例えば、と頭の中で仮定する。
 ゆっくりと落ちていく釣瓶(つるべ)。
 からからと音を立てる滑車と、その車輪をすべる粗悪な荒縄。
 それは、どこまでも深い。
 深く、暗い。
 手を伸ばせばその手を掴まれそうな、そんな濃厚な闇の中で、ひとつ。

 脳の描く荒野の中で、既に枯れた井戸が掘られる。



Side Story of Melty Blood
『Moonscape / 永瀬月臣』



 しんと耳につく静寂だった。己の心音すら聞こえそうだったが、隆一の鼓膜を震わせる音は一つとしてそこになかった。月が冷たい光を放つ夜。時刻は子の刻をとうに回っている。歩きなれた細い道は街灯に照らされた所為で妙に長く、左右に続く石垣はせりたった崖を思い出させた。
 まるで、黄泉比良坂(よもつひらさか)。
 誰も彼もがみな眠りについている。けれどそれは、誰も彼もが息を殺しているということだ。闇の中で息を潜め、生者の肉を求める悪鬼とその誰か達とは酷く近い。振り返ればそこに異形のものがいる気がして、隆一は思わず振り返った。けれど、当然そこには何も無い。あるのは触れることが出来そうなほどの闇夜と、空。
 そこで我に返る。

 嗚呼、悪鬼とは莫迦(ばか)な喩えだ。
 悪鬼とは、まさに自分のことに他ならないというのに。

 ぞぶり、という感触が隆一の右手に蘇る。
 未だ麻痺したままの右手。ぶらりと垂れ下がった彼の右手は、塗りこめられた何かの所為で夜の闇に溶け込んでいた。その右手が、麻痺したはずの彼の右手が、びくり、と生き物のように脈づいた。それは何かに怯えているようにも、歓喜に打ち震えているようにも見えた。ただ暗黒の中で蠢いている。
 たった数分前の出来事。その感触は、彼の人生の中で初めて触れたモノだった。確かに、隆一はそれと近い行為に及んだことはある。肉を裂くという事。隆一だけではなく誰だって経験したことだろう。生きるとは、つまりそういうことだ。
 しかし、生きた肉と死肉とは根本が違う。彼の手は呆気ないほどに生きた女の首筋を掻き切った。頚動脈を切断し、そのまま気道まで断ち切った。血液を撒き散らしながらひゅうひゅうと音を立てるソレは、どこか機械じみていて、それでいて間違いなく肉塊だった。心停止していなかったなら、あるいはそれをまだ人間と呼べたか知れない。だが、悉く解体されたソレは今や否定も許さぬほどの死骸だった。
 何故、そのような行為に及んだのか。
 隆一はその答を知らなかった。問いも答えもないままに、彼の右手は虐殺という行為に及んでいた。かつて人間だったソレを、頸を掻き切るだけでは飽き足らないとでもいうようにいくつもの部分(パーツ)に解体する。それが済んだ頃には、隆一の右手は麻痺し、彼は自分が何をしでかしたのかを思い知った。腕を染める赤黒さが、現実から逃避することすら許さない。
 ただ、コンビニに行こうと思っただけだった。明日は部活の朝練で早く登校しなければならない。そうなると、登校途中でいつもの雑誌を立ち読みすることは出来ないだろう。だから、0時を過ぎてはいたけれど今夜のうちに読んでしまおうと、そう思っただけだった。そんな些細なきっかけが、このような重大な結末を導いていた。
 真夜中とはいえ、行為に及んだ路地裏からここまで1人の人間にも会わなかった。それもそうだろう。今、この街には一つの噂が充満している。

