手にしたものが何であれ、僕らがその事実を捨てることは出来ない。
 役に立たなくとも、何の得にもならなくとも、僕らは事実としてそれを拾い上げた。
 そのことを、僕らは否定できない。
 否定すれば、僕らは僕ら自身を保てない。
 時にそれは後悔を呼ぶだろう。
 終わらないと錯覚するほどの痛みすら、携えてくることもあるだろう。
 けれど、それが僕らであり、誰かと決定的に違うところでもある。
 後悔を抱え。
 終わらない痛みを抱え。

 それでも僕らは、歩いてゆくから。



『LINE / 永瀬月臣』



 屋上には、風だけが吹いていた。

 突き抜けるほどの青空と、地面を覆う網目状の影。夏はゆっくりと近づいていて、南東から吹く暖かい風は僕の頬を柔らかく撫でていた。太陽は真南から少しだけ西に移り、温かな午後の日差しを惜しげもなく町中に注いでいる。眠気すら誘う初夏の空の下、屋上には僕以外の誰の姿も見られない。
 コンクリートと、金網と、青空と、僕。
 閑散としたこの景色も当然のことだった。時刻はじき午後1時半。昼休みの終わりを告げるチャイムはとうに鳴り、誰もが黒板に向かって退屈な授業を受けている。あるいは校庭を走り回り、実験器具を相手に奮闘している。午後1時半。屋上は忘れ去られ、僕もまた同じように忘れ去られていた。まるでこの風のように、あの日消えた彼女のように。

「おい、また桐野のやつ包帯巻いてるぜ」

 教室は狭い。それは物理的にも感覚的にも。
 会いたくない奴が簡単に机の脇を通り過ぎる。聞こえなくても良い言葉が頭の上を不用意に飛び交う。目を瞑ろうと耳を塞ごうと、その距離は根本的に変わることはない。触れるか触れないかという距離を置いて、結局誰とも触れ合わないまま僕らは教室で息をする。
 二月を目前にした冷たい空気。
 網膜に白く焼きつく太陽の光。
 その日、窒息しそうなほどの言葉の渦に、そんな言葉が混じっていた。

「またかよ。今月でもう2度目だろ? ヤバイんじゃないか?」

 誰のともつかない級友の言葉。その言葉は、少しだけ僕の琴線に触れる。
 僕は机から顔を上げ、静かに窓際の席へと視線を投げた。窓際の列の後ろから2番目。真ん中の列最後尾の僕の席からは、肩まである髪に翳る彼女の横顔がよく見える。
 ――桐野、椿。
 級友の声が聞こえているのかいないのか、彼女はいつもどおりの冷たい視線で文庫本の文字を追っていた。ブックカバーで本のタイトルは分からない。彼女はまるで何かの彫像のように教室の隅に座っている。ただ時折捲られるページだけが、時が止まっているかのような彼女の姿を人間として僕の目に映らせていた。桐野から本を奪えば今にも時が止まりそうだ。
 その本を持つ左手には、真っ白い包帯が巻かれている。

「クラスメイトに自殺されるってさぁ…。俺らの所為にされたらどうするよ?」

 包帯に負けないほど白い、桐野の細く華奢な手首。
 僕は想像する。明かりの消えた暗い部屋。月明かりだけが差し込む青い窓際。
 昨夜、彼女はその白い手首を自ら深紅に染め上げた。月明かりの下、そっと剃刀で白い肉を裂く桐野の姿を思い浮かべる。月光に浮かび上がる陶磁器のような彼女の手首と、そこにひっそりと咲く深紅の椿。
 そして、椿はひっそりと舞い落ちる。
 ひとつ、またひとつ。銀色の雪原に椿が落ちる。

 静かに、本当に静かに。
 頭の中で蠢く闇と、闇と。

 いつの間にか、桐野が僕の視線に気づいていた。僕は彼女の視線に捕らえられ、僕はされるがままに彼女を見ていた。闇は蠢くことを止めている。硝子細工のような彼女の双眸が、時の止まった世界へと僕の理性を引きずり込む。
 遠くなる声。凍りつく思考。消えていく人間達と、残される影。

