左手は何のためにある?

 問いかけたところで、既に左手はその使命を全うしようと躍起になって踊ってやがる。
 ネックを滑り、鋼の糸を押さえつけ、てんでバラバラに軽快なステップを刻みやがる。
 ダンス・ダンス・ダンス。
 俺の左手が踊りだせば誰もが右手を突き上げる。
 怒声は誰のものでもなく、全ては部屋を埋め尽くす煙草臭い空気のために。

 右手は何のためにある?

 問いかけたところで、既に右手は手にした刃を振り回してやがる。
 刃こぼれしようと擦り切れようと、一体誰が気にしよう。
 6人の屈強なマゾヒスト共が、斬られるたびに快楽の声を挙げるのだ。
 やめられるものか。
 斬りつけ、ぶっ叩き、弾き飛ばす。
 その度に何処かで怒声が挙がる。
 俺の気が済んだその時には、刃はそいつらにプレゼントだ。

 両手は何のためにある?

 左手は右手の為に。右手は左手の為に。
 あるいは、汗臭さも酒臭さも隣が誰だかも気にしない、途方もない馬鹿どもの為に。
 声が嗄れるまで叫び飛ばせ。



『ROCK! ROCK! ROCK!/ 永瀬月臣』



 ――タン、タタン、タン。

 メロディーに割り込む軽い音。拍子抜けなその音に、俺は容赦なく罵声を飛ばす。

「おいおい、リズムを乱すなよ。裏すら取れてねぇじゃねーか」

「黙れ」

 部屋に響くその声は、どこまでも重く冷静だった。バスドラ以上に空気を裂く声だった。バスドラよりも重く響く声なんて、そうそう出せるものではない。
 ドアの傍に男が立っていた。端的な言葉はその男が放ったものだ。唯一バスドラと違うところは、腹に響くか頭に響くかの違いだった。頭痛を呼びそうなほど重い声。

「今までだって喋ってなかっただろーが。なんだよ、喋らせたのはそっちだぜ?」

「黙れと言っているんだ。俺の質問に答える以外は口を開くな」

 答える代わりに煙草の煙を吐き出した。真っ白な煙だ、ペンで文字が書けそうなくらい白い煙。こんな薄暗い照明の下だと大抵はもう少し紫がかって見えるものだが、吐き出した煙は洗い立てのシーツみたいな色のまま黙って部屋の空気に溶けた。不味い煙草だ。随分と煙草も不味くなった。原因もはっきりしすぎていて、歌う気すら起きない究極の不味さだ。

「何をしている?」

 男が言った。ドアの傍に立つ男がだ。喧嘩で勝てるかどうかが見た瞬間に分かるタイプの男だ。世の中には3種類の人間がいる。殴っていい人間と、殴ってはならない人間と、殴る価値もない人間。その男は2番目に属する人間だった。殴ればこちらがただでは済まないタイプの男だ。ただし、それは世間的な認識であって、俺から見ればその男は3番目だった。今まで何人か殴ってきたが、この男を殴ったところで何の意味も、何の発展も、何の前進もないことは明らかだった。前進どころか後退すらない。そういう男だ。

「何をしている?」

 苛立たしげに、男がもう一度同じ質問を投げかけてくる。仕方なく口を開けると、咥えていた煙草が床に落ちた。あーあー、勿体無い、勿体無い。俺はそれを丁寧に踏み消してからもう一度煙と一緒に口を開いた。

「見て分からないか?」

「質問しているのはこちらだ」

 予想通りの回答に肩をすくめる。要するに、こういうタイプなのだ、この男は。

「何を、している?」

 ゆっくりとした、3度目の質問。俺は得意げに答えてやる。

「ギターを弾いているのさ」

 男は何も言わない。眉ひとつ動かさなかった。そういう男だ。

「練習してるんだよ。そのうちライヴをやるんでね。どんなに凄腕のギタリストだって練習くらいする。練習をしないギタリストなんていないさ。1日1回触らないと腕が鈍るんだ。腕が鈍ったらそいつはもう凄腕でもなんでもない。ただの普通のギタリストになるだけだ。他の遊び半分の連中に肩を並べられちまうだけだ。それが嫌だからどんなギタリストだって必死になって毎日毎日ギターに触る。誰かが考えた難しいソロパートを練習してみたりする。たまに自分で曲を作ってみたりもする。俺も同じさ。自分で作ってみた曲を弾いてたんだ。練習してたんだよ」

 そこまで言っても、男は何も言わなかった。教会の壁に括り付けられているキリストの像みたいに動かなかった。まるで生命を主張する銅像。呼吸しているのかどうかも怪しいものだった。