 曰く、あの殺人鬼が帰ってきた。
 曰く、その者は、およそ人とは思えぬ鮮やかさで人を殺める。

 誰が見たわけでもない。誰が殺されたわけでもない。
 それでもその噂は日に日に真実味を帯びていった。一昨日は鉄橋の下。昨日は公園。日々架空の人間が死に、殺人鬼は架空から現実へと柵を越える。そして今夜は――あの路地裏で凶行が起こった。
 思考が停止していただけで五感は正常に機能し続け、脳は全てを鮮明に記憶していた。その女を見た瞬間、彼の理性は凍結し、狂気と暴力とが全てとなった。
 路地裏への入り口。その正面で彼とその女はすれ違う。けれど、その時の彼にはそれだけで十分だった。すれ違いざまに女の襟首を掴み取り、片手で狂気の舞台へと投げ飛ばした。その距離、ゆうに5間。10メートルもの距離は、それでも女にとっては一瞬だっただろう。しかし、人間としての限界を狂気で凌駕した隆一にとって、それはいくらか長すぎた。女が地面に叩きつけられるまでなど、彼には1秒だって待てなかった。だから、考える前に彼の足は地を蹴っていた。もとより思考は停止している。
 まさに、疾風。
 彼が自ら投げ飛ばし、未だ空を舞っている女の体に追いついた。その速さは既に人間のそれではない。その速度を保ったまま彼は女の首を掴み、あろうことかそこから更に加速した。女の背後にはコンクリート。躊躇うことなく、渾身の力を以って叩きつける。

「――っ」

 形容できない声と、形容できない鈍い音。女の首の骨はそれだけで粉々に砕け散る。その感触を噛み締めながら手を離すと、支えを失った女の頭は不自然な方向にコクリと傾いだ。けれど、それではまだ足りない。それだけでは足らなすぎる。
 だから、右手を振り上げた。決して振り下ろすためではない。ただ振り上げ、一方的な暴力で女の首を掻き切った。その手刀は今や鋭利なナイフに妥当する。隆一は停止した思考と支配された感情の隅で驚いていた。この殺戮が、これから続くであろう解体が、全く完全に彼の右手のみで行われるという現実に。
 理性を取り戻したときには、隆一はその残骸に背を向けていた。背後には、もうどの部分かも判別できないほどに細切れにされた無限の肉塊。不謹慎だが、彼にはそれが少しだけありがたかった。背を向けていれば、路地裏を染め上げる夥しい量の鮮血を見ないで済む。そして、彼はその場所を去った。殺人鬼は罪悪感など抱かない。
 それでも、涙が流れた。
 今でもまだ流れ続けている。呼吸が嗚咽に変わることはない。ただ涙腺が開放され、止め処なく雫は頬を塗らした。感情はとうに冷め切っているというのに、涙だけはいつまでも溢れ続けた。一生分泣いてしまうのではないかと、枯れてしまうのではないかと恐ろしくなってしまうほどに涙はずっと流れ続けた。

 何故、そのような行為に及んだのか。

 はっきりとではないけれど、今なら彼にも答えが分かる。彼の中に強制的に入り込んできた『何か』。歪んだ欲望と殺人衝動だけが詰め込まれた黒い袋。彼の肉体では扱いきれないほどの力を与えるその袋には、ひとつだけ名前がついていた。

 その名は――タタリ。

 別名をワラキアの夜という。今や御伽噺となった魔術師という血族。その魔術師が更に神話めいた吸血鬼の力を手に入れていた。その力の一端が隆一の中に流れ込み、彼のカラダを、彼のココロを奪い去った。もとより人間を遥かに超える異形の力だ。正真正銘人間である彼の自分(からだ)が、その暴力に勝てるはずもない。
 見上げれば、真円に近い純白の月。
 手を伸ばしても届きそうにない青い光と、手を伸ばせば掴めそうな背後の闇。
 彼は識っていた。彼が、満月に呼び出されぬ失敗作だということを識っていた。だから悔しかった。だから悲しかった。ただ暗闇に近づいたというだけで、彼は全てを失っていた。今までの人生も、今までの道徳も、17年という月日を共に歩んできた彼のこの右手すらも。そして、これからも続くはずだった彼の生命すらが失われる運命にあることも、闇に掴まれた時点で識ってしまっていた。

「そう、おまえは今宵、この場所で死ぬ」

 纏わりつくような夜の闇。
 真円に近い楕円の月。

 歪んだ青い光の下に。


 本物の殺人鬼が立っていた。


      ◆


「そう、おまえは今宵、この場所で死ぬ」

 月の下に立つ殺人鬼は、口元に歪んだ微笑みを湛えていた。
 不完全な月の下。
 満ちることを知らぬ月。
 それ故に、その姿は完全であるように思われた。
 そう。彼こそが、本来呼び出されるべき完璧な殺人鬼だった。

「誰だ、アンタ」

 それでも、隆一は怯まなかった。
 否、彼は既に恐怖という感情を忘れている。彼の心の中にはおよそ人間が持つべき感情というものが欠如していた。カタチは人間。その実、詰められているのは殺人衝動という一点のみ。隆一はゆっくりと身構える。
 そのことを看破していたのだろうか。殺人鬼は隆一の言葉に驚くこともなく、青白い光の下で不敵な笑みを浮かべていた。