 それも、いいかもしれない。

 そう思った途端、不覚にも僕は桐野に向かって微笑んでしまっていた。
 しまったと思ってももう遅い。思い出したかのように、時間はゆっくりと進み始めてしまう。僕にはなす術もなく、彼女は無関心に僕からその視線を外していた。時計は正確に1秒を刻んでいる。桐野の視線は再び文字列へと注がれている。
 僕は目を閉じ、ゆっくりと机に覆いかぶさった。
 瞼の裏の暗闇ですら時間という概念に縛られていた。僕はこの呪縛から逃れられず、彼女はいつだってその呪縛の外側に居た。
 急に羨ましくなる。桐野には以前から興味があったが、今のは決定的だった。僕はそれが欲しい。彼女の作る時の止まった世界が欲しい。


 考えてみれば、そうだ。
 僕が彼女に本当に興味を持ったのは、間違いなくその瞬間だったんだ。


      ◆


「話って、なに?」

 桐野は授業中に発言するのと同じような、抑揚のない平板な声でそう言った。
 彼女の世界に引きずり込まれてから、3日。2時間目と3時間目の間の休み時間を利用して、僕は桐野を教室前の廊下へと呼び出した。僕と桐野という珍しい組み合わせに、前を通る大抵の人間が興味深そうに僕らのことを眺めていく。

「いや、特には。ちょっと桐野と話してみたくなってさ」

 僕は正直に言葉を放った。特に用があったわけではない。ただ単に、彼女に興味があったから呼び出した。それだけのことだ。
 けれど、それは桐野にとって迷惑なだけだったらしい。

「……そう。でも、用がないなら戻るわ。私は貴方にあまり興味がないもの」

 そのまま教室へと戻ろうとする。

「ちょ、待ってよ」

 僕は慌てて桐野の腕を握った。左手だ。未だ包帯が巻かれたままの彼女の手首を、僕はとっさに握っていた。

「――んっ!」

 短い悲鳴。おそらく、まだ傷が塞がっていないのだろう。滅多に表情の崩れない桐野の貌(かお)が、珍しく手首の痛みに歪む。
 けれど、僕は手を離さなかった。

「痛いから、離して」
「どうして手首を切るの?」

 言葉はほぼ同時だった。

「――っ!」

 桐野が僕を睨みつける。それでも僕は手を離さず、僕を睨む彼女の瞳を見つめていた。

「どうして、手首を切るの?」

 僕はもう一度問いかけた。ゆっくりと、今度は桐野の耳に顔を近づけて、囁くように。

「それが、訊きたかったの?」

 問い返すだけで、桐野は僕の質問に答えなかった。代わりに僕の手を無理矢理に手首から引き剥がす。そうされてからようやく、僕は自分から掴んでいた手の力を抜いた。開放された左手首を、桐野は胸の前で慈しむようにそっと撫でる。

「なるほど。教えてはくれないわけだ」

 僕が肩をすくめると、桐野はちらりと僕を見てからゆっくりと教室へと踵を返した。
 その途中――。

「教えても良いけど、条件がある」

 桐野は、見惚れるほど優雅に振り返った。

「それだけの暗闇を抱えて、貴方がどうして手首を切らないのか、教えて」

 静かに、闇が蠢いたのが分かった。


      ◆


 屋上には、風だけが吹いていた。

 二月の風は刺すように冷たい。青空と、金網と、北風と、僕ら二人。
 こんな季節では当然だけれど、昼休みの屋上には僕らのほかに誰も居はしなかった。風の当たらない給水塔の陰に移動し、僕らは食堂で買ってきた各々の昼食を膝の上に広げる。
 この場所を望んだのは桐野だった。驚いたことに、桐野はいつもこの場所で昼食を摂っていたらしい。雨の日は流石に教室で食べていたそうだけれど、そうでない日は必ずこの場所に来ているとのことだった。

「他の生徒が来ても、この場所だけは静かだし」

 屋上の死角を選んだ理由は、風除けや日差し除けのためではないらしい。けれど、給水塔は結果的に日陰になり、北風を防いでくれている。この不可思議な二人きりの昼食が続いているのは、偏にこの給水塔のおかげだった。
 そう、僕らの昼食会は今日が初めてではない。
 桐野を廊下に呼び出したその日、意外にも彼女の方から僕を昼食に誘ってきた。級友達の冷やかしを無視して彼女についていくと、彼女は何も言わずにこの場所へと僕を連れてきたのだ。

「こ、ここで食べるの? 寒くない?」
「嫌ならいいわよ。私はここで食べるから」

 そう言われて、誰が教室に戻れるだろう。
 僕はガタガタ震えながらコロッケパンを胃の中に押し込み、冷たいコーヒー牛乳を目を瞑って飲み下した。桐野は何も言わずに黙々と既製の弁当を食べ続け、昼休みの終わりを告げるチャイムと同時に温かい紅茶を飲み終えた。

