「……有紀寧ゆきね

 あの時の朋也さんの顔を、憶えている。
 顔だけじゃない。そのごつごつした肩の感触も、絡み合わせた左手の温かさも。
 射抜くような、透き通った瞳。その奥にある意思の光と、真剣みを帯びた声。
 そして、

「俺は、……俺は、誰だよ?」

 その。
 諦めと痛みに歪んだ、その言葉も。

「と…もや……さん……?」

「そうだよ。俺は、岡崎朋也だよ。他の誰でもない」

 押し戻される。
 それは肩から。それは温もりから。それは、二人で過ごした想い出から。
 耳を塞ぎたくても、出来なかった。わたしの左手は朋也さんの右手が捕まえていて。
 言ってしまう。朋也さんが、その言葉を言ってしまう。
 分かっているのに、どうすることも出来なかった。硬い呼吸。言葉が紡がれる、その瞬間。

 ――それは、限りなく自然に、離れた。

「俺は俺だ。俺は、……おまえの兄貴なんかじゃ、ない」

 目を逸らすことが出来なかった。
 離れた右手を掴むことも、言葉でそれを止めることも。
 わたしは朋也さんを見上げていて。朋也さんも、真っ直ぐにわたしを見つめていて。
 だから、それが最後だった。

「……終わりにしよう」

 放たれた言葉は、長く長く留まって。
 資料室を出て行く朋也さんが見えなくなるまで、わたしの中で響き続けて。
 おまじないなんて、もう効かないって分かってる。
 その理由は、誰よりわたしが分かっている。
 遠い背中。見えなくなった大好きな手。いくつもいくつも頬を伝う、温かい何か。
 気づけば、わたしはまた離してしまっていた。


 大切な人の、温かい手を。



CLANNAD Short Story for Yukine Miyazawa
『掴みたい手 / 永瀬月臣』



 ドアの向こうからは、誰の足音も聞こえなかった。
 それは日常。いくら今が昼休みでも、旧校舎にやって来る生徒はあまりいないから。
 わたしが待っているのは、いつだって窓が開く音で。それが聞こえないのなら、資料室に響くのはわたしがページを捲る音だけで十分だった。
 漫画の中で、主人公が大げさにボケる。
 わたしはそれにくすくすと笑う。
 それが日常。
 それがこの場所。
 わたしは本を読み続ける。たくさんの人に忘れられてしまった教室で、忘れられた本に囲まれて。そうすることで、わたしは穏やかに誰かを待つことが出来た。そうすることが、わたしの心を自然と穏やかにしてくれる。
 蛭子さんは、今日誰かと喧嘩をすると言っていた。
 須藤さんは午後にバイトで、田嶋さんは夜に集会。
 もしかしたら蛭子さんと田嶋さんはわたしに会いに来るかもしれない。それなら、わたしがここでこうしていることにも意味がある。
「コーヒー、淹れておきましょう。もし来てくださるなら、そろそろでしょうから」
 そう呟いて、わたしは読んでいた漫画をテーブルに置いたまま立ち上がった。空のカップにお湯を入れて、その間にフィルターを折ってドリッパーにセットする。その手順は、もう出来上がってしまったひとつのカタチだった。いくつもいくつも重ねてきた、誰かとの大切な日々のカタチ。
 組み上げる、組み上げる。
 ひとつひとつ丁寧に、わたしはそれを組み上げる。

