合間、彼女が無理矢理に言葉を捻じ込む。
「どうして、こんなことして、るんだろう! 私ッ、どうしてこんなことしか、できないんだろう! あの子が嫌うことしかッ……!」
彼女の唇を強引に塞ぐ。声を出そうと暴れる彼女に、自分の唇を押し当てる。
そんな解りきった質問は不要だった。あの日、一緒にあの喫茶店へ行った時から全て解っていた。きっと彼女も解ってる。解っていても尋ねずにはいられないだけだ。受け止めることができないだけだ。
答えは簡単だ。僕らは所詮、規格外の人間だったということだ。この世界で真っ当に生きるには、僕らには足りないものが多すぎる。僕らはあまりに弱すぎる。
つまるところはそういうことだ。煙で光を捻じ切ることなどできはしない。その存在の大きさと不確かさ、圧倒的な強さというものに煙は己を維持することすら叶わない。
だから同類を求め、補おうとする。次から次から崩れ落ちてしまう自身を必死になって保とうとする。平たく言ってしまえば、傷の舐め合いというものかもしれない。けれど、弱い僕らの傷は癒えず、僕らはその痛みに慣れることができない。順応という原始的で重大な必要悪が、僕らには圧倒的に足りなのだ。
僕は彼女を信じ続け、それゆえに僕は終わりを知らない。
彼女は彼女の為に決意をし、果たされぬまま終わりを迎えた。
僕らは最初から溺れていたんだ。濁った水に僕らは生きる術を持たず、ただただ酸素を求めて泳ぎ続けた。そして、果ては残酷にも訪れる。撒き散らされた雨に誘われるように、僕らもまた漂うことしかできなくなった。
僕らを穿ち続ける月光に、一体何を見るだろう。慈悲か、あるいは冷徹さか。
どちらであれ、欠落した僕に、流すべき涙などない。
彼女は眠り続け、終わらない夢の果てに眠りについた。
「まだ、憶えてる?」
僕は目を閉じる。
「まだ、聞こえてる?」
そこには現実の彼女がいて。
「あの子の声、まだ聞こえてる?」
その彼女が、無邪気に微笑んだ。
遠い街。イルミネーションはどこまでも明るく。
夢と現の狭間。曖昧な世界の中で、確かな輪郭を持った彼女が、僕の頬に手を添えて、笑う。
電気のつかない暗い部屋。
ベッドの軋む音と、2人分の息遣いしか聞こえない部屋。
秒針はついに明日へと辿り着き、
彼女の声が、部屋に響いた。
◇
「ああ、あああああ、ああああ!」
言葉になんてならなかった。
僕の声はだらしなく漏れ、やがてそれは叫びになった。
それでも、彼女の声は掻き消されない。もう、聞こえないはずの彼女の声。
「あああああ、あああああああああッ!!」
僕は両手で顔を覆って目を閉じた。そこにはもう彼女の姿はなかった。
夢の終わりを告げていた。彼女の声が、瞼の裏の暗闇が、どうしようもなく確かな現実というものを突きつけていた。
僕はたどたどしく歩き始める。転びそうになりながら、それでも僕は歩いていく。呼吸の術は知らない。吸うことも吐くことも何も知らない。時折吐き出される僕の息は、ただの雑音になって撒き散らされる。
「あああ、ああ」
ネクタイと、シャツと、彼女のバックと、その向こう。
果たして、そこに彼女はいた。僕のことを呼び続けていた。イルミネーションは7色に光り、その存在を僕に教え続ける。
震えを抑えることができなかった。膝さえもがガクガクと震え、屈むことすらままならない。それでも、必死に手を伸ばす。彼女の元へと手を伸ばす。
拾い上げると同時に、彼女の声は止んだ。
「あああああああああッッッ!!」
どうして、どうして忘れていたんだろう。忘れることのできなかった、君の、君だけのその声を。
震える指で、折りたたみ式のソレを開ける。
爪がカタカタと音を立てる。
君からのメールでだけ鳴る着信音。
その声を待ち続けた夜を、どうして忘れていたんだろう!