「まぁ、そう急くな。まだ時間はたっぷりとある。急いて自ら命を短くすることもあるまい」

「質問に答えろ。俺は、アンタが誰かって訊いてるんだ」

「ふん。分かっていても五感を通さねば理解できぬタイプか。なるほど、あの男と似ているな。闇に掴まれるのも納得できる」

「耳か頭が悪いのか? 俺は、テメェが誰かって訊いてるんだ!」

 そして、走り出した。加速など2歩で済ませている。男まで約15メートル。今の彼の迅さならあと1秒とかかるまい。
 麻痺した右手を振り上げる。麻痺しているが、それは単に彼の命令を拒むだけだ。彼の右手はとうに器官という枠を外れている。凶器。いや、むしろそれは獰猛な肉食獣そのものに近い。
 男は動かなかった。相変わらず口元を歪に歪めているだけだ。隆一の右手が男の心臓をめがけて迸る。殺す。ただその一点のみだ。ここでこの男を殺さなければ、今夜殺されるのは彼なのだ。だから殺す。泣いた過去も全て捨てて、その一点のみに集中する。

 そぶ、り。

 右手に、あの感触が蘇った。肉を牙にかける感触。刃と化した彼の右手は男の肉を裂き貫く。肉を裂き、肋骨を抉り、脈打つ心臓を細切れにする。

「……ほう」

 けれど、男は感嘆の声を漏らしてた。能力の優越を噛み締めながら、敵の力の在り方を眺めていた。
 赤黒く染められた隆一の右手に、新たな鮮血が塗りこめられる。しかし、それだけだった。男の心臓を抉るはずだった彼の右手は、僅かに肉を攫っただけで夜の空に突き出されていた。タン、という軽い男の靴音。男は弾丸めいた隆一の突進を横に数メートル飛ぶだけでかわしていた。

「ふむ、なかなかの能力だな。左腕は使い物にならんか」

「テメェ…」

 隆一は静かに戦慄した。あの速さは異常だ。隆一は確かに男の心臓を貫いたはずだった。いや、心臓を貫けなくても左胸にその右手を突き立てていたはずだった。事実、彼は確かに見ていたのだ。彼の指先が確かに静止したままの男の服――左胸の部分に触れたことを。
 だが、現実は違った。男の左胸に異常はない。肉体どころか、刃物と化している隆一の右手が触れた衣服にすら全く異常が見当たらなかった。現実は、男の左腕を深く抉っただけ。致命傷には至らない。
 つまり、触れさせてもらったのだ。
 力の差を見せ付けるために、男は自ら死の瀬戸際に立ったのだ。――彼の、隆一の能力すら知らないまま。

「おまえ、名は?」

 殺人鬼が楽しげに質問する。それは先ほど隆一が投げつけた質問でもある。
 先に名を名乗れと言いたかったが、彼にはそれを言うことが出来なかった。圧倒的な力の差。彼が獅子だとすれば、目の前で悦しげに笑っている男は幻獣の類だろう。男の機嫌を損なうことは彼の死に直結する。それは恐怖の感情から出た答ではなく、生命としての本能がはじき出した回答だった。

「麻守、隆一」

 憎々しげにそう答えると、殺人鬼は初めてその微笑を停止した。

「あさもり……麻守。――ふん、おそらくは魔狩の血か。それならばその起源も頷ける」

「起源、だと?」

 彼の言葉に、殺人鬼に微笑が戻る。

「そうだ。全ての個は固有の起源に繋がっている。魔術師という輩は随分とそれに拘るようだが、俺も少々それに興味を持っていてな。興味深い人間はソレを確認してから殺すことにしているんだ」

「くっ――」

 男の語尾。その明確な言葉以上に、殺気は塊となって彼を襲う。

「食う、なんていう起源を持つ者もいると聞くが、『裂く』という起源を持つ男は初めてだ」

 裂く、という単語に、先ほどの凶行の記憶が蘇る。
 なるほど、それは確かに頷ける。
 さっきの女は、刃物など使わずにこの右で残らず裂き散らしたのだから。

「じゃあ、アンタの起源はなんだっていうんだ」

 それは愚問というものだっただろう。
 そんなものは出会った瞬間からとうに脳が理解している。
 目の前の男は、その起源を極限まで特化させただけの男だ。
 それ故に、この場において彼は男に数段劣る。

