暮れない夕暮れを望むことよりも、瞬かない星を望むことよりも。
 僕は、膝まである夏草が風にたなびくような景色と共にありたい。
 あるいは、ゆっくりと燃え尽きていく蝋燭のような。
 川上から湿った風が吹く冬。
 北風は僕の耳を千切ろうとしているように思えるほど冷たく、足元の枯れ草は全てを諦めたように乾いた音を立てる。生命が眠っているというというのは科学者がばら撒いた嘘なんじゃないかって、そう思えてくるほど世界は息を止めている。
 吐き出した息は、白く。
 僕の心臓が静かに鳴り響いていることを、世界は知っているだろうか。僕の吐息が温かいことを、世界は覚えているだろうか。
 僕は川辺に立ち尽くしたまま目を閉じる。無機であるはずの川の水が、まるで生き物みたいに声を挙げている。その音階はどこまでも淋しくて、まるで嗚咽みたいに聞こえてしまうけれど、それでも止まることはきっとない。僕が世界を覚えている限り。

 踏みつけた大地の厚みを、コートの裾に引っかかった風の欠片を、鼻腔に届く夜の匂いを。

 刻み付けるほどに、僕が希薄になっていく。



『Noway Without You / 永瀬月臣』



 どこかから声が聞こえる。
 懐かしさをいっぱいに抱えて、その声は僕のところにやってくる。

「――――!」

 呼んでいる。
 君が、僕のことを呼んでいる。
 ぱらぱらとしか人が出てこない寂れた駅の改札口。君はその向こう側で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら大きく手を振っていた。手編みのマフラーにかかる長い髪が、手を振るたびに軽やかに揺れる。僕は少し照れながら、そんな君に大きく手を振り返した。まるで金色の雨みたいに音を立てる駅前通りの銀杏の木。僕は乾いた雨の中で、3年ぶりに君の名前を呼んだ。

「こっちはやっぱり寒いね!」

「そのわりには元気だな」

「だって、やっと帰ってこられたんだもん。はしゃぎたくもなるよっ」

「そういうもんか」

「うん、そーゆーもの!」

 僕を見上げて君が笑う。頭ひとつぶん違う君と僕。僕は君の頭をくしゃっと撫でて、照れている自分を不器用に隠した。

「えへへぇ」

「な、なんだよ気持ち悪いな」

「久しぶりに撫でられたー」

「ったく、ばか」

 僕たちの街の冬は早い。たいして暑くもない夏が終わると、それこそ全力疾走で秋という季節が過ぎていく。雨が降るたびに山は色づき、吐息は一層白く曇った。紅葉の終わりは、雪の合図。君は左の手袋を外すと、僕のコートのポケットにその手を素早く滑り込ませた。

「おわ、冷たっ!」

「しょうがないでしょ、私は心の温かい人なんだから」

「なんだそれ?」

 だから、僕らはゆっくり歩く。季節が随分急ぎ足で歩くから、それに合わせてしまったら1年なんてあっという間に過ぎてしまう。僕らは春を歩き、夏を歩き、秋を歩く。冬は存外長いから、雪が降るその日まではわざとゆっくり歩くのだ。
 金色の絨毯を踏みしめながら、硬いアスファルトを忘れながら。
 僕らはゆっくり歩いていく。

「――――」

 君に名前を呼ばれて足を止める。いつものように背伸びする君の背中を、僕は慣れた手つきでそっと支えた。3年離れただけでは、僕らの日常は壊れなかった。同じように、互いを想う想いさえも。

「お父さん、なんて言うかな」

 唇を離すと同時に、君は不安そうに呟いた。

「そりゃ怒るだろ。あ、驚くほうが先かもな」

「そうだよね。怒るよね、普通」

「まあな。でも、どうなるにしろ今日はその話はしないぞ。久しぶりに娘が帰ってきたんだ、喜ばしてやらないと」

「……うん」

 それでも、君の瞳はまだ不安げに揺れているから、僕は少し強く抱きしめてやる。

「ありがと。――――」

 安心したように、耳元で僕の名前を囁く君。

「バカ、名前で呼ぶな。知り合いに聞かれたりしたら大変だぞ」

「心配しなくても平気だよ。誰もいないから」

「そうやって気ぃ抜くなよ。もし家の中で呼んだりしたら…」

「もう、心配性だなぁ」

 クスリと笑って、君は僕の胸からそっと離れる。

「ただいま、お兄ちゃん」

「ん、おかえり」

 そして、君はもう一度背伸びをした。


      ◆


 結ばれてはいけないことなんて、最初から分かっていた。
 僕らが自分の気持ちに気づくころには、常識も道徳観も、宗教とかそういったことだってもうある程度知ってしまっていたから。だけど、知ってしまっていたからといって誰がそれを止めることが出来る? 抑え込もうとした。自分すら否定した。それでも、想いは止まらなかった。止められなかった。
 彼女を作ってみたこともあった。それは君を忘れるため。でも、そんなことでどうにかなるなら、僕はこんなにも悩まなかっただろう。