「他に何か『質問』は? ギターの弾き方でも教えてやろうか?」

 男は何も答えなかった。その代わりに、ようやく石化の呪いを解かれたオーディーンの如くゆっくりとした歩調で歩き始める。もちろん、俺に向かって。

「おい、シールド踏むなよ? もう最後の一本なんだ。俺、テンション上がるとつい走りまわっちまうからさ、すぐにどっかにシールド引っ掛けちまうんだ。それが続くと、そのうち中で線が切れて使い物にならなくなっちまうんだよ。ギター弾くときはいつも気をつけてんだけど、ヤバイと思った時にはもう引っ掛けてんだよなぁ。…って、そこ危ねーよ。アンタらが履いてるみたいな硬いブーツで踏んだら、マジで一発で切れちまいそうだからさぁ。気をつけてくれよ?」

 それでも男は止まらなかった。なんとかシールドだけは踏まなかったが、それ以外には何の配慮もなかった。雑誌の束も、椅子の足も、煙草の空き箱も蹴り飛ばされた。重い音。歩くたびに、男の全身から重い音がする。全てを視界の端に追いやるような重い音だ。

「手を止めろ」

 12フレまでスライド。

 ――タン。

 不規則なスネアドラム。相変わらず外れたリズム。壁に指輪くらいの穴があき、俺の髪の毛が何本か床に落ちるのが見えた。左頬が強張っているのが分かる。どこまでも絶望的な音を立てるソレが、男の右手に握られている。それでも、俺の右手は止まらない。俺の右手は何のためにある? 既に明白だ。

「手を止めろ、と言っているんだ」

「まだ曲は終わらない」

 ――タン。

 右耳を掠めたんだろう。ピアスを開けた時と同じ痛みが、何年かぶりに俺の右耳に帰ってきた。まさか本当にピアス穴開けられてないだろうな。少し心配になったが、馬鹿らしくなったのでそんな心配はすぐにやめた。耳ってのは元々穴が開いてるんだ。今さら1個穴が増えたって、誰も文句は言わないだろう。

「せっかちだな、アンタ。曲が終わるまで待てないのか?」

「いつまで待てばいい」

「さぁな。とりあえず、この、――馬鹿で無駄でくそったれな戦争が終わるまでだ」

 今まで、誰かの為にギターを弾いたことなんて一度もなかった。ただの一度もだ。誰とバンドを組もうと、誰が俺たちのライヴを見にこようと関係なかった。全部自分の為だ。どっかのギタリストは聴きに来てくれる客の為だって言う。そうかと思えば、別のギタリストは自分たちのバンドの為だって言う。気障なギタリストは愛する人のためだって言う。俺は今まで、そういうのは馬鹿らしいことだと思ってきた。
 俺がギターを弾く理由? 楽しいからさ。ギターを弾いてる時間があまりにも楽しいから弾いてきたんだ。俺がギターを弾けば、客たちは狂ったように俺の名前を呼んだ。俺の音に合わせてどいつもこいつも右手を突き上げた。一緒に演ってるメンバーだってそうだ。ドラムもベースもボーカルも、みんな俺のギターに合わせた。どういう理由か知らないが、いつだって俺のいるバンドはそんな感じだった。俺のギターを求めていた。
 でも、客よりメンバーより俺のギターを愛していたのは他ならぬ俺自身だ。誰だって俺以上に俺のギターを愛せる奴はいない。俺はいつだって俺の為にギターを弾いてきたし、誰よりも自分の音に酔いしれた。そういう人間だったんだ、俺は。誰かの為に弾くなんて勿体無くてできなかった。いつだって俺の音は俺のものだ。俺独りのものだった。

「反戦運動、ってやつか」

 忌々しげに男が呟いた。呟く声すら重い。俺はその言葉にひとつ溜息をついて、もう一度、今度は大げさに肩をすくめた。何も分かってない。目の前にいるのはそういう男だ。

「何を聞いてたんだ? 俺はギターを弾いてるだけだって言っただろう。練習してるんだってさぁ」

 男が睨み付けるように俺の顔を見る。それでも俺は手を止めない。

「ライヴがあんだよ。でっけえライヴだ。この戦争が終わったらよ、ただっ広い焼け野原にステージ作ってライヴをやるんだ。発電機だってある。それがぶっ壊れちまったらアコギでやったってかまわねぇ。とにかくライヴをやるんだ。ギターを弾くんだ。だから練習してる。この戦争が終わるまでだ。さっき言っただろう?」
 ...........
「もう戦争は終わっているッ」
 男は、転がっていた椅子を思い切り蹴り飛ばした。椅子は俺の脚を直撃し、アンプを弾き飛ばした。それでも音は止まなかった。止めるわけにはいかなかった。