『件名:HAPPY BIRTHDAY♪』
ここに彼女がいた。
ここに彼女がいた。
そして、その最後の言葉が、彼女がもういなくなったことを教えていた。
君と僕とは金網によって隔たれ、いま僕の隣に君はいない。
どうしようもないくらい、君はここにいない!
「うぅ、ぁぁああ、ああああああ………ッ!!」
泣いた。
泣きたくないのに、いつまでも泣いた。
涙は次々と溢れ、頬を伝い、雫となって画面に滴る。歪められた文字はそれでも彼女の言葉だった。暖かい、暖かい、彼女の言葉だった。
隣にいる彼女が、そっと僕の肩を抱いてくれる。
それでも僕の涙は止まず、頬と携帯を濡らし続けた。嗚咽を垂れ流して、それでも泣き続けた。
ずっと夢を見続けられたら、どんなに良かっただろう。
ずっと氷の世界で君の夢を見続けていられたら、どんなにか良かっただろう。
君が笑ってくれた冬の日。
君が眠りについた冬の日。
楽しかったことも悲しかったことも全部抱きしめてあの場所にいられたら、それはどんなに素晴らしかっただろうか。
でも、君は僕を融かした。
雪は融け、霜柱は庭から消え、家々の屋根に霜は降りない。
「氷が融けると何になるでしょう?」
冬が終わる合図。
夢の世界が終わる歌。
僕は子供のように泣き続ける。
受け止めてしまったこと。受け止めることができてしまったこと。
彼女の存在が、あんなにも大きかった彼女の存在が、こうして僕の両手に収まってしまったということ。
悲しくて悲しくて、涙は流れ続けた。
降り出した雨は、止むことを知らなかった。
◇
昨夜の雨が嘘だったとでも言うように、朝日は青く澄んだ空を照らし出した。
洗い上げられたアスファルトは太陽の下で眩しく光り、木々はその恩恵を一身に受けて生命の輝きを放っている。雨の匂いに混じる、仄かに甘い香り。南から吹く穏やかな風。
僕は少し信じられない気持ちでその景色を眺めていた。
その、疑いようもない春の景色を。
誰もいない住宅街は、まだ朝の到来も知らないまま眠り続けているように見えた。まるで、温かな日差しの中で終わらない夢を見続けているかのようだ。
それでも、僕に見えないどこかで人々は息づき、どこかで死に絶えている。あるいは誕生し、あるいは終焉を迎えている。
日常は、そうやってゆっくりと回っている。
「春が来たよ」
僕は言った。
布団の中で眠りこけている誰かのために、そして、ほかでもない彼女のために。
信号のある角を曲がると、緩やかな坂道が見えてくる。両脇には街路樹のハナミズキ。萌え出でたばかりの幼い葉の影に、ちらほらと淡く白い花弁が覗いている。2年ぶりのこの道は何も変わっていない。
僕はゆっくりと坂道を登り始めた。
駆け上るわけでもなく、できる限りゆっくりと。
坂の中腹、チョコレート色の屋根の前で立ち止まる。扉には準備中の札がかかっていたけれど、それでも微かにコーヒーの香りが漂っていた。僕はまたゆっくりと歩き出す。
「君は知っていたか?」
この街が、ずいぶんと濁っていたこと。
それでも、こうして澄んだ朝がやってくること。
「僕は、うん、やっぱり知りたくなかったよ」
そうして、白い建物は、朝日に照らされたまま眩しく僕を迎えてくれた。
春の足音だけが、僕の背中を追い越していった。
>>了。
◆あとがき◆
書き終えたのはもう1年も前のことなんですよね。
何気にお気に入りだったりします。故に復刻。
悲恋ものは書いていて飽きない。
でも、書いていると精神的には落ち込んでいく。
落ち込むと余計に悲恋レベルが上がる。
さらに精神的に落ち込む。
という悲恋スパイラルにはまるのも好きです。これはもろに嵌った作品ですね。
こーいうのをいっぱい書きたいなぁ、とか。
幸せいっぱいなやつも好きなんですが、どうもね。なんとなくね。