『誰を見てるの?』

 二人目の彼女と別れる少し前、そんなことを言われた。

『私の中には私しかいないわ。いるとしたら、あなたの中でしょう?』

 投影。どんな時でも、君の影を追ってしまっている自分が居る。目の前の誰かと、いつも隣に居て欲しい君。気がつけば、誰かと比べることで君を見ていた。比べられた方はたまったものではなかっただろう。
 だから、彼が僕を殴りに来たときは、素直に彼の気持ちを理解できた。

『アンタだ! アンタなんだろ、アイツを縛り付けてるのは!?』

 頬の痛みなんか、その言葉を聞いた時にはどこかへ消えてしまっていた。ガラガラと音を立てて崩れたのは僕の体などではなく、今まで自分自身を戒めてきたいくつもの高い壁の群れだった。
 悟ってしまったのだ、僕は。
 自分自身を取り囲むいくつもの壁。世間とか常識とか、そういったものから外れてしまわないように自分自身で塗り固めた厚い壁。けれど、僕はその壁の中に居ながら彼の言葉によって悟ってしまったのだ。壁の中に閉じ込められているのは、その中に閉じこもることで自分自身を戒めていたのは、決して僕だけではなかったのだということを。
 目の前で激昂している男がいる。僕の胸倉を掴み、今にも拳を振り下ろそうとしている男がいる。口の中に広がる鉄の味なんかより、もっと味気ないものを噛み締めているような男の表情。その顔だって、僕はよく知っている。それは、僕が彼女たちにさせてきた表情そのものでもあったのだから。

『だったら、なんだって言うんだ…?』

『この――ッ!』

 握り固められた暴力が、やるせなさを纏った怒りが、僕に向けて振り下ろされる。これは贖罪の儀式だと思った。君に想いを寄せてしまった罪。君に想いを寄せさせてしまった罪。それを償うための儀式だと思った。世間は僕らを許さないだろう。いるのであれば、神様だって僕らを許すことはないだろう。キリスト教で言えば、僕らは重い罪を背負ってしまった。行き着く先は地獄であって、決して楽園なんかには届かない。
 僕は固く目を閉じた。奥歯を噛み締めて、彼の拳が振るわれるのを待った。この男に殴り飛ばされることでその罪が償えるのだとしたら、君の罪まで僕が洗い流せるのだとしたら、僕はその痛みを受け入れようと思った。受け入れて、真っ白になったその心で、君のことを全てを諦めようと思った。
 だけど――。

『やめてっ!』

 君の声が、それを止めてしまった。罪は、洗い流されなかった。そっと目を開けると、君が彼の腕にしがみついていた。

『……そうかよ。そうだと思ったよ』

 君を振り払い、彼は吐き捨てるようにそう呟く。

『お前が見ていたのは、やっぱりコイツだったわけだ』

 君は答えない。俯いてしまう君に彼は背を向け、そのまま何も言わずに去っていった。僕らは取り残された。まるで、世界に僕ら2人きりしかいないみたいだった。晩秋の風は随分冷たくて、冬をつれてくるのに一生懸命な彼らは僕らのことなど見向きもしない。
 そっと、君が僕の頬に触れる。

『痛む?』

 壊れ物に触るように、君の親指が僕の口元の血を拭った。今にも泣き出してしまいそうなその瞳。まるで、痛がっているのは僕じゃなくて君みたいだった。それがなんだか可笑しくて、僕は目を逸らして笑ってしまう。

『一番痛いのは、きっとアイツだぜ?』

『…………』

 君は何も言わなかった。たぶん、僕が言わなくたってそんなことは分かっていたんだろう。そう、傷ついているのは彼や彼女だ。僕らの茶番に振り回されて、傷を負ったのは彼らの方なのだ。
 そして、もう償うことすら赦されない。