「俺の名は、七夜志貴。遠野志貴の危惧の具現。そして――殺す、という起源を持つ者だ」

 それが『殺し合い』の合図だった。
 隆一は深く重心を落とし、膝を使って志貴へと跳ねる。眉間へと放たれた隆一の腕。志貴は右手をポケットに突っ込んだまま体を倒し、背中から落ちることで凶器をかわした。もちろん、志貴は攻撃をかわすだけで終わらない。倒れる遠心力を味方につけて、隆一の鳩尾をあらん限りの力で蹴り飛ばした。オーバーヘッドで蹴り飛ばされた隆一は、そのままブロック塀へと叩きつけられる。
 いや、叩きつけられる寸前で、隆一は未だ未使用だった左手を開放した。縦に薙がれた左手は、それが薄い紙であるかのようにコンクリートを縦に裂く。続けて右手。2本の決定的な亀裂を負ったブロック塀は、ただの衝撃緩衝材へと姿を変えた。一枚の板となった石の壁に、空中で身を反転した隆一が着地する。衝撃を弾き返すことなく倒れる壁。その倒れかけた壁を蹴って、隆一は背を向けている殺人鬼へと再度強襲した。狙うは首。かわされることも考慮して、肩甲骨に沿って袈裟に薙ぐ。

 ――ザンッ

 肉を断つ音。
 しかし、切り払われたのは隆一の右手。
 志貴の手には銀色のナイフが握られていた。どんな速さで繰り出されたのだろう。妖しく光るその刀身には一滴の血液すらこびりつかない。
 隆一の驚きはそれだけではない。腕という質量に音速なみの速度を乗せたのだ。どんな名刀だろうと砕く力を乗せ、さらに彼の腕は今や鋼と同じ硬度を持っている。その腕の、遠心力が最もかかる手首から、たかがナイフで切り落とすとはいったいどんな手品なのか。

「クソっ――」

 着地と同時に後ろへと飛んで距離をとる。その距離約10メートル。2度目の着地で足の筋肉が悲鳴をあげる。

「無理をするな。数分前までただの人間だったのだ。あまり無理をすると全身の筋肉がイカレるぞ、その右腕のように」

「五月蝿い。アンタなんかに殺されるよりはよっぽどマシだ」

「その体たらくでまだ吼えるか、駄作」

 今度は志貴の体が沈む。隆一は反射的に身構えたが、彼の五感が働いた時には既に志貴は視界の外へと消えていた。足音は聞こえるがそんなものに意味はない。志貴の動きは音などより数段速い。
 第6感を動員して、手首のない右手で頭上を薙いだ。ズッ――っという感覚が、彼が肘先を失ったことを教えている。

「ッくしょぉぉぉ!!!」

 そこから、先ほどの焼き直しとでも言うように頭上を蹴った。空中で回転しながら放たれる彼のつま先は、放たれた矢よりも速く志貴の体へと放たれる。

「ふん」

 それでも志貴は鼻を鳴らしただけだった。右手に握られた彼のナイフは、矢じりとなった隆一の爪先から踵までをいとも容易く両断する。

「がぁぁぁぁ!!」

 麻痺していた右手ならいい。だが、彼の右足は未だ神経と接続している。焼けるような痛みは脳を穿つように大脳へと直撃し、余計な思考がすべて完全にカットされた。殺人鬼がその隙を見逃すはずもなく、着地と同時に体を捻って隆一の左腕を横に一閃する。

「――っ!!!」

 既に、喚く声すら忘れている。
 肘までしかない右腕を腰の回転で振り回す。
 その足掻きすら志貴には通じず、男は軽い音を立てて後ろへと飛んだ。

「なかなかどうして、やるようだ」

 嘲笑うように志貴は笑った。
 その言葉は本心ではない。到底、賛辞などとは受け取れない。

「この、野郎ッ」

 ギリっと、軋んだ音を立てて奥歯を噛んだ。
 志貴は挑発しているのだ。
 もっと楽しませろ、と。
 もっと死の狭間へ追いやってくれ、と。
 右腕を肘から失い、左腕を肩下から失い、右足はひづめのように縦に裂かれている隆一に、それでも殺し合いを望んでいる。
 それはまさに狂気だった。
 この男は酷く危うい。
 『殺す』ことに特化している故に、『殺される』ことをなんとも思っていない。
 志貴にとって、殺されることは殺すことと等価――あるいはそれ以下なのだろう。
 だからこそ勝機があり、だからこそ勝機がない。

