夢を見た。
窒息する夢だ。
僕が思い描いてた通りの、完全で完璧な窒息だった。
僕は白い部屋に居る。真っ白な部屋だ。何処から何処までが部屋なのか分からなくなるくらい白い部屋だ。
純白。ある種、透明であるかのような。
それでも、その部屋には壁があった。床があり、天井があり、4枚の壁がそこにある。
やがて、僕は息苦しくなる。
水で満たされているわけではない。酸素がなくなっているわけでもない。それでも、僕は息苦しくなる。呼吸の方法を思い出せない。
壁が迫ってくるように感じる。何処にあるかも分からないのに、ただ漠然とそう感じる。壁が迫っている。
窒息する、壁。
意識が遠くなる。白い壁が、より白く僕の網膜に映し出される。意識と世界との境界線が曖昧になる。それでも壁が迫ってくる。
嗚呼、僕は窒息する。
本当に酷い苦しみだった。僕の人生にあった全ての出来事を後悔に変えてしまうような、それくらい長い長い苦しみだった。だけど、その裏側で、僕は酷く安らかな気持ちで白い壁を眺めていた。本当に安らかに眺めていた。
僕は、窒息する。
『壁 / 永瀬月臣』
「それはアレだろうな。ほら、深層心理とかいう奴だよ。心の何処かで感じてることが夢に出てくるっていうアレさ」
明日まであと1時間という時間帯。ガソリン臭い24時間営業の喫茶店。僕の向かいに座った古賀は、ストローから口を離すと下らなそうにそう言った。それからまたストローに口をつけて、ボコボコと息を吹いてアイスコーヒーを泡立て始める。
「じゃあ、何か? 僕が自殺願望を抱いているとでも言いたいのか?」
「そうは言ってねぇよ」
泡立てたコーヒーの泡を、今度はストローでひとつひとつ潰していく。
「狭い部屋、というのを想像してみろ」
「ふむ」
「何を感じる?」
言われたとおり、僕は狭い部屋というものを想像してみた。おそらく夢に出てきたような部屋を言っているわけではないんだろう。一般的な狭い部屋。天井は低く、壁に窓はない。ベッドも箪笥も、椅子のひとつだってない。例えるなら立方体のエレベーターのようなものを想像した。
「閉塞感。あと、圧迫感かなぁ」
「まぁ、妥当な答えだな」
満足そうに頷いて見せる古賀。
「俺はさ、そういうものが原因だと思うんだよ。つまるところ、お前が息苦しさを日常生活で感じてるんじゃないか、ってね」
「そんな馬鹿な。僕は今の生活に満足してるよ」
「だから、『深層心理』だって言っただろう? 表層に出てこないんだよ。出てこないから、自覚することもない」
そんなものかな、と呟いて、僕は自分のコーヒーに口をつけた。深層心理。夢判断。フロイトだかユングだか知らないけれど、随分とまぁ曖昧なものを確立してくれたものだ。夢にだって個人差はある。カラーの夢を見る人もいるし、モノクロの夢を見る人だっている。恐竜の夢を見る人は、一体どんな深層心理を持っているというんだろう。世界には分からないことが山ほどある。
「お前、仕事はどうよ?」
「順調だよ。特に問題ない」
「人間関係は?」
「悪くないね」
「彼女は?」
「束縛されるどころか、今月はまともに会えてすらいない」
ふうむ、と古賀が唸って、僕らの間に緩やかなジャズが舞い降りてきた。そんなものだ。日常生活が夢に影響を与える。僕だってそれは認めよう。僕だって昔は心霊番組を見るたびに怖い夢を見ていたのだ。印象深いもの、心の底に引っかかっているものが夢に出てくるのは当たり前のことだ。否定する気もない。
だけど、今回のことに関しては、そんなに簡単に片付いてくれることのようには僕にはとても思えなかった。夢。しかも、酷く暗示的な夢だ。意味を与えるには難しいけれど、意味を模索するには十分すぎるほど明確な夢。そして僕は窒息する。
「思い描いてた、って言ったな」
「うん?」
「お前さ、さっき俺に説明する時そう言わなかったか?」
それは、僕が思い描いてた通りの、完全で完璧な窒息だった。
「うん、言った」
「それって何かおかしくないか? 窒息って言ったら、普通は首を絞められるとかそういう時しか使わないだろ」
古賀が訝しげに僕の顔を見る。確かにそうだろう。僕の想像は普通ではない。
「まぁね。でもさ、それってすごく力学的だろ?」
「力学的?」
そう、力学的。途方もなく暴力的で、受動的だ。
「首を絞められる。鼻と口をガムテープで塞がれる。ビニール袋に密閉される。いろいろ方法はあるけどさ、みんな力学的だよ。もちろん人が死ぬのはいつだって力学的だろうけど、なんだかそれじゃあ味気ないじゃないか」