『結構カッコいい奴だったのに、お前も勿体無いな。ったく、そんなんじゃ何時まで経っても幸せになれないぞ?』

『だって…』

『阿呆。言い訳なら俺にするんじゃなくてアイツにしてやれ。今からなら追いつくだろ』

『だって、お兄ちゃん…』

『なんだよ。言いたいことがあるならハッキリ言えよ。いつも言ってるだろ? どんなことだって、言葉にしなきゃ分からないってさ』

 そう言って、ぽんぽんと軽く頭を叩いてやる。それは、ずっと昔から繰り返されてきたこと。そうする度に君は『子供扱いしないでよぉ』と脹れてしまったけれど、それでもちゃんと色々なことを話してくれた。それは、ずっと変わらない僕らのルールだった。

『子供扱い……しないでよ……』

『ああ、悪かったな』

 いつものように君が呟いて、僕は軽く叩いてやったその手で、君の頭をくしゃっと撫でてやる。けれど、君は何も言わないままで、代わりに僕の手をそっと掴んだ。


 ――そのまま、少し強引に引き寄せられる。


 目を閉じる暇も無かった。気がつくとすぐ目の前に君の長い睫毛があって、冷たい風はまだ吹いているのに、唇だけが寒さを忘れてしまっていた。早鐘のような心臓の音が、世界から雑音を消し去っていく。それは僕の心音のようでも、君の心音のようでもあった。
 1秒か、2秒か、それとももっと長い時間だったのか。僕が目を閉じることを思い出せないうちに、君の唇はゆっくりと離れた。

『……だ…い…好き…だよ』

 今にも消え入りそうな声で、君はそう囁いた。君の目はそっと伏せられてしまったけれど、代わりに君の手が僕の手を少し強く握り締めた。その所為で伝わってしまう、君の不安な心の震え。
 ああ、僕らには何も残されていない。
 心の中でそう呟いた。僕らは誰にも救われることはない。誰からも赦されることはない。僕らの前にはもうそんな道しか残っていなかった。僕らにはもうこの道を歩くことしか出来ないのだ。
 立ち止まろうか。そうも思った。今なら戻る事だって出来るだろう。君のこの手を振り払って、『冗談言うな』って笑い飛ばして、そうすればまだ僕らはあの場所へ戻ることが出来る。幸せな、平凡な、誰からも愛されるあの場所へ。

『ばか。何言ってんだよ』

 僕らは傷つけてきた。僕らがこんな勝手な想いを抱いてしまった所為で、僕らのことを想ってくれる大切な人たちを何度も何度も傷つけてきた。彼らは知っている。僕らの進もうとしているこの道が、何処にも通じていないことを知っている。だから引き止めた。馬鹿馬鹿しいって、そんなのは普通じゃないって、一生懸命に否定してくれた。僕らが正しい道に戻るための最後のチャンスは、もうこの瞬間しか残っていない。親切な彼らの手を掴めるのは今しかない。
 だから、握り締めた。
 君の手を、震えたままの君の手を。
 互いの指を絡めあって、しっかりと君の手を取った。

『…俺も、だ』

 今度は僕が君を引き寄せる。
 息が詰まりそうなほど、長い長い2度目のキス。
 償えないのなら、罪を背負って生きるまでだ。道が終わってしまうなら、その先を僕らが作るまでだ。たとえどんな事があったって、僕はこの手を振り払えない。何を掴み損なったって、君の手をずっと離さない。
 唇を重ね合ったまま、君の頬を雫が伝った。

 その日、生まれて初めて、君を泣かせた。


      ◆


 それからの日々は、冬だろうと夏だろうとお構いなしに早足で駆けていった。僕らはただ引き離されることだけを恐れ、それを紛らわすように身を寄せ合い、交わりあった。罪の意識と途方もない秘密が、僕らの恋をより一層燃え上がらせた。そして、恋に夢中になればなるほど、蛇口に結わえ付けた水風船のように、罪の意識は大きく重く膨れ上がっていった。
 たぶん、そのままこの関係を続けていたら、僕も君もきっとその罪の意識に押し潰されてしまっていただろう。あるいは、その意識は意識であることを捨てるために弾けてしまっていたかもしれない。大きすぎる想いは、やがて更に大きなものを生み出してしまう。互いに凭れ合い、ようやく立っているだけのような僕らが、その大きずぎる『何か』に耐えられるとは思えなかった。だから、君の言葉には少し驚いたけれど、正直ホッとしていたりもしたんだ。