『おまえのコーヒーはいつもうまいな』

 組み上げる。

『いやです、朋也さん。照れてしまいます』

 組み上げる。

『照れることじゃないだろう、本当のことなんだから』

 組み上げる。

 ひとつだってなくさないように、組み上げたい、のに。
 
 気がつくと、わたしの手は止まってしまっていた。なぜって、給湯ボタンを押したのに、お湯が出てこなかったから。
 フィルターを折ってセットするだけ。それだけの作業だったはずなのに、どうしてか給湯ボタンはロックされてしまっていた。いつもだったら、ロックがかかる前に二つ目のカップにお湯を注げていた。それからドリッパーに豆を入れて、抽出を始めて……。
 でも、今のわたしは、空のカップを持ったままぼうっと立ち尽くしていてるだけだった。
 鳴らないポットの電子音。封を解かれないコーヒー豆。出来上がったはずのそのカタチは、どうしてか上手く組み上がらない。
 その現実が、わたしの呼吸すら止めてしまいそうだった。
「……今日は、紅茶にしましょう。そうですね、コーヒーは、また明日です」
 だから、それが精一杯。
 震える声で呟いて、わたしはやっと動き出した。もし言葉に出来なかったら、放課後までそうしていたかもしれない。
 クーラーボックスから茶葉を取り出して、久しく使っていなかったティーポットを探し始める。棚の奥にしまわれていたティーポット。ガラス製の丸いポットは、何故かわたしを泣きそうな顔に映していた。
「おかしなティーポットですね」
 くすり、と笑ってみせる。それはポットに、それはわたしに。茶葉を入れてお湯を注ぐと、柑橘系の香りが資料室いっぱいに立ち上った。アールグレイ・クラシック。
 コツ、コツ、コツ。
 壁の時計が時間を刻む。抽出時間は2分くらい。
 コツ、コツ、コツ。
 コーヒーと違って見極めが大事。10秒違えば、味も変わってしまうから。
 コツ、コツ、コツ。
 だから、それを気にしすぎていた所為だろう。
 それとも、『それ』を気にしないようにしていたからか。
 秒針に紛れた、誰かの足音。
 不覚にも、わたしはそれを、聞き逃した。

 ――ガラッ。

 それがドアの開く音だと、一瞬信じられなかった。
 だってそれは、この場所にはもう響かないはずの音で。
 勢い良く振り返るわたしは、どんな顔をしていただろう。
 胸が痛む。鼓動が聴覚を奪ってしまう。
 ドアを開けたのが誰なのか。その場所に立っているのが誰なのか。誰が、来てくれたのか。
 わたしは、それを理解するのに、精一杯だった。
「やぁ、有紀寧ちゃん!」
「…………」
「あれ? 有紀寧ちゃん?」
 資料室の入り口のドア。誰かの影が立っていた場所。
「……春原すのはら…さん……?」
「そうだよ。他にこんなカッコいいヤツいないでしょ? あ、もしかして、この頃来てなかったから見違えちゃった?」
 その場所に、おどけた表情の春原さんが立っていた。いつもどおりの、無邪気な笑顔で。
「はい……、はい、見違えてしまいました。一週間ぶりですね、春原さんっ」
 ゆっくりと聴覚が戻ってくる。少しだけ安堵しているわたしの心。
 本当のことを言えないわたしは、そう答えるのがやっとだったけれど。
 それでも春原さんは、嬉しそうに笑ってくれた。
「あはは、まいったなー。自分でも、なんだか最近イケメン顔になってきたな〜なんて思ってたんだよね」
「春原さんは、いつも格好いいですよっ」
「やっぱり? ああ、僕の魅力をちゃんと分かってくれてるのは有紀寧ちゃんだけだよ」
 そう言いながら、春原さんはいつもの場所に腰掛ける。影はゆらりと揺らめいて、春原さんの背中に消えていく。
 これも日常だって、そう思った。
 春原さんが来てくれること。あの人が来てくれないこと。もうそれを日常にしなきゃ、だめなんだって。
 春原さんに倣って席に着く。真正面には無人の椅子。また影が見えそうで、わたしはそっと目を逸らした。目を逸らした先には、さっきまでわたしが読んでいた漫画をぱらぱらと捲る春原さん。
 その春原さんが、ふと顔を上げた。
「あれ? なんかいい匂いがする」
「いい匂い、ですか?」
「うん。これは…、紅茶かな?」
「あ、はい、そうなんですっ。今日は久しぶりに紅茶を…って、大変です、忘れていましたっ」
 慌ててポットに走り寄る。壁の時計を確認すると、2分なんていう時間はもうとっくに過ぎてしまっていた。
 ああっ、これはたぶん…、というか、絶対に渋いですっ。
 カップの中のお湯を捨てて大急ぎで紅茶を注ぐ。あまり良いことではないけれど、濃い紅が白いカップに綺麗に映えた。
「お待たせしましたっ。その…、ちょっと渋いかもしれないですけど」
「いいよいいよ。有紀寧ちゃんの紅茶はレアだからね、ちょっとくらい渋くたってかまわないよ。いやぁ、なんだかツいてるなぁ」
「はい、春原さんはラッキーです。熱いので気をつけてくださいね」
 わたしも椅子に座って、春原さんと二人で紅茶を啜る。…やっぱり、渋い。
 春原さんに感想を聞こうと思って顔を上げると、やっぱり春原さんも渋そうな顔をしていた。
「お砂糖、使いますか?」
「え? ううん、要らない要らない!」
 大きく首を横に降る春原さん。それが強がりだって分かったけど、優しさでもあるって分かったから、その言葉は素直に嬉しかった。
 春原さんは、引き攣った微笑みでカップをぐっと傾ける。
「確かにちょっと渋いかもしれないけど、僕にはこれくらいが丁度いいよ! あはは、有紀寧ちゃんの紅茶は美味しいなぁ…って、熱ぅぅぅっ!」
「だ、大丈夫ですかっ? いまお水を…、あっ!」
 慌てて立ちあがろうとして、思わずテーブルにぶつかってしまった。その衝撃で倒れてしまうわたしのカップ。淹れたての紅茶が、勢いよくテーブルの上を、滑る。
「ああっ、春原さんっ」
「へ?」
 声に出したところで、もう遅い。わたしは思わず目を瞑った。だって、これから何が起こるのか、見なくても分かってしまったから。
 想像の中、熱湯にも似た紅い液体がテーブルを滑る。まるで狙い澄ましたかのように、真っ直ぐに。
 そして、淹れたての紅茶は。
 あまりに自然に、テーブルから春原さんの足に零れ落ちた。
「ぎゃああああああっっ!」