味気ない。自分で口に出してから、なんだかとんでもないことを口走っていることに気がついた。人が1人死ぬっていうのに『味気ない』はないだろう。どんな人間にだって意味はある。何かを含んでいる限り、それ自体には味があるのだ。悲しみや、苦悩だって。
「前から思ってたけど、お前、変わってるな」
古賀が苦笑して、つられて僕も笑った。変わってる。よく言われる言葉だ。でも、それを自覚してしまったら、僕は僕の世界で常識になる。客観性も主観性も攪拌された混沌ではあるけれど。
「もしかしたらさぁ…」
煙草に火をつけながら、古賀が真面目な声でそう言った。
「お前、その部屋に繋がってるのかもな」
僕には、そんなことを真面目に言える古賀の方が、ずっと変わっているように思えた。
◆
繋がっている、と古賀は言った。
僕がその白い部屋と繋がっていると。
馬鹿馬鹿しいと思った。夢の話だ。夢と僕とが繋がっているなんて考える方がどうかしている。
そこには羊の毛皮をかぶった男がいて、僕を何かと繋げようと必死になって働いてくれているんだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
僕にはしっかりとした日常があるし、華麗に踏むべきステップもない。
踊る必要はどこにもない。
ハブ・ア・ナイスダンス。
僕は『現実』だ。物事の考え方が多少違っているからといって、僕を現実から追い出さないでくれ。
そう思った。
そう、思っていた。
それでも、僕は白い部屋と繋がっていた。
現実として。
◆
通過点、というものがある。
それは年齢的なものかもしれないし、実際的な距離としてのものかもしれない。ひとつの状況を指すかもしれない。
それでも、通過点という言葉は存在している。確固とした事実として。
通過点。
僕はその言葉を口に出してみる。
「――――――。」
それでも、声にはならなかった。口が開いているという感覚すらなかった。
何故か。
答えは簡単だ。通過点を通らなかったんだ。僕の思考が正しい通過点を通らなかったから、言葉はいつまで経っても声にならない。
そして、僕は白い部屋にいた。
通過点。
僕はもう一度その言葉を反芻した。あまり良い言葉じゃない。スタイリッシュな響きではあるけれど、何も残さない。
そして、僕は自分の記憶を省みることに没頭した。
一体どこに通過点があったのか。
僕はいつからこの部屋に閉じ込められたのか。
◆
目が覚めたときには、既に僕の中にそれは生まれてしまっていた。卵を割れば白身と黄身が飛び出すように、それくらい自然なこととして僕の中にそれが住み着いてしまっていた。
違和感。
けれど、その違和感の根幹は僕の内部にあるわけではなかった。白身も黄身も、どちらも正しく僕という殻の中に存在していた。多すぎもせず、無というわけでもない。白身も黄身も、それぞれちゃんと一つずつ僕という殻に包まれていた。
「なんだろう、これは」
僕は誰もいない部屋の中でその違和感を口にしてみた。僕の目の前に、あるいは頭上に、あるいは背後に確かに感じる違和感を。僕の部屋に変化はない。カーテンの色もいつものようにくすんでいたし、テーブルの上の本だって栞の位置を変えていなかった。テレビもちゃんと映る。壁の時計もずれていない。それなのに、僕の周りには昨日までとは違う何かがやってきていた。僕が眠りの底でうずくまっている間に、それは当たり前のように僕という存在を包み込んでいた。
唐突に、電話が鳴る。
そこで初めて、この部屋にある具体的な違和感に気がついた。
おかしい。
聞こえ方が、おかしい。
何かのフィルターを通したような、どこかくぐもった不自然な聞こえ方。携帯電話から無感動に発せられるメロディーが、今朝は更に無感動に聞こえる。
「なんだろう、これは」
鳴り続ける携帯電話を前に、僕は同じ台詞をもう一度呟いた。その声すらが、いつもの僕の声とはまるで違った音に聞こえる。
何が起こっているのだろう。僕の耳はどうかしてしまったんだろうか。