「午後の授業が始まるわ。行きましょう」

 結局、僕らが初日の昼食会で交わした言葉はそれだけだった。得られた情報は、桐野が人の多いところが苦手なこと。桐野との昼食には温かい飲み物が必須であること。それだけだった。本当に訊きたいことは訊けないまま。

 あれから1ヶ月。
 何も訊けないまま、昼食会は今日まで続いている。

 コロッケパンを齧りながら桐野の表情を窺っても、今日もいつもどおりの彼女だった。玉子焼きを口に運ぶときですら桐野の表情は崩れない。以前、少しくらい彼女の表情を変えさせようと、桐野が紅茶を飲んでいるときに変な顔をして見せたことを思い出す。無反応ならまだしも、まさか無表情に紅茶を吹かれるとは思わなかった。ティッシュで自分の顔を拭きながら、すごく悲しい気持ちになった。

「何?」

 少々桐野を観察しすぎたらしい。彼女が僕の視線を気にして箸を止める。

「いや、なんでもない」
「そう」

 そして、食事は再開された。何の前進もなく、なんの後退もない。現状維持。
 現状維持という意味では、桐野はあれから一度も手首を切らなかった。包帯はもう2週間も前に取れ、今では絆創膏を貼っているだけだった。傷口はとうに塞がっていて、それはあくまで傷跡を隠すためのものでしかない。その上から嵌められた腕時計のベルトは細かったけれど、よく注意して見なければそこに傷があることは分からなかった。
 だけど、僕はその目立たない絆創膏を見るたびにもどかしくなる。
 終業式まであと2週間しかなかった。明日からはテストが始まり、それが終われば試験休みになってしまう。そのまま春休みが来て四月になれば、僕らの昼食会はきっと最初からなかったかのように終わってしまうだろう。1学年に8クラスもある僕らの学校では、桐野と僕が同じクラスになる確率はひどく低い。クラスが変わればたぶん桐野は僕への興味を失うだろう。
 だったら、来年の昼休みもここに通い詰めようか。そう考えて、僕はすぐにその考えを否定した。たぶん無駄だ。桐野が僕を求めない限り、僕らはもう会うことすら出来ないだろう。今の環境が特殊なのだ。日常とはかけ離れた、この屋上のように。

「どうしたの? さっきから考え事ばかりしてる」

 その声に少し驚きながら顔を上げると、そこにはもっと驚くべき状況が待っていた。
 僕の視界を覆う桐野の瞳。鼻先が触れ合うほどの距離。咄嗟に声も出せないくらい近くに桐野の顔があった。突然の出来事に僕は慌てて後退する。

「逃げること、ないと思うけど」

 そんなことを呟きながら、桐野は特に落胆した様子もなく弁当のから揚げを口に運んだ。僕は十分に距離をとってからゆっくりと深呼吸をする。自分がなんで慌てたのかはよく分からなかった。分からないまま、心臓は呼吸に合わせて平静を取り戻してく。
 どうして、桐野は手首を切る?
 どうして、桐野は手首を切らない?
 口にするべきか迷う。口にすれば全てが終わるような気もする。それでも僕の興味はその一点にしか示されない。たぶんそれが、時を止める彼女の秘密であるような気がして……。

 ――待て。

 ふと、そのことに気づいてしまった。
 僕の興味はそもそもなんだったか。手首を切る理由? 馬鹿な、それはあくまで契機に過ぎなかったはずだろう。いつから僕は『それ以外』の彼女に興味を持ち始めた?

 なにより、あれから僕は時を止める彼女を見ていない。

 それでもこの昼食会が続く理由。
 僕が『それ以外』に興味を持つ理由。
 彼女が手首を切らないこと。
 彼女が僕の闇に触れないこと。
 それは何故だろう。それは何故だろう。それは何故だろう。それは何故だろう。