「そろそろ終わりにしよう。あまり原型を崩してしまうと、人を殺す、ということに興ざめしそうだ」

 ――っ。
 その志貴の目に、隆一の感情が凍りついた。
 それはどこまでも冷たい目だった。絶対零度の視線。凍てついた殺気を宿す瞳が、隆一の感情を凍らせる。

「では、行くぞ」

(待て)

 逆手にナイフを構える志貴に、頭の隅で誰かが叫ぶ。

「安心しろ、死ぬ苦しみなど与えてはやらん」

(待ってくれ)

 それが誰かも分からぬうちに、殺人鬼は深く重心を落とした。

「せめて安らかに、――華々しく散るといい」

(待ってくれ! 俺は――)

 叫びは決して声にならない。
 忘れてしまった誰かの声。
 荒野は決して果てを知らず、井戸は暗く深かった。
 その風景に立ち竦む男は、誰だったか。
 その男は、誰だったか。


「――極彩と散れ」


 冷たい死を運ぶ風が、音と共に駆け抜ける。


      ◆


 例えば、と仮定する。
 ゆっくりと落ちていく釣瓶(つるべ)。
 からからと音を立てる滑車と、その車輪をすべる粗悪な荒縄。
 それは、どこまでも深い。
 深く、暗い。
 手を伸ばせばその手を掴まれそうな、そんな濃厚な闇の中で、ひとつ。

 脳の描く荒野の中で、既に枯れた井戸が掘られる。

 枯れ井戸。
 あの女を見た瞬間、俺の中にその井戸は掘られていた。
 それまでは確かにその場所は豊穣な土地だったのだ。
 美しいとは言えなかったかもしれないけれど、それでもそこには様々な生命が息づいていた。
 けれど。
 井戸が掘られた瞬間、全てが枯れ、全てが腐り落ちた。
 元から枯れていたわけではない。
 しかし、そう錯覚するに十分な早さで水は飲み尽くされたのだ。
 飲み。
 飲み。
 汲み上げては、飲み。
 それでも過剰に飲んだそれは、飲んだそばから目より零れる。

 ワラキアとは、そういう男だった。

 一瞬にして枯れ尽くした。
 木々は感情。大地は理想。
 その全てが根こそぎ奪われ、待っていたのは果てしない荒野と枯れ井戸だった。
 得られたのは果てしなさ。
 そして、奴の双眸から零れ落ちた純粋なる殺人衝動。
 大地は枯れ。
 木々は腐り。
 花は腐臭を撒き散らして自らの腐臭で腐り落ちる。

 それが、悲しかった。
 感情を全て奪われてなお、悲しかった。
 満月の夜に生まれていれば、おそらくそんな感情すら湧かなかっただろう。
 しかし、自分が、ワラキアが不完全であるが故に、途方もなく悲しかった。

 死にたい、と思った。
 けれど、それ以上に殺されたくはないと思った。
 だから殺した。
 だから殺した。
 でも、それはたぶん違う。
 麻守隆一の願いは、たぶん違う。
 言い訳させてもらえば、つまりは、そう。

 人を殺せば、そうすれば。

 自分も人間に戻れると。



 人間らしく死ねると、そう思ったから。


      ◆


「――極彩と散れ」

 スローモーションに見えた。
 志貴の動きは速い。人間の視覚で負うには10倍は速すぎる。
 だから、その動きを目で追えば脳も10倍の速さで機能する。
 しかし、それでは志貴に勝れない。
 同じ速さではこの男に勝れない。
 脳は加熱するほど回転する。
 10倍、20倍と速度を上げる。

 故に、世界は10倍以上遅く動いた。

(死にたくない)

 高速回転の脳の中で、僅かな理性が必死に叫ぶ。

(このまま、死にたくない)

 無駄だと知りながら、それでも祈るように叫び続ける。

(死にたくない、死にたくない! このままでは死にきれない!)

 人間として死にたかった。
 後悔しながら、誰かに謝りながら、誰かに感謝しながら死にたかった。
 けれど、それは既に遅すぎた。
 彼の全てはワラキアに飲みつくされてしまっていた。

 何もつかめない右手。
 振り回すことすらできない左手。
 如何にワラキアの力を使おうと、志貴の前では装甲は紙。
 命など既に握られている。

 だから、せめて人間らしく死にたかった。
 死ねないのなら、目の前の男を殺したかった。
 流せるならば泣きたいくらい、目の前の男を殺したかった。
 だが、志貴の速さはそんな願いすら叶えまい。

(殺したい)

 叫んでいた言葉が変わる。

(あの男を、殺したい)

 何度も叫んでそれに気づく。

(あの男を殺したいけど、でも――)

 それに気づいたからこそ、大事なことに気がついた。


(でも、そんなことしか考えられない『俺』をまず殺したい!)