『私、都内の大学を受ける。この家を出るよ』

 あれからちょうど1年目の日の夜、君はそう切り出した。その年の秋はいつもよりもずっと短くて、もういつ雪が降ってもおかしくないくらいに冷たい風が吹いていた。

『それは、自分の気持ちを確かめるためか?』

『ううん、私たちの気持ちを確かなものにするためだよ』

 不安がなかったわけじゃない。僕はあくまで地元の大学に通う普通の男で、別段格好よくもないし取り柄も無い。君が僕に飽きてしまうんじゃないかって、そう思ったりもした。でも、君はそんな僕の不安を可笑しそうに笑い飛ばすと、真剣な眼差しでこう言った。

『3年したら帰ってくる。大学も残ってるけど、それでも帰ってくるから。その頃にはお兄ちゃんも卒業してるでしょ? そしたら…』

 ――お父さんに話して、東京で一緒に暮らそう。

 それは、まるで夢物語みたいだった。なんだか一昔前のメロドラマみたいだったけれど、それでも僕らにとっては理想の話のように思えた。誰も僕らを引き裂くことなんてできない。心からそう信じることが出来た。

『楽しみだな』

『うん、少し怖いけど』

 そう言って、君はちょっと不安げに笑った。君のその言葉は、父に事実を話すことが、という意味だったんだろうか。それともその想像が幸せすぎるから? そんなことをふいに考えついて、僕は独り心の中で苦笑した。どうやら僕は恋愛ドラマの見過ぎらしい。
 そして、僕らはゆっくりと歩くことを覚えた。
 別れまでの4ヶ月あまりを、僕らは出来うる限り緩やかに歩くように努めた。駅から家までの道を、雪の積もった大通りを、春を告げる雨の中を。君の合格発表の帰り道は流石に駆け足になってしまったけれど、それでも僕らの周りの景色は他の人より随分遅く流れたように思う。風に舞う花の香りや、霧雨のような雨の一粒でさえ、僕らの周りを通り過ぎるときにはスローモーションのように鮮やかに映った。

『立ち止まったらダメだよ』

 新幹線に君が乗り込む間際、情けない顔をしている僕に君はそう忠告した。

『ちゃんと歩いて、歩いて、それからもう一度手をつなぐの。立ち止まっちゃったら、隣に誰もいなくなっちゃう。もちろん走ってもダメだよ?』

 父は仕事があったので、駅まで見送りに来ることはできなかった。僕らを見ているとしたら、抜けるような青空の向こう側にいる母だけだ。その母だって、見ているだけで僕らを止めることなんてできやしない。どんなに、僕らを止めたいと願っていても。

『――――』

 君が、初めて僕のことを名前で呼んだ。背伸びする君の背中を、僕はいつものようにそっと支える。冷たい風は吹かなかった。それでも、唇の温もりは春の風よりもずっと春を感じさせた。