「終わるわ」

 彼女の呟きと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


      ◆


 暗闇の存在に気づいたのはいつだっただろうか。
 漠然とした輪郭は曖昧さと確かな存在を僕の中に示し続ける。否定しようにもそこには確実に闇があり、肯定しようにも実体を持たない暗闇は僕の手からいつもするりと逃げていった。ただ、そこにある。僕に認められようと認められまいと、そこには闇が蠢き続ける。そんな在り方だからだろうか、僕はいつからか彼の存在を闇と呼ぶようになった。
 僕から干渉することは出来なかったけれど、闇は僕に干渉することが出来た。時に彼は僕の行動を制限し、僕の嗜好を変化させ、あるいは僕の代わりに決断を下した。逆らおうにも、僕には彼に歯向かうことすら許されない。僕はされるがままに結末を見届け、闇の身勝手な濁流に身を任せた。そうしてしまうのが一番楽な方法だった。
 たぶん、人は誰だってそんな闇を抱えているのだと思う。理性の支配から逃れ続ける非常識なもう一人。けれど大抵の人間はその闇に反抗し、あるいは徹底的に無視することで彼を黙らせ、己という人格を必死に守り通している。彼らと僕との違いは、諦めとか執着のなさとか、そんな言葉に出来てしまうような簡単な差でしかないのだろう。でも、そんな些細な差異こそが、僕の暗闇を人一倍巨大なものに成長させた原因だった。いつしか僕は、僕というキャパシティのほとんどを闇に奪われてしまっていた。誰も気づかないうちに、僕すらもが気づけないうちに。

 だけど、その闇を、――桐野は見抜いた。

 いくら理性の支配を受けない暗闇でも、彼にだって支配されざるを得ないものがある。それは時間だ。時に支配されない桐野だからこそ、彼女は僕の抱える暗闇を見抜いてしまったのだと思う。それとも僕の暗闇は、誰が見ても分かってしまうほど巨大なものとなってしまっていたのだろうか。いや、それはない。もしそうだとしたら、僕はとっくに学校なんていう安全な檻から追い出されているだろう。耐え難い異分子として、もしくは暗闇そのものとして。

 ゆっくりと瞼を押し上げる。

 茜色に染まった教室に軽い眩暈を覚える。誰もいなくなった教室は、誰もが居る息苦しさとは対照的に荒涼とした空気を湛えていた。まるで月の砂漠。アルミ製の机の脚もチョークの残る黒板も、全てが赤い砂の粒子に飲み込まれていってしまう。空気もなく微生物もいない砂の海で、何もかもが腐食することもなく暗い砂の中に埋もれていった。もしかしたら影の中に飲み込まれていたのかもしれない。
 桐野の机に鞄はなかった。席を立ったところは見なかったけれど、どうやらもう帰ってしまっているらしい。壁の時計に目をやるともう5時を回ってしまっていた。午前中にテストが終わったから、僕は随分長い間こうして眠りとも思考ともつかない暗闇の中に居たことになる。僕は溜息を一つついて立ち上がった。
 今日でテストが終わり、僅かな試験休みを挟んで終業式となる。テスト期間中はずっと午前だけだったから、当然桐野との昼食会はなく、桐野には何も訊けずじまいだった。いつもなら勝手に行動する闇も眠ったまま。僕にはそれを口にする勇気もないまま。
 現状維持。
 僕は何を怖れているのだろう。何を求め、何に縋ろうとしているのか。
 闇は目を覚まさない。彼がいなくては、僕は訊きたいこと一つ訊き出せない。桐野は手首を切らず、時間は規則正しく進み続ける。僕は彼女を求め、彼女は僕を求めない。
 茜色の空は、やがて暗い紫色へと変わっていった。夜と昼の混じり物。境界は曖昧さ故にその姿すら見失う。

 まるで僕みたいだと、なんとなくそう呟いた。


      ◆


「……ったわ」

 最初、桐野がなんて言ったのか分からなかった。夢と現実の狭間にいた僕の耳には、現実の声も夢の声も、どちらも遠いところから聞こえてくる。

「ん? なんだって?」

 僕は時計を見ながら聞き返す。3月25日。午前2時を少し過ぎたところ。電気を消した部屋の中で、手元の携帯のバックライトだけが青白く部屋の中を照らしていた。
 電話口の向こうから小さな溜息が聞こえてくる。一瞬の躊躇。どんなことでも躊躇いなく口にする彼女にしては珍しいことだった。視覚的にではなく彼女を人間らしく捉えられたのは初めてのことだな、と考えたりした。