      ◆


「すみませんでした、本当に……」
「いやぁ、大丈夫だよ、あははははは」
 乾いた笑い声をあげる春原さんは、下半身が水浸しだった。他に冷やす方法がなかったとはいえ、とても申し訳ない気分だった。
「水も滴るなんとやら、ってね」
 ぴちゃぴちゃと音を立てながら春原さんが椅子に座る。わたしも椅子に座りなおして、でも思い立ってすぐに立ち上がった。
「紅茶、淹れなおしますね。お詫びのしるし、という程のものではないですけど」
 ティーポットのもとへ歩き出す。そうでもしないと、やっぱり春原さんに申し訳ないから。
 でも、そのわたしの歩みは、春原さんの言葉に止められてしまった。
「いいよ、気にしなくても。僕も気にしてないからさ」
「ですが」
 引き下がろうとしないわたしに、春原さんは困ったような苦笑い。
「うーん……。じゃあ、ひとつだけお願い事しても、いいかな?」
 それは、今のわたしにとって願ってもない言葉だった。わたしは間髪入れずに頷いてみせる。
「はい。わたしに出来ることであれば」
 そう言うと、春原さんはどうしてか、一瞬だけ決まりが悪そうに微笑んだ。なんだろう、まるでお願いしたことを後悔しているみたい。
 わたしが不思議に思っていると、春原さんは、今度はうーんと唸り始める。お願い事をしたいって言ったのに、どうしてか悩んでいるようだった。
「どうしました?」
「いや、その、……ちょっと言いにくいことでさ。そうだ、おまじないでなんとかならないかな」
「おまじない、ですか?」
「そうそう。こう、言いたいことを素直に言えるおまじない、とか」
 ――おまじない。
 それは、なんだかずっと昔に聞いた言葉のようだった。たった一週間前までは毎日のように繰り返されていた言葉。それなのに、その言葉はひどく眩しいもののように耳に届いた。温かい光に包まれた、優しい響き。
「はい、ちょっと待ってくださいね」
 わたしはおまじない百科をぱらぱらと捲る。素直になれるおまじない。いくつかページを捲っていくと、それはちゃんと本の中に書いてあった。
「ありましたっ」
「ホント!?」
 嬉しそうに訊き返す春原さん。わたしはやり方を朗読していく。
「はい。えっとですね……。まず立ち上がって、顔の表皮を剥いてください」
「うんうん、顔の表皮をねー、こうペリペリ……って無理だよ! 血が出るよっ!」
「あ、間違えました。これは素直じゃなくて、素顔になれるおまじないでした」
「それは素顔と呼ばないっす!」
 あはは、失敗、失敗。わたしは今度こそ素直になれるおまじないを探し始める。
「あっ、みつけましたっ」
「……本当に大丈夫だよね?」
「はい、大丈夫ですっ。えっと……、まず立ち上がって、両手を交差して自分の胸に当ててください。そうしたら、そっと目を閉じてください」
 言われたとおり、春原さんは立ち上がって両腕を交差する。てのひらを胸に当てて、ゆっくりと目を閉じる。
「はい、結構です。目を閉じたら、心の中でマッスグナココロトドクと3回言ってください。そうすれば、ちゃんと素直になれますよ。素直に、真っ直ぐに、言葉を放てます」
 マッスグナココロトドク。マッスグナココロトドク。マッスグナココロ、トドク。
 唇が三度それを告げた。短い、だけど穏やかな沈黙。
 閉じた時と同じように、春原さんはゆっくりと目を開けた。どきっとしてしまうほど、真っ直ぐで透明な眼差しだった。
 春原さんが小さく微笑む。
 わたしも、つられて微笑んだ。
 二人、見詰め合ったまま。
 春原さんの唇が、言葉を、紡ぐ。