電話が鳴り止んでいたことになんて気づけなかった。僕は僕のことで精一杯になっていた。慌ててテレビをつける。アナウンサーがニュースを読み上げ、テロップと同時に効果音が鳴り響く。いつもの番組。僕が仕事に出かける前にいつも見ているニュース番組。それなのに、彼らはまるで別人になっていた。そこに映っているアナウンサーも、音響担当も、あるいは僕の部屋のテレビすらが全く別の何かに成り下がっていた。彼らは全く違う声を挙げていた。彼らは僕に何一つ語りかけようとしなかった。CDを適当に流してみたけれど、やはりどれもこれも僕が好きだった歌のようには聞こえなかった。歌詞は間違っていない。僕にわかるのはそれだけだった。
「どうかしてる」
ああ、どうかしている。全てが間違い始めている。何処かで誰かがボタンを掛け違えたのだ。ちぐはぐになった世界がここにある。
がちり。
がちり。
がちり。
がち、り。
アナログ時計が声を挙げる。骨を噛み砕くような音を立てて、秒針が世界を動かしていく。昨日まではもっと軽やかに世界が回っていたはずだ。かちかちと、単調だけれど平等に公正に世界を回していたはずだ。誰かが気づかれないように1つだけボタンを取り去ってしまったのだ。世界はどこかで掛け違えられてしまったのだ。
僕は部屋の真ん中に立ち尽くした。もう一度電話が鳴っていることにすら、気づけないまま。
◆
そして、僕は閉じ込められた。
◆
そこでは思考と記憶とが全てだった。
他のものが不要であるというわけではない。それ以前の問題なのだ。それ以外、という区分に入れられてしまった彼らは、彼ら自身の機能というものを完全に忘れ去ってしまっていた。あるいは、僕自身が彼らの使い方を忘れてしまった。
酷くゆっくりとした隔絶だった。耳から始まった僕の異常は、やがて全身へと広がっていった。温感がなくなり、触覚が麻痺した。味覚も損なわれ、最後は何を食べても紙粘土のような味しかしなかった。匂いというものは、どんなものからも全て取り払われた。ゆっくりと、けれど確実に少しずつ、彼らは僕からひとつひとつ損なわれていった。残ったのはこの部屋だけだった。
古賀も消えた。彼女も消えた。仕事も会社も、家族だって全て消えた。
けれど、世間からすれば消えてしまったのは僕の方らしかった。それもそうだろう。僕はここにいて、世界は規則正しく動いている。それでも、僕の異常が進行するほどに、彼らは僕のことを忘れていった。母親でさえ、僕の声を思い出すことが出来なかった。
『繋がってるのかもな』
あの日の古賀の言葉は、ある意味で正しかった。確かに僕はこの部屋に繋がっていて、僕は結果としてこの場所に閉じ込められることになった。だけれど、この部屋が終着点というワケではなかった。ここにも世界はあったのだ。別の規律と、別の早さで進む世界が。
それは、まごうことなき僕だった。
繋がっている、と言うよりは、僕はこの部屋に含まれていた。これが僕の世界であり、僕の全てだった。世界があり、僕がある。しかし、世界を作るのは僕の世界であり、古賀の世界であり、彼女の世界だった。つまりはそういうことだ。
僕は本当の『個』に戻ってしまったのだ。僕が望むと望まざるとに関係なく。
通過点。
それがどこにあったのかなんて考えること自体無駄だった。全ては僕が生まれたときから始まり、定められた結末として僕はここにやってきたのだ。僕の今までの人生全てが通過点だったのだ。そして、始まりであり終わりでもあった。
だから、僕の思考次第で、僕には終わりが訪れる。
◆
僕は思考する。
僕は思考する。
何もない真っ白な部屋で、何もかもある真っ白な部屋で。
僕の思考は反映される。
映写機で投影された影のように、全ては部屋の壁に還元される。
壁は全てを包み、全てを拒む。
原始の海。
何もかもを含み、何もかも知らない。
◆
当てもなく街を歩いた。
思考は止まっていた。
脳は体から完全に切り離され、僕の知らない場所で延々と続く自問自答を繰り返していた。
仕方なく、僕は体で思考する。
体は結論として街を歩いていた。行き先も分からないまま、足は順序良く前へ前へと踏み出された。
「誰だ、おまえ?」
古賀は僕を忘れていた。僕に関する何もかもを忘れていた。
会社に僕のデスクはなく、彼女は電話に出ることもなかった。実家の母は何も言わずに電話を切った。
どうしたというのだろう。
病院からは追い出された。ベッドに寝ている僕をみつけた看護婦が、迷惑そうな顔で追い出したのだ。その目は僕を完全に知らなかった。彼女はつい8時間前に僕の体温を計ったというのに。