「いま、手首を切ったわ」

 けれど、そんな考え事はその一言で吹っ飛んだ。はぁ? と声をあげる僕に、彼女はもう一度小さな溜息をついてみせた。

「切ったって、なんで俺に電話して来るんだよ! そんなことの前にまず救急車を」
「大丈夫」

 僕が言葉を言い終える前に、桐野はいつもの調子で言い放つ。

「大丈夫って……だって手首」
「大丈夫なの。浅いから。これじゃ死ぬことなんてできないわ」

 そして、彼女は三度目の溜息を吐き出した。
 ゆっくりと静寂が戻ってくる。遠くから車のエンジン音が聞こえてくるような、そんな中途半端な浅い静寂。僕は何も言えないまま時計の針を見つめていた。きっと桐野は時計ではなく自分の傷口を見ているのだろう。

「どうして、なのかな」

 彼女は静かに静寂を破った。
 破ったというよりは、静寂に溶け込ませるような声色だった。

「どうしてなのか自分でもわからない。分からないけど、貴方に話さなくちゃって、そう思ったの」

 それがさっき僕が投げかけた質問の答だと分かったのは、僕の闇が僕を支配し始めた頃のとこだった。闇は静かに蠢き、僕に絡みつき、何本もの細い糸で僕のことを縛りつけてからゆっくりと僕の体を蝕み始めた。いつものこと。彼はいつだって完璧に僕の自由を奪うことで自らの自由を手に入れる。久しぶりに目覚めた彼は、貪欲に僕の自由を求めた。

「……どう、なってる?」

 彼が、僕の支配から抜け出して言葉を放つ。

「どう…って?」
「傷だよ。どうなってる? どれくらい切った?」

 まるで愛を囁くように、大事なものを愛でるように。

「横に3センチくらい。血が何本か筋を作って、肘から滴ってる。まだ止まりそうにないわ」
「痛い? 傷は痛む?」
「少しだけ。もう、慣れてしまったから」

 律儀に答える桐野。それに気を良くしたのか、彼の質問は止まらない。

「どうして手首を切るの?」

 それは、僕が訊きたくて訊けなかったこと。
 彼に訊いてほしくて仕方のなかったこと。

「…………」

 桐野は答えない。
 ただ、受話器越しに彼女が言葉を選んでいるのが分かる。

「ねぇ、どうして?」

 それは、あの廊下で放ったときと同じような。
 フラッシュバックする。
 痛みに歪んだ桐野の貌。声にならない短い悲鳴。微かに怒気を孕んだ双眸と、白く細い桐野の手首。
 何もかも。
 その何もかもが、彼によって僕の脳に官能的に描かれる。

「うちに、来ない? 貴方には、見てほしい」

 質問には答えず、彼女はそう言って黙り込んだ。

「いいよ。今から行くよ。そのまま待てる?」
「ええ」
「傷を塞いじゃダメだよ? そのまま、そのまま待ってるんだ」

 彼はベッドから這い出すと原付のキーを手に取った。高揚している。珍しく彼が高揚している。そして僕もまた、自分でも信じられないほど興奮していた。

「ひとつだけ、訊いていい?」

 抑揚のない彼女の声が、音もなく静寂に溶けていく。

「今の貴方は、どっち?」

 彼は、それに答えないまま電話を切った。


      ◆


 ベッドの中、二人で天井を見上げていた。窓から零れ落ちる青い月明かりは僕らの輪郭を曖昧に照らし、彼女の手首に巻かれた白い包帯をより一層白く輝かせていた。綺麗に血を舐め取られた桐野の左腕は、その包帯に負けないほど白く浮かび上がっている。机の上では赤黒い血溜まりが対照的に月の光を浴びていた。
 その月明かりが、雲の切れ端に、翳る。
 春の夜は雲の所為でひどく明るい。もうすぐ三月も終わり、決定的なまでの春という季節がやってくる。『桜が咲いたらもう春だな』なんて言ったら、桐野は『春になったから桜が咲くのよ』なんて返してきた。まったくその通りだと思ったし、まったく彼女らしくないと思った。状況の所為もあるのだろうけれど、久しぶりに会った彼女はいつになく人間的に僕の目に映っていた。快楽に身を委ねることや、誰かを求めるということも含めて。

「訊かないの?」

 天井を眺めたまま、何の前置きもなしに桐野は言った。

「何を?」
「私は、まだ質問に答えていないわ」

 そう言われて、ようやく思い当たった。
 彼の質問であり、僕の質問でもある。彼女が手首を切る理由。

「俺に聞いてほしいの?」

 逆にそう訊き返すと、桐野は分からない、と首を振った。シーツの擦れる音が部屋の中に木霊する。それが消えると、ゆっくりと沈黙が降ってきた。沈黙は人の数に比例する。それは誰の言葉だっただろう。