『立ち止まらないよ』

 僕がそう言うと、君は満足そうに頷いた。

『またね』

 そうして、僕らに沈黙の季節がやってくる。


      ◆


「ただいまー」

 ドアを開けると、君は大きな声でそう言った。僕もそれに倣って昨日と同じ言葉を放つ。君は奥にいる父のために叫んだのだろうけれど、僕にはそれがこの家のもの全てに対して放たれた言葉のように思えた。まるで、忘れかけていた古い記憶を揺り起こすように。
 この家には、僕らにとってかけがえのないものが沢山眠っている。壁の落書きに僕らの笑い声が眠り、欠けた玩具に僕らの泣き声が眠っていた。あるいは、母の想い出だとか、父への尊敬だとか。もちろん、悲しい想い出も、辛い記憶だって眠っている。僕らの淡い恋心だって、まだきっと残っている。
 そんなことを考えるようになったのは、君が家を出て行ってからだった。女々しいかもしれないが、僕は淋しかったのだ。君がこの家に居ないことが、部屋のドアをノックできないことが、君と抱き合ったままシーツに包まることが出来ないことが。君が隣にいないだけで、そんなにも僕は弱くなった。それは君という存在が僕にとって必要不可欠だという証拠だったけれど、その嬉しさよりも部屋の電気を消したときの寂寥感の方が勝っていた。過去よりも今を欲したのだ、僕は。
 僕らは正しい未来を捨ててしまった。未来は現在の積み重ねでやって来るものだけれど、積み重ねとはつまるところ過去でもある。だとすれば、正しい道から逸れた僕らに正しい過去など存在しない。家の中のあらゆるところに残されたのは、あくまでも現在の君の影だった。それはつまり、今の僕が求める君の姿でもある。廊下の壁に、僕のベッドに、台所の食器棚にさえ、見えなくとも鋭い棘が生えた。君の姿かたちを借りた、僕の心を刺す棘だ。うかつに近寄る僕を、正しい過去は容赦のない鋭さで貫いた。針のむしろに包まれたようとは、まさにこのことだろう。
 その痛みに耐えられなくなった僕は、それからしばらくの間、取り憑かれたようにアルバムを見漁った。別に写真を捨てたり燃やしたりするためじゃない。僕が僕らの過去を事実としてしっかりと受け止めるためだ。受け止められないから、今となっては受け止めてしまえる過去ではないから、僕の心は不意に現れる想い出に痛みを覚える。それならば、僕はそれを受け止めてしまうまでだ。僕はあの時に誓ったはずなのだ。たとえ道が塞がれていようとも、僕は新たに道を切り開いてでもこの道を歩いてゆくのだと。だから、その試練を受け入れた。受け入れなければならなかった。
 もう頭の片隅にすら残っていない生まれたての自分の写真。母に抱かれ、父に抱かれ、カメラの意味すら分からないままレンズをじっと見つめる僕。写真の中で僕は息をし、景色を眺め、自分の力で歩いていた。今の僕が持ち得ない、人間としての強さを体の隅々から周囲に向けて放っていた。それは正しい姿だと思った。だからこそ、今の僕はそんなものを持ち合わせていない。痛んだ。刺し貫かれるように心が痛んだ。痛みに耐えながらページを捲った。そこに、君が生まれていた。
 ――息を、呑んだ。
 慌てて最近の写真を探す。ここ3,4年で撮った写真を。僕がはっきりと君を意識し始めてから君と撮った写真をだ。写真は無造作に引き出しに入れられていた。アルバムの整理なんて最近はめっきりしていなかったから、僕の暇な時間を待って写真はその場所で眠っていたのだろう。現像から持ち帰ったままの縦長の紙袋の中で、彼らはこの時を待っていた。僕は震える手で写真の束を袋から引きずり出し、一枚一枚確かめ、そして、愕然とした。
 同じだった。僕の目は、まるで同じだった。
 揺り籠の中で気持ちよさそうに眠る君を、写真の中の僕は見つめている。四角く切り取られた部屋の中で、僕はじっと君の顔を覗いている。その目はまるで同じだった。去年撮った写真の中の僕の目と、まるで同じ目をしていた。おそらく今の僕だって同じ目をするんだろう。そこには否定できない確かな過去があった。
 僕はずっと同じ想いを君に抱いていたんだ。――それこそ、生まれたときから。
 それは2つの可能性を秘めている。1つは、僕が物心つく前から君に恋をしていたということ。いま1つは、今の僕が抱く想いが贋物でしかないということ。僕は焦った。僕の想いは所詮肉親に向けられる程度のものだったのかと。君に寄せる想い以外に普通の恋を知らない僕にとって、それは蛇に絡みつかれてしまうような確実な恐怖だった。それに関してだけは、僕には正誤の判断など許されていないのだ。
 僕は今さらながら己の運命を呪った。もし君が妹などでなかったなら、僕は今以上に君を愛していたかもしれない。僕はこれ以上ないほどに君のことを想っているけれど、この限界すら事実によっては超えられるかもしれないのだ。
 昔も、そんなことを考えたことがある。自分の中で日に日に大きくなっていく君への想いを前にして、僕は君が妹ではないことを願っていた。君と血が繋がっていなければ、僕は地下牢に閉じ込めているこの想いをなんの躊躇もなく白日の下に曝け出すことが出来るのに、そう思っていた。けれど、僕と君は間違いなく血が繋がっていて、どうしようもなく似たもの同士で、狂おしいほどに正真正銘の兄妹だった。その事実は曲がらなかった。
 ページをどれだけ捲っても、そこには同じ目をした僕がいた。君のことを大事そうに見つめる僕がいた。最後までページを捲ろうとも、僕は君を見つめ続けていた。そして、その写真を見つめる僕の目もまた同じ目をしていた。
 一体、何度アルバムを見返しただろう。僕は暇を見つけてはアルバムを開くようになった。まるでお気に入りの小説を何度も読み返してしまうように、僕は何度だって過去の記録に没頭した。不変の痛みを伴ったまま、事実を事実として受け止め続けた。
 けれど、終わりは唐突だった。
 君が家を出て、僕らが初めて迎えた夏。大学は7月の中ごろ夏休みに入り、僕は何もないこの街でひとりの時間を懸命に潰した。映画を見に行き、本屋に行き、CDを買った。君と交代でこなしていた家事を一人で片付け、父と僕の2人分だけの食事を作った。短期のアルバイトを始めたおかげで、退屈な時間は少しだけ減った。ただ淡々と、けれどゆっくりと過ぎていく夏だった。
 父が夏の休暇をとったのは、お盆の少し前だった。母が死んでから男手ひとつで僕ら2人を育ててくれた父は、一言で言うならば仕事の人だった。それもそうだろう。本当ならば僕は大学に行くつもりなど毛頭なかった。僕ら2人分の学費を出すことなど、そんなに容易なことではないと知っていたからだ。けれど、父は僕に大学に行くことを勧めた。勧めたというよりは、強要した。