 既に手遅れだったのだ。
 どんなに願おうと。
 どんなに祈ろうと。
 殺人衝動しか持たない彼は、どう足掻いても昔の隆一(じぶん)に戻れない。

『全ての個は固有の起源に繋がっている』

 だから、せめてそうするしかなかった。

『食う、なんていう起源を持つ者もいると聞くが、』

 人間らしく死ぬというのなら。
 自分らしく死にたいというのなら。
 個として。
 世界に含まれたひとつの個として。
 自己として、その命を全うしたいというのなら!

 ――俺の、起源。

『『裂く』という起源を持つ男は初めてだ』


(裂くしか、ないじゃないか!!)


 逆手に持った志貴のナイフが、闇夜と共に隆一の体を切り払う。
 一閃ではない。
 無駄なく冷酷に振るわれるナイフは、彼の体を17の肉に解体する。

 ――ザン!

 左の脇腹から、左肩口へ。(まだ…ッ!)

 ――ザン!

 頭頂から、右目を通って右頬へ。(まだだ!)

 ――ザン!

 右腕を根元から伐採(まだ遠いッ!)

 ――ザン!

 そのまま、右胸から左脇腹へ――

(……今だッ!!)

「裂けろォッ!!!」



 ――――――。



 歪んだ月のその下に。
 歪んだ影絵が描かれる。


      ◆


「か、――は」

 先に血を吐いたのは、果たしてどちらだったのか。
 もちろん、今となってはそれはどうでもいことだろう。
 夥しく撒き散らされた、甘い紅。
 どちらもどれが吐血か分からぬほど血を流しすぎている。

「き、さま……っ!」

 苦悶の声。
 白い刃物に突き立てられたその体。
 20をゆうに超える数の刃物を突き立てられたまま、七夜志貴は再び吐血した。

「まさ、か、このような、形で、起源へと接近、するなど……!!」

 志貴の体を射抜いた凶器。
 いや、それは狂気と言って差し支えないかもしれない。
 純白。
 純白の、狂気。
 血にまみれた無垢の狂気は、月の光に青く光る。

 事実だけを述べるならば。
 麻守隆一の白い肋骨は、悉く七夜志貴の体を貫通していた。

「俺ではなく、己を裂くとは、な……」

 絶命する寸前。
 そう吐き出して、それでも七夜志貴はナイフを振るった。
 隆一はあと数秒で死ぬ。
 それも当然。自らの肉を切り裂き、肺も心臓も捨てて肋骨を凶器としたのだ。
 死なないわけがない。
 死ねないわけがない。
 しかし、それは殺されるということではなかった。
 故に。
 七夜志貴は、起源に従ってナイフを振るった。
 殺さなければ。
 殺さなければ、七夜志貴に意味はない。

 ストン、と。

 殺人鬼のナイフは、吸い込まれるように隆一の死の点を貫いた。


      ◆


 胸の死の点にナイフを受け。
 それでも麻守隆一は月を見ていた。
 死の点を突かれた瞬間に気がついた。奴はその瞬間に全てのものに死を与える。
 ならば、今隆一が月を見上げているこの時間は、死への時間ではなく死の余韻だった。
 その死の余韻すら、彼は月を見上げることに費やした。

 全てが枯れ落ちた果てしない荒野。
 あれは、月の上の風景だったか。

 ゆっくりと意識が落ちていく。
 釣瓶となり、暗い井戸へと落ちてく。
 果たしてその先に水はあるだろうか。

 そう考えて、苦笑する。

 そこには何もない。
 溶け出した鮮血以外には、何も残っていないだろう。


      ◆


 満月が、迫っていた。



 >>了。




◆あとがき◆
 メルブラのサイドストーリーです。やってない人にはさっぱりかと。
 とりあえず奈須きのこの空気が出せていれば満足です。出てるでしょうか。

 もしかしたら、ここ2年くらいの間で唯一の三人称かもしれない。
 ずーっと俺やら僕やら私やらあたしやらで書いてきたもので。
 戦闘シーンって三人称の方が書きやすいですよね。