「分かってもらえるかは、分からないけど」

 舞い落ちた沈黙を払うように彼女の声が放たれる。

「境界が曖昧なの。目を閉じていれば向こう側に居ることが出来る。でも、目を開けているときはこちら側に居る確証が持てない。何度目を開けてみても、私はいつも向こう側にいるような気がするの。私っていうもの自体が曖昧なのよ」
「向こう側って?」

 尋ねると、桐野は簡潔に言葉を放った。

「非現実」

 カサリ、とシーツが音を立てる。桐野が自分の左手を抱いていた。

「目が覚めて、それでもそこには現実味がないの。夢の中で目を覚ますような、そんな曖昧な感覚なのよ。階段を上っていて最後に一段多く上ってしまったみたいな感じ。見えない足場に支えられてしまって、どこまでが階段なのか分からなくなる」

 随分文学的な表現をするな、と思って、桐野がいつも教室で本を読んでいたことを思い出す。

「要するに、」

 もどかしくなって、僕は答を急いでしまった。

「現実感がほしくて手首を切るのか? 自分がそこに居ることを確かめるために?」

 けれど、桐野は僕の言葉に首を横に振る。

「じゃあ、なんで?」

 疑問を重ねる僕の目を、桐野の瞳が捕まえていた。

「境界を、――引くため」

 停滞は唐突に訪れた。
 時の流れがスローモーションになる。光が粒子の束となり、血液は僕の中で凝固する。酸素の檻。時の拘束。睫毛の先さえ震えなかった。指先からは感覚が消え、視覚以外の感覚器官が急速にその役目を放棄していく。
 桐野の唇が静かに動いて、僕の耳はその言葉を拾わない。
 視覚は彼女の唇から意味だけを読み取っていく。

「向こう側では血なんて流れないの。痛みなんて必要ないの。境界のない世界では、私は私のカタチを留めることが出来ないし、私が私を維持すること自体が不要なの。でも、こちら側ではそれが出来ない。私が私を曖昧なままにしておくということは、自分から私という存在を希釈していくということ。私を無へと追いやることよ。だから境界を引かなきゃいけないの。ただ、私の場合、そのカタチが傷だったというだけのこと」

 時の止まった世界の中で、彼女だけが時の呪縛から逃れ続ける。

「生きている実感が欲しいとか、そういうことじゃないの。生きるために必要なことなのよ。向こう側は、生も死も概念すら存在しない混沌。そんなものはこちら側に持ち込めないわ。だから境界を引くの。痛みは生きていることを確立してくれる。傷は私というカタチを作ってくれる。そうすることで私はこちら側の私を維持しているの。この現状を維持するために私は手首を切り続けるのよ」

 そして。
 ようやく桐野は、僕を時の牢獄から解放した。

 光の粒子が速度を持ち、分子は各個の運動を開始する。停止していた感覚信号が、僕にシーツの感触と温もりとを伝え始める。空気を震わせるいくつもの音。瞬いた感触が僕を時の流れへと合流させる。

「じゃあ、なんで…」

 試みに口を開けば、声はすんなりと言葉になった。

「なんで、切らなかった? この2ヶ月、桐野は一度も切らなかっただろう?」

 闇に頼ることなく、『僕』の口から言葉が溢れた。
 彼は随分前に眠ってしまっている。彼女と2度交わると、彼は僕を縛り付けていた糸を切って満足げに眠りに就いた。彼を満足させたのが何だったのか僕には分からない。桐野の血の味だったのかもしれないし、交わる快楽だったのかもしれない。
 それとも、さっきのように時を止められることを怖れたのか。

「貴方は、絶対というものがあると思う?」

 再び質問に質問を返す桐野。仕方なく僕はその問いに答えを返した。

「ある…んじゃないかな。時間とか、死とか、ありきたりだけど」

 言いながら、本当にありきたりだな、と思う。
 ついさっき一般論から大きく逸れたばかりなのに、僕の中に浮かんだ言葉はその程度の陳腐なものばかりだった。案の定、桐野は小さく溜息をついてしまう。

「私にとっては、そのどちらも曖昧だわ。向こう側にはそのどちらも存在しない。存在したとして、結局そのどちらも意味を成すことは出来ないもの。あるとすれば、絶対はありえない、という絶対だけよ。全ては相対的に作用することでしか個々の存在を保てない」
「何が言いたいんだよ?」