「どうして岡崎と別れたのか、教えて」

 …………。
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 真っ白になる。それなのに、その裏側で、わたしは全てを理解していて。
 どうして春原さんがここに来たのか。どうして決まりの悪そうな顔をしたのか。どうして、――おまじないに頼ったのか。
 考えてみれば、答えはひとつだけだった。
 春原さんは、わたしの言葉を聞くために、ここに来たんだ。
「岡崎はさ、『俺がフッたんだ』って言ってたよ。アイツがそう言うんだから、たぶんそれは間違ってないんだと思う。だけどさ、」
 動けないわたしに、春原さんは淡々と言葉を続ける。
 本当に、動けない。息を吸うことすら、今のわたしには難しくて。
「だけど、僕にはそうは見えなかったんだ。あれはフッた奴の顔じゃないよ。岡崎は、自分じゃ気づいてないけど、自分の感情を隠すのが下手だからね、分かるんだ。アイツはきっと、まだ有紀寧ちゃんのことが好きだよ。だから、あんな顔してる。だから、自分がフッたんだとしか言わない。だから、――だから、ここに来ない」
 そこで一度言葉を切って、春原さんは椅子に座った。時を動かす椅子の音。それを合図に、わたしは漸く呼吸の術を思い出した。……鼓動が速い。
「もう一回訊くね。有紀寧ちゃん、どうして岡崎と別れたの?」
 春原さんの真っ直ぐな瞳。そこに、いつもの春原さんはいなかった。おまじないの所為? ううん、それはきっと違う。
 それは、朋也さんを心配する、純粋な想いだ。
「わたしは……」
 嘘をつくことなんて出来なかった。誤魔化すなんて出来なかった。ここで嘘をついてしまえば、傷つくのは春原さんだけじゃないって、分かったから。
 だから、嘘なんてつけなかった。
 わたしはもう、朋也さんを傷つけたくなんて、なかったから。
「わたしは、……朋也さんに、兄の姿を見ていたんです」
 どうしてだろう。
 そう言葉にした瞬間、朋也さんの背中に兄の背中が重なった。いつも重ねて見てきたのに、今だけはひどく意識的に。
「最初から、そうだったんですよ。ずっと朋也さんに兄の姿を重ねていました。それは朋也さんも知っていることです。朋也さんが兄に似ていることは、話しましたから」
「うん。それは僕も聞いてる」
 相槌を打つ春原さんに、今度は朋也さんの影が重なる。少しだって似ていないのに、影は自然と重なってしまう。
 ああ、わたしは、こうやって生きてきたんだ。
 ふと、悟ってしまった。認めたくなかったこと、目を背けていたかったこと。わたしは、なくした誰かを他の誰かに重ねて生きてきた。そうしなくちゃ、わたしは歩けなかったから。
 兄を失って、兄の姿を田嶋さんや蛭子さんに重ねてきた。
 それでもわたしは満たされなくて、朋也さんに兄の姿を重ねてしまった。
 そして今、わたしは朋也さんの姿を春原さんに重ねている。
 終わりのない繰り返し。
「でも、あの日から、……朋也さんと付き合うことになってからは、わたしは朋也さんだけを見てきました。いいえ、違いますね。朋也さんだけを見る努力を、してきました。……努力をしている時点でおかしいですよねっ」
 無理をして笑って見せたけど、春原さんは悲しそうに微笑んだだけだった。それは自嘲を見抜かれた所為かもしれないし、弾みで零れた涙の所為だったかもしれない。
「だから、ダメだったんです。努力なんてしているようじゃ、ダメだったんです。近づけば近づくほど、朋也さんと向き合う時間が長くなるほど、わたしは自然と朋也さんに兄の姿を見るようになってしまいました。朋也さんが好きだから付き合ったのに、朋也さんだけを見ていたはずなのに、気がつくと、朋也さんではなく兄の姿を見ているんですよ。手を繋いでいる時も、膝枕をしてもらう時も」
 そして、――たぶんキスをしている時だって。
『朋也さんは朋也さんですよっ』