『お金はなんとかする』

 その言葉どおり、父は今まで以上に忙しく働くようになった。いつも朝早くに家を出て、夜遅く帰ってきた。家庭は放っておかれてしまったけれど、それは不可抗力的な結果に過ぎない。父は、家族存続の必要条件的に仕事の人となったのだ。
 そんな父が、早めの夏期休暇に入るのは珍しいことだった。

『少し余裕が出来たんだ。家のローンが終わって、貯金も出来てきたしな』

 けれど、君は帰ってこなかった。当たり前だ。3年の秋まで帰らない、そういう約束だったんだ。もちろん、一般的な父親がそうであるように、父はそれに反対した。父でさえあまり行ったことのない東京に、3年も娘を放り込んでおくことになるのだ。心配にならないはずがない。

『電話だけ、というのも寂しいものだな』

 クーラーがかかった居間のソファーに座り、呟くように父は言った。

『会いたい?』

 僕が尋ねると、少し照れくさそうに微笑む。

『それはそうさ。3年というのはいささか長い』

 それからゆっくり立ち上がると、父はテレビのほうへと近づいていった。そして、そのテレビの上に置いてある写真たてを手に取った。家族で撮った写真。君が家を出る前日に、玄関の前で撮ったものだ。

『まだ半年も経っていないのになぁ』

 それは、自分に言い聞かせている言葉だったんだろうか。それとも、僕に同意を求めて放ったのか。写真の中の君を見つめたまま、父は少し淋しげにそう言った。でも、そんな言葉など、僕の耳にはただの音としか認識されなかった。静寂と雑音との共生。僕の中を、ある種の衝撃が静かに、爆発音めいた心臓の音と共に駆け巡っていた。
 ――似ている。けれど、決定的に違う。
 それに気づいた時には、僕は呼吸の仕方を忘れていた。おそらく、血の巡りを別にすれば、僕は風化していくスフィンクスの如く、その場に在るだけの存在になりきっていただろう。父は写真から目を逸らさなかった。だからこそ父は僕の変化に気づかず、僕は父の変わらない瞳に気がついた。何度アルバムを見返そうと、僕はその目を見るまでその事実に気づかなかった。父と僕。僕らが君に向ける瞳は、実際の風景と精巧な写真のように限りなく近いものだった。けれど、それは反面、実物と写真の差くらいどこまでも異質なものだった。
 それが、父と僕との、想いの違いだった。
 僕は急いで部屋に帰り、もう一度アルバムを手に取った。恐怖と期待というまったく逆方向の感情を胸に、僕はそっと分厚いページを捲っていく。
 そこに僕がいた。そこに君がいた。――君に恋をしている、僕がいた。
 その時から、僕はこの家に眠るいくつもの過去を慈しむようになった。全てに君が宿り、僕が宿っている。何も知らないまま、ただ単純に純粋に君を想う過去がそこにあった。それらはみな酷く曖昧で、ところどころ欠け落ちてしまっていたけれど、だからこそ僕は一層それらの過去を優しい気持ちで眺めた。もう心は痛まなかった。