 もどかしくなる。結局は僕の頭の回転が遅い所為なのだけれど、それを認めたところで答えは遠のいていくばかりだ。

「貴方、クイズ番組嫌いでしょ」
「いや、問題と一緒に答えがテロップで出るようなクイズ番組は好き」

 僕の言葉を無視して桐野が口を開く。

「相対的に関わりあうことが、ひとつの事象を確立するのよ」

 それが桐野の答らしかった。僕が疑問を投げかける前に彼女は言葉を続けていく。

「全ての事象は曖昧なのよ。重さだって地球から出てしまえば変わってしまう。モノの長さだって、何かを基準にしなければ計れないの。誰もが同じ色を見ているとは限らないし、同じ温度を感じているとは限らない。何かと比べなければひとつのことを確立することなんて不可能なの。でも、それはもう一つの可能性を示している」

 混乱する僕を置き去りにして、桐野は結論を提示した。

「何かと比べることで、事象は確立することが出来るということ」

 桐野の首が横に倒れ、天井に向けられていた視線が僕の顔に注がれる。その目がふっと細められて、僕の心臓は今まで経験したことがないほど飛び跳ねた。
 初めて見る桐野の微笑み。
 邪気のない、それ故にどこまでも残酷な絶対零度の冷たい微笑。

「貴方は、向こう側以上の混沌を抱えているのよ」

 微笑んだまま、いつもの抑揚のない声で彼女は言った。

「貴方ほどの混沌は見たことがない。私が境界を引かなくて済むくらい、貴方の中は混沌としている。前に私が言ったこと、憶えてる?」


 ――それだけの暗闇を抱えて、

 ――貴方がどうして手首を切らないのか、教えて。


「貴方の隣にいるだけで、貴方の混沌を見ているだけで、私は私をこちら側で確立することが出来たのよ。傷も痛みも必要ない。だから手首を切らなかったの。でも、やっぱり長い間距離を置いたら駄目なのね。貴方が居たから私は手首を切らなかったし、貴方が居ないから手首を切った。そういうことよ」

 一度言葉を切る桐野。
 何かを躊躇っている。言うべきか、言わざるべきか。
 けれど、結局桐野はその言葉を押し出した。

「貴方と比べたら向こう側の世界なんて整然としたものだわ。秩序があると言っても良いくらい。それだけ貴方の中は混沌としている。それくらい、――貴方の中は狂ってる」

 ゆっくりと彼が目を覚ます。
 僕から感覚を奪い取り、思考回路を彼のために組み替えていく。
 無秩序による秩序の形成。
 暗闇という一点が、僕の全てを侵し始める。

「狂っている? 俺が?」

 ギギギっと、軋んだ音を立てて唇がつりあがった。

「馬鹿を言うな。今の俺には、アンタの方が狂っているように見えているよ」

 ハッ、と不自然に喉が嗤(わら)う。

「境界を引く? ははっ、笑わせる! もう必要ないだろう、アンタにはさぁ! ククク…ははははは!」

 止まらない。
 彼の笑いは、止まらない。
 桐野を嘲笑いながら身を起こし、彼は彼女に覆いかぶさる。

「あ、――」

 身を引こうにも遅かった。
 彼は桐野を捕まえる。その右手が桐野の左手首を掴み取る。

「どうだよ!?」

 ギリ、と。
 折れてしまうんじゃないかと思うほど、彼は右手に力を込める。

「どうだよ、どうなんだよ!?」

 左手の指が、彼女の秘裂に乱暴に突き入れられる。

「痛むか? 痛まないだろ? 痛いはずないよな!」

 重ねられる言葉。与え続けられる痛みと力。
 僕に彼を止めることはできない。彼の糸は強く鋭利で、僕が身じろぐだけで簡単に僕を切り裂いてしまう。
 僕は彼を止めたかった。
 でも、彼は止まることを知らなかった。
 混沌。彼女が僕の中に見た混沌。
 その桐野は。

 桐野は、彼の言葉どおり、まるで痛がる素振りを見せなかった。

「ええ、何も感じないわ」

 彼とは対照的に、桐野はひどく静かにそう答えた。

「だから、もう分かっていたの。貴方がどうしてその暗闇を抱えていることが出来るのか。……簡単なことだったのね。自分で境界を引けなければ、自分で自分を維持できなければ、――足りない部分は他の誰かから奪えば良い」

 彼は、その言葉に嬉しそうに頷いた。物分りの良い生徒を見る教師、そんなものを連想させる。その微笑みの裏側には、誰にも理解できない混沌とした闇がある。

「でも、仕方のないことだと思う。だって、貴方のそれは、私が手首を切るのと同じ理由で行われていることだもの。そうしなければ貴方はこちら側で貴方自身を維持できない。そうでしょう?」