僕には、もう居場所がなかった。アパートの部屋すら僕を忘れ去っていた。触感のなくなった手でドアノブを回しても、その先には僕の生活は待っていなかった。どこにもつながらない扉だった。
隔絶されたのだ。
そう体が感じ取っていた。どこまで歩いたって出られない永遠の壁。永遠の部屋。
それは僕に永遠の孤独を予感させ、事実待っているのは孤独だけだった。誰にも繋がらない部屋だった。
足が、止まる。
どこをどう歩いてきたのだろう。気がつくと、街が消えていた。遥か彼方まで見渡せる地面と、曇り始めた空だけがそこにあった。僕の体は結末としてこの場所に僕を運んできた。既に僕の知っている世界ではなかった。
振り返る。
そこには、ドアノブのついた白いドアだけがあった。何もない荒野に、そのドアは毅然として立ちはだかっていた。
僕は慎重にドアノブを掴み、そっと回してみた。鍵はかかっていない。押してみると、ドアは何の躊躇もなく開いてしまった。隙間から喧騒が漏れてくる。
そこは、僕の知っている世界だった。
つまりはこうだろう。僕の体は二者択一を迫ってきたのだ。僕はきっと、これからあの部屋に閉じ込められることになるのだろう。しかし、戻ることも出来るということだ。ただし、誰も僕を知らない、僕のことを覚えていられない、刹那的なコミュニケーションしか取れない世界ではあるけれど。
ドアを開け放ったまま振り返る。そこには、やはり1枚のドア。何もない荒野で、僕は2つの扉に挟まれていた。言うなればここは世界の狭間なのだ。
僕は足を踏み出した。
僕の住むべき世界に向かって。
◆
二律背反。
息苦しさと、安らかさの混同。
ある種マゾヒスティックな感情の渦の中で、僕は消えていく世界を眺めていた。酷く息苦しく、酷く安らかに。
やはり、と言うべきだろう。
僕はいくばくかの時間の果てに終わることを望んだ。物理的でない窒息を選んだ。
決して、諦観ではなかった。
僕は僕として生きることを受け入れ、そして終わることを選んだのだ。満足してそれを受け入れたのだ。
終わる世界の中で、僕は少しずつ気付き始めていた。
僕の望んでいたこと。
僕の渇望していたこと。
深層心理だと古賀は言った。確かにそうだ。僕の中心とも言えるこの場所に来なければ、僕はこの感情に気付かなかっただろう。僕はこの部屋を求めていたし、そして、この部屋で果てることを求めていた。この部屋で果てた先にあるものを望んでいた。
――回帰。
壁が迫っている。僕を閉じ込めている壁が迫っている。
僕はやがて押しつぶされるだろう。押しつぶされ、押し固められ、また違う僕を作り出すのだろう。
そのために彼らは存在し、僕は存在している。世界は生まれ変わる。回帰し、やがて変遷する。
ずっと思い描いていたんだ。こうなることを、こうして窒息することを。
そして、僕が古い僕を捨て、新しい僕になることを。
誰もが言うだろう。
それは普通じゃない。それは間違っている。
そう叫ぶ彼らは全く正しいかもしれない。間違っているのは僕であるかもしれない。けれど、僕の世界では僕が常識であり、僕以上に絶対的なものなんて存在しないのだ。一体何が正しさなんて持ち合わせることが出来るだろう。
嗚呼、僕は窒息する。
誰かは、僕の生に意味を求めるかもしれない。
一時の幸せと、永遠の孤独。それだけしか得られなかった貴方の生に、何の意味があったのかと。
僕は答える。
僕は永遠に続く幸せと孤独を手に入れたのだと。永遠のループに組み込まれたのだと。
その代わり、味気ない死すら手に入れてしまったけれどね。
真っ白な部屋で、迫りくる壁の中で、
たった一人で。たった一人で。
窒息する壁に囲まれ、僕は永遠の回帰を始める。
>>了。
◆あとがき◆
この作品はスペースクラフトの企画において『か』から始まる作品、という指定を受けて書き上げました。
でも、この話のイメージはだいぶ前からあったものだったりして、いつだったか夜中に大学の友人の家に歩いて行くことがあり、その途中でふいに白い部屋のイメージが湧いたという記憶があります。んで、頭の中に描かれた真っ白い部屋を見て『あ、こりゃ窒息するな』と。そこで『部屋』と『窒息』が結びつき、今回のイベント参加のときに部屋と世界、空間と隔絶、個と全、圧迫と反動的展開とか思いついたイメージをつらつらと追加しまして、『壁』に至ったわけです。
まぁ、わりかし気に入ってます。完成するまで結構悩んだし。
ちなみに、『ダンスダンスダンス』を読んでいるときに書いたわけではないですw