 僕は、君が妹だからこそ、君のことが好きなんだ。


「んじゃ、メシでも食いに行きますか」

「えー? せっかく帰ってきたのに!」

「いいんじゃないか? どこかに3人で食べに行くなんて久しぶりだろう」

「でも、お父さんっ」

 ふくれっ面になる君の頭をぽんぽんと叩き、僕は早々に玄関へと向かった。父がそれに続き、君がしぶしぶついてくる。
 冬が近づいてきている。それと同じくして、何かがどこかで始まろうとしている。
 再び、僕らは手を取り合った。
 歩くべき道は、遠くまだ残っていた。


      ◆


 湿った北風を、肺の奥まで吸い込んでみる。澄んだ空気が、沁みこむように僕の体を冷やしていく。冷たさを得ているようで、実際には体温を奪われているだなんてなんだか不思議だ。
 川面は、見上げた夜空よりずっと深い闇だった。まるで夜の流れる川。冬の夜空の下を、本当の夜が曲がりくねりながら流れていく。光も闇もない交ぜにした、混沌の海を一心に目指して。
 カサリ、と。
 背中から聞こえてくる、乾いた草の音。

「夜のお散歩?」

「まぁ、そんなところだ」

 僕は振り向かないままそう答えた。僕自身、とくに目的を持たないで外に出たのだ。君が散歩だというのなら、きっとそうなのだろう。

「父さんは?」

「さっき酔って寝ちゃった。珍しくたくさん飲んでたからね」

「ははっ、よっぽど嬉しかったんだろ。お前が帰ってきたのがさ」

 僕の言葉に、君は何も返さなかった。ただ、言葉の代わりに草の音が近づいてきて、君の体温がそっと背中から伝わってきた。手袋をはずした君の両手が、コートのポケットの中で僕の手と繋がれる。相変わらず冷たい手だった。

「どうした?」

「うん? ……うん」

 曖昧な返事が、確かな冷たさの中を心もとなげに漂う。

「なんだよ、ちゃんと言えよ」

 頭を撫でてやれない代わりに、少し強く君の手を握った。こうして僕らはまた手を繋ぎ合えたのだ。僕らのルールは変わらない。

「お父さんにとってはさ…」

 白く曇る君の吐息が、温かく僕の背中に溶ける。

「お父さんにとっては、お兄ちゃんは息子で、私は娘なんだよね」

「……そうだな」

「それも、そんな当たり前のことも変わっちゃうのかなって、思ってさ」

 たとえば、時間というものが止まってくれるというのなら。
 たぶん、僕らは今、一番都合のいい時間を生きている。僕らだけで僕らの世界を動かし、誰とも繋がらないまま構築される生活。けれど、それは否応なしに終わることが決められている。それがつまり、この道の先にある行き止まりというものだ。
 確かに、僕らは3年前のあの日に約束をした。君が帰ってくる、それを合図に僕らはこの世界を終わらせると。けれど、それは僕らの世界が終わると同時に、誰かの世界に繋がるということだった。繋がった先にある世界だって動いているし、僕らだって勝手気ままに動き回るだろう。その時、繋がられてしまった世界は、今まで通りに動き続けることが出来るだろうか。
 僕らの世界は、正常ではないというのに。