 彼は何も言わなかった。僕には何も言えなかった。
 そんな僕に、彼女はふっと笑いかけてくる。ひどく人間的な、自愛に満ちた優しい微笑み。

「だから、結果的にはこんなことになってしまったけど、私、少し嬉しいの」

 そして、静かに目を閉じた。

「本当は、こうしてほしくて、境界をはっきり引いてほしくて、私は貴方をお昼に誘っていたのかもしれない」


      ◆


 翌日、彼女はこちら側に残ることを決意した。
 希釈される前に、境界を引けないまま無へと消えてしまう前に。

 彼女は、一人静かに、落ちた。


      ◆


 屋上には、風だけが吹いていた。

 暖かい南風。誰もが僕らを忘れ、誰もが屋上を忘れていた。
 2ヶ月前の午後、桐野がここから落ちたことは新入生以外の誰もがちゃんと知っている。それでも、誰もがそのことを忘れていた。意図的にではなく、不必要なものとして彼女のことを忘れていた。彼女はこちら側に残るために落ち、誰もが彼女を向こう側に追いやっていた。僕だけが彼女のことを覚えている。
 左手首から包帯止めを外す。くるくると包帯を外すと、風はそれを待っていたかのように僕から包帯を奪っていった。残ったのは、僕と、傷と。そして、彼女が失った微かな痛みだけだった。

 手にしたものが何であれ、僕らがその事実を捨てることは出来ない。

 たとえば、この痛み。
 たとえば、彼女と過ごした昼休みの記憶。
 僕らは僕ら自身を確立するために何かに頼り、あるいは自分の中に基準を定め、あるいは他人に自己の存在を委ねてみたりする。そうしなければ僕らは立ち上がることが出来ず、僕らはこちら側で生き続けていくことが出来ない。自己の確立は、生きるうえで必要最低限のことだからだ。
 それでも、僕は後悔した。
 彼女を、僕の生きる糧としてしまったことを後悔した。
 僕は彼を止めたかった。それだけは、彼の支配とは別のところで動いた強い願いだった。時を止める彼女の瞳に、僕はずっと囚われていたかった。その瞬間、その永遠じみた瞬間だけは、僕は彼から解放され、この場所に留まっていることが出来たから。

 でも、彼女は落ちた。僕がその背中を押してしまった。

 厳密に言えば、僕の所為ではないかもしれない。もちろん彼の所為というわけでもない。僕や彼は、僕という混沌の中で唯一と言っていいほどの微かな秩序のかけらだった。僕らにそれをさせたのは、僅かな境界を求めたのは、僕や彼を内包するこの巨大な闇だった。それは僕の意識の届くところではないけれど、その闇だって僕であることには違いない。その罪は、僕が抱えるべき罪でもあった。
 ふいに涙が出そうになって、慌てて堪える。
 僕は自分の左手を抱いた。桐野がそうしてたように、僕は慈しみをもって自分の左手を抱きしめた。傷に触れると微かに痛む。それが今の僕を支える境界だった。

 この先、どんな痛みが待っていようと。
 どんな後悔がやって来ようと。

「悪い、なかなか抜け出せなくてさ」

 そうだとしても、僕はきっと歩き続けるだろう。
 僕が僕として在るために、こちら側で生きるために。

「それで、話ってなんだよ」

 僕は振り返る。
 歩みは、止まらないけれど。

「ああ、いや、特に用があるわけじゃないんだ」

 僕は、――いつまでも僕を僕として。

「ちょっとさ、お前に興味があってな」


 保ち続ける、だろう。



 >>了。




◆あとがき◆
 というわけで、『LINE』でした。
 まぁ、説明にも書きましたが、これは本命小説の筆が進まなくなって、そこからの逃避の手段として書かれたものです。しかも、話が先にあったのではなくて、『桐野椿』というキャラが先に出来上がってしまったという俺としては珍しい作品。普通、逃避目的の適当に言葉を連ねるタイプの作品は、書いていく途中でキャラが出来上がるものなんですけれども、この作品だけは最初から椿というキャラが在りまして、そこにちょっとキレてる主人公を絡ませた、という感じです。その割には容姿に関する記述がほとんどありませんが(苦笑)
 それゆえの話の浅さ、ですか。
 言い訳にしか聞こえないけれど。