 前に自分で言った言葉を憶えている。それなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。もっと朋也さんに近づけば、兄の影は消えると思った。だけど、現実はその反対で。
 気がつけば、そこに兄がいた。引き寄せられて、抱き締められて、その胸は朋也さんのものなのに、温もりはいつだって兄のもので。顔を上げたわたしはどんな目をしていただろう。その目を見る朋也さんの心は、どれだけ痛かっただろう。
 わたしをフッたのは朋也さんだ。
 だけど、朋也さんを突き放したのは、他でもないわたし自身。
「でも、朋也さんはわたしの手を掴んでいてくれました。わたしが兄の姿を重ねているのを知っていながら、兄しか見ていないのを知っていながら、それでもぎゅっと掴んでいてくれたんですっ」
 今なら、分かる。
 それがどれだけ大事なことで、どれだけ幸せなことだったのか。
 誰でもないわたしの手を、ちゃんと握ってくれること。
 それなのに、それなのに……!
「なのに、わたしは離してしまった! わたしが、朋也さんの手を離してしまったんですっ! わたしがっ……」
 次から次から頬を涙が伝っていく。蛇口の壊れた水道みたいに、それは止まることを知らなくて。
 どうして、泣いているんだろう。
 どうして、泣いているんだろうっ。
 朋也さんが遠くなる。大好きな背中が遠ざかる。
 そこに兄を重ねていたのはわたしなのに、どうして泣いているんだろうっ。
 痛かったのは朋也さんだ! 傷ついたのは朋也さんだ!
 朋也さんを傷つけたのはわたしなのにっ、朋也さんの手を離したのはわたしなのに……ッ!
「わたしが……っ!」
「……それは、違うんじゃないかな」
 だけど、春原さんの言葉は、そんな言葉で。
 だから、わたしにはそれが否定の言葉だって、信じられなかった。
「……えっ…?」
 疑問の声を上げるわたしに、春原さんは微笑んでみせる。
 見る人を安心させてしまう、その笑顔。
「有紀寧ちゃんは岡崎の手を離したって言うけど、僕は違うと思うよ」
「でもっ」
 言い返そうとすると、春原さんは微笑みを消してニッと意地悪く笑って見せた。突然のことに、わたしは身構えることも出来なくて。
「だって有紀寧ちゃん、岡崎の手を離す前に、岡崎の手なんて掴んでなかったんでしょ?」
「――ッ!」
 ……突き刺さった。
 痛いくらいに真っ直ぐに、わたしの心に深く、深く。
「それは……」
 だから、言いごもってしまう。それが本当だから、それが分かっているから。
 そして、その痛みと同じくらい、朋也さんの心が痛かったんだって、分かったから。
 言い過ぎたと思ったのか、春原さんが気まずそうに視線を逸らす。
「まぁ、僕にはそのへんの複雑な事情は分からないけどね。僕は岡崎でも有紀寧ちゃんでもないからさ。当事者でしか分からないこともあるだろうし、部外者の僕があれこれ言うのは良くないんじゃないかとも思うよ。でもさ、」
 言葉を放つ間は、ずっと逸らされていた視線。
 窓の外に向けられていたそれが、ふっとわたしを捕まえた。
「でもね有紀寧ちゃん、僕にだってこれだけは分かるよ」
「……?」
 疑問の視線を投げかけるわたしに、春原さんはくすりと笑った。
 意地悪な微笑みは、もうどこにもない。いつもの、優しい微笑みだった。
「確かに、有紀寧ちゃんは岡崎の手を掴んでなかったんだと思う。岡崎にお兄さんの姿を重ねて見ていたんだと思う。だけど、これだけはハッキリしてるよ」
 そして、わたしが出せなかったその答えは。
 春原さんの穏やかな声が、教えていた。
「有紀寧ちゃんが今掴みたいのは、間違いなく岡崎の手だってこと。……違う?」
「…………」
 わたしは、答えられない。
 わたしは、目を逸らせない。
 そんなわたしにもう一度微笑んで、春原さんは言葉を続けた。
「違わないね。今の有紀寧ちゃんは、ちゃんと岡崎のことが好きだよ。お兄さんの手じゃなくて、岡崎の手を掴みたがってる。そうじゃなきゃ、僕