「変わっちまうだろ、たぶん――いや、十中八九な」

「そう、だよね」

 時間が止まってくれるなら、誰も傷つかないまま僕らの世界は続いてくれる。それは素晴らしいことだと思う。結果的に、結末的に。
 だけど。

「変わるよ。それはしょうがないだろ。それに、これが俺たちの望んだことだろ?」

 だけど、僕は暮れない夕暮れよりも、こうして流れ続ける夜の川を眺めていたい。変わり続ける景色の中を、君とゆっくり歩いていたい。

「それはそうだけど…」

「怖いか?」

「……うん。すごく怖い」

 君の顔が、ぎゅっと背中に押し付けられるのが分かる。怖いだろう。僕だって怖い。けれど、だからといって逃げるわけにはいかないんだ。

「言いたくないよ。あんなお父さん見ちゃったら、私、言えない」

 君が、僕の手を強く握り締める。

「……じゃあ、別れるか」

「えっ?」

 掠れた声が、洩れた。
 僕の言葉にも驚いたんだろうし、離れてしまった手にも驚いたんだろう。君がビクリと体を震わせる。

「別れるって、そんな!」

「でも、そういうことだろ。このままでしかいられないなら、終わりだ」

「ちょっ、お兄ちゃん、本気で言ってるの!?」

 君の声を無視して、ポケットから無理矢理に君の手を引きずり出した。そのまま僕は君に向き直る。

「本気だよ」

 肩を掴まれた君の瞳は不安げに揺れていた。泣き出してしまうんじゃないか、って、そんな風にも見えた。

「父さんを傷つけたくない? 今さら何を言ってんだよ!」

「だって、お父さんを裏切ることになっちゃうんだよ? なによ、お兄ちゃんは何も感じないの!?」

「裏切る? 俺らが?」

「そうよ! お父さんにとっては、私たちはただの兄妹なのよ! それを…!」

「じゃあ――っ!」

 君の言葉を、強引に遮った。

「じゃあ、今の俺らはなんだよ。こうしていること自体が、もう既に裏切りだろうが」

「――っ!」

 君が、ぐっと息を呑んだのが分かった。
 目を逸らせてきたよ、僕たちは。自分勝手な罪の意識だけを成長させて、確かに傷つけてきた人たちだけに罪を感じて。
 でも、傷つけているんだ。
 知らないから裏切っていないなんて、誰が言えるだろう。

「背負わなくちゃ前に進めない罪だって、ある」

 随分と長く、吐息が夜を曇らせた気がした。

「背負いたくないなら、何もかも無かったことにするしかない。始まらなかった。そう言い切らなくちゃならない」

 言葉が、君を霞ませる。

「でも、このままでいたいんだろ? この我が侭を貫きたいんだろ?」

「…………」

 君は何も言わなかった。言えなかった、という方が正しいかもしれない。唇を噛んだまま、君はそっと目を伏せた。急に近くなる水音と、風が草を撫でる声。
 全てが変わるだろう。こうして耳に届くいくつもの音も、君の手の冷たさも、僕らのルールだってもしかしたら変わってしまうかもしれない。僕自身が変わってしまったっておかしくない。
 それでも世界は続くのだ。
 僕が、僕らが、この世界を覚えている限り。

「うん。……ちゃんと、言おうか」

 君がゆっくりと顔を上げた。

「あの時、ちゃんと分かってたのにね。それに、今回のことは私が言い出したのに。……私が間違ってたよ」

 そう言って、クスリと笑う。夜を溶かす君の笑い声。その言葉にホッとして、僕は君に微笑み返した。

「間違ってねぇよ。どちらかと言えば、正しい」

「あはは、そうだね。無茶苦茶なのはお兄ちゃんの方だよ!」

「はっ! でも、今ので納得しちまうおまえ程じゃない」

「なにそれぇ!」

 頬をふくらませる君の頭を、いつものようにぽんぽんと叩いてやる。そのままくしゃっと撫でてやると、君が嬉しそうに目を細めた。

「もう、子供扱いしないでっ」

「してねぇよ」

 そのままおでこにキスをしてやると、君は余計にふくれっ面になる。

「バカっ」

 ぽかぽかと繰り出される反撃の拳を心地よく胸に受け止めながら、僕は満天の星空を仰いだ。オリオン、カシオペヤ、北斗七星。シリウスは力強く夜を照らし、月は欠け落ちた光を放ち続ける。

「――――」

 君が僕の名前を呼ぶ。3年前より、確かに大人っぽくなった君の声。僕は君の背中に手を回し、君はその手を掴んでかかとを上げる。
 それが何を紛らわす行為であっても。
 瞼を閉じる行為であっても。
 僕らは前を見据えて歩き続ける。

 明日という時間が、もうすぐ夜を越えてやってくる。


      ◆



 >>中途半端に終わる(汗)




◆あとがき◆
 本当は、このあと色々あるんです。
 二人とも、ちゃんと考えて出した答えのはずなのにやっぱり悩んで、壁にぶち当たって、時には互いを責めたり凭れ掛かってしまったり、あるいは一人で泣いたりだとか。色々あるんです。あるんですけど、書きません。
 えー、本当は完成させて載っけようかなーとも思ったんですが、結局今の俺が書くべきものはこれではないという判断からやめました。それにこれは、未完であるからこそ気に入っている、というのもありますし。続きを読みたいなー、という人は続きを頭の中で考えてください。そうされることでこの作品は完成するのです。
 とかとか偉そうなことを言ってますが、結局は言い訳。
 あー、言い訳をしない人生を歩みたいものですわん。