「終わってない。終わってねぇんだよ!」

 叫ぶ。メロディーなんか無視して、しゃがれた声で。

「いや、終わった」

 それでも、男の声は冷静だった。冷静で、頭に響く重い声だった。

「何もかも終わった。戦争は終わったんだ。お前たちは取り込まれる。我々に取り込まれる。そういう戦争だった。そして、結末としてお前たちは戦争に負けた。取り込まれる。拒むことはできない。音楽だってなんだって取り込まれる。戦争は終わったんだ」

「違う!」

「手を止めろ」

 男が右手の銃を構えた。絶対的で刹那的な暴力がここにある。

「断ったら?」

「弾けなくするまでだ」

「上等」


 ――タン。

 軽い音とは対照的に、右足が急激に重くなったように感じられた。痛みはワンテンポ遅れてやってくる。ギターなんて投げ出して、床の上を転げまわりたくなるくらいの痛みが太ももから直接大脳に叩き込まれた。痛いという感情が、ゴルフクラブでボールをぶっ叩くように叩き込まれる。

「音楽は――終わらない」

 それでも、必死になって右手を動かした。コードなんて思い出せないくらいに頭ん中がぐちゃぐちゃだったが、それでも左手は弦を押さえ続けた。

「ふん」

 男は、初めて俺の目を見た。それから、つまらなそうに溜息をついた。

「非暴力・不服従」

 カシャンという音を立ててマガジンを取り出す。

「衝撃、というものの前提を知っているか? 初めてだ、という前提だ。怪我と同じ。最初だけは信じられぬくらいに痛い。非暴力・不服従。……ふん。なんとも使い古された言葉だ。もうなにも衝撃などもたらさない。誰も痛がらない」

 腰の後ろに下げている予備のマガジンを手に、男は苦笑した。

「音楽の世界でも同じだろう? 二番煎じは塵屑以下でしかない。叩かれる。叩かれて当然なんだ。痛くないのだからな」

 そして、ゆっくりとマガジンを銃身に差し込んだ。

「なんか勘違いしてないか? ロックは暴力の象徴だぜ?」

「決めるのは第三者だ。音楽と同じように」

「へっ、アンタみたいな職業軍人が音楽語るなよ」

 唾を吐きかける。唾は半分だけの放物線を描いて男の靴にべちゃりと落ちた。俺は馬鹿みたいに笑い飛ばす。

「安心しろ、『最初より痛くない』」


 ――タン。

 ガクリ、と膝が落ちる。跪いてから、左ももを撃たれたのが分かった。

「俺もギターを弾いていたことがある」

 止まりそうになる手を必死に動かしている俺を見下ろして、男は口を開いた。

「スライド、という名前の技術があったな。ハンマリングだとかタッピングだとか、そういう類のものだった気がする。遠い昔だ。ハイスクールに上がる少し前くらいのことだ。だからあまり覚えていないが、そういう名前の何かがあったのは覚えている。スライド」

 俺は答える代わりに、男が言ったものを全て実演してやった。音楽は止まらない。

「だが、今の俺が知っているスライドはコレだけだ。ここ。ハンドガンの上にあるこの部分だ。昔のハンドガンは、……といってもリボルバーではないが、その頃のハンドガンはスライドを引く必要があった。激鉄を起こすため、弾丸を撃つためだ」

 左肩に固い感触が伝わる。次に感じたのは冷たさ。シャツの上からでも分かる。それは死を孕んだ圧倒的な冷たさ。

「でも今は違う。そんな手間は必要ないんだ。スライドを引く暇があったら1発でも多く弾を撃てる方が良い。1人でも多く殺せた方が良い。だから、今のハンドガンはスライドを引く必要がない。セーフティーを外したら、引き金を引けば良い」

 ――タン。

「があぁぁああっ!」

 口から叫びが漏れ、左手が肩から伝わる衝撃でネックから弾き飛ばされる。力を込めようにも、もう左手は上手く動かなかった。握力もほとんどない。

「手を止めろ」

「音楽は、終わらない」

 左腕でネックを支え、全弦開放で掻き鳴らした。不協和音。ディスコード。世界は調和なんて言葉を忘れている。丁度良い。

「耳障りだ」

 ――タン。

「あああああッ、あああああああッ!」

 右肩が砕かれる。たった数センチの弾丸が、肉を捻じ切り、骨を砕き、音を止める。

「ようやく、止めたな」

 ピックを拾おうにも、もう指先に力は入らなかった。爪がピックを弾き、ピックは無慈悲に床をすべる。もう一度手を伸ばす。ピックは床をすべる。それでも伸ばした俺の右手を、男が硬い靴底で踏みつけた。シールドが切れちまうんじゃないかって心配した靴だ。右手の指が嫌な音を立てる。

「茶番は終わりだ」

 呻く俺に、声が降ってきた。

「茶番じゃない。ロックだ」

「そうだったな。じゃあロックは終わりだ。音楽は終わりだ。連行する」

 男は右手から足をどけ、そのまま俺の顔を蹴り飛ばした。弾き飛ばされ、壁に背中を打ち付ける。立ち上がることも体を支えることも出来なかった。ただ、寄りかかる。右手は動かなかった。左手は動かなかった。俺は壁に支えられ、ギターはストラップで支えられていた。音は止んでいた。音楽は止んでいた。心臓は大きくリズムを乱していた。くそったれ!
 誰かの為にギターを弾いたことなんてなかった。たったの一度だってなかった。全ての音は俺のためにあり、全ての歌は俺のためにあった。そういう男だった、俺は。どこまでも自己中心的で、どこまでもナルシストだった。俺がギターを弾き、誰かが歌う。誰かが歌うから弾くわけじゃなかった。誰かの為に俺が在るわけじゃなかった。
 だが、今は違う。俺が誰の為に在ったのか、という命題。ライヴハウスには誰も居なくなった。ドラムを叩けたアイツは右腕を失った。ラジオから音楽が消え、耳障りな銃声だけが街を覆うようになった。人が音楽を忘れていく。メシを作りながらデカイ声で下手糞な歌を歌う隣の婆さんも爆撃で死んだ。骨も残らなかったし、下手糞な歌も残らなかった。人が音楽を忘れていく。人が音楽を忘れていく。

「へへっ、へへへへへへ…」

 だったら、俺が覚えていようと思った。音楽の為に、俺が在ろうと思った。

「へふ、は、ひぇははははははは!」

「どうした。気でも狂ったか?」

 男が苦笑する。それでも俺の笑いは止まらなかった。おかしなもんだ。指は折られてる。体には4つも穴が開いている。血を流しすぎてる所為で、朝一番の煙草みたいに頭がくらくらする。俺のギターは歌うことを忘れた。それでも笑わずにはいられない。

「ひひ、ふっ、はははっ、ははははははッ!」

「何が可笑しい」

「音楽は、――終わらない」

 見せ付けるように、口を開いた。




 左手は何のためにある?

 問いかけたところで、既に左手はその使命を全うしようと躍起になって踊ってやがる。
 ネックを滑り、鋼の糸を押さえつけ、てんでバラバラに軽快なステップを刻みやがる。
 ダンス・ダンス・ダンス。
 俺の左手が踊りだせば誰もが右手を突き上げる。
 怒声は誰のものでもなく、全ては部屋を埋め尽くす煙草臭い空気のために。

 右手は何のためにある?

 問いかけたところで、既に右手は手にした刃を振り回してやがる。
 刃こぼれしようと擦り切れようと、一体誰が気にしよう。
 6人の屈強なマゾヒスト共が、斬られるたびに快楽の声を挙げるのだ。
 やめられるものか。
 斬りつけ、ぶっ叩き、弾き飛ばす。
 その度に何処かで怒声が挙がる。
 俺の気が済んだその時には、刃はそいつらにプレゼントだ。

 両手は何のためにある?

 左手は右手の為に。右手は左手の為に。
 あるいは、汗臭さも酒臭さも隣が誰だかも気にしない、途方もない馬鹿どもの為に。
 声が嗄れるまで叫び飛ばせ。

 ROCK! ROCK! ROCK!

 笑い飛ばせ。
 殴り飛ばせ。
 窮屈な世界を這いずってるなら、手前の足で蹴り飛ばせ。
 オール・フォー・ミュージック。
 オール・フォー・ロックンロール。
 歌ってやろうぜ、頭の悪い世界の為に。

 誰が死のうが、何人死のうが、音楽は終わらない。音楽は終わらない。



「言っておくが、セーフティーは外してあるぞ?」


 額から伝わる、固い感触。


「はっ、ライヴの時間だ。ロックンロール!」



 ――音楽は終わらない。



 >>了。




◆あとがき◆
 さてさて、如何でしたでしょうか。
 えー、これをスペースクラフトに献上するために書き始めたのが、ちょうどイラク戦争が起こったころですね。いやぁ、単純明快! 平和主義を自称する俺としては、なんとも悲しい出来事でした。戦争が世界からなくならないことなんて分かってるんですけどね。
 とにかくまぁ戦争ものを書こう、と思ったのは後になってからです。これは最初にタイトルが浮かびました。深雪嬢から『ろ』とかいうたいそう面倒な頭文字をいただいてしまったので、さてどうすんべ、と悩みながらバスに揺られていたところ、ふっと最後の主人公の台詞が頭を過ぎりまして、ああROCKにしよう、と思ったわけです。うーん、遠回り!
 戦争は悲しいですよね。特に『そういう戦争』は。
 悲しいっていうか、米とかいう漢字を使う国が腹立たしいですよね。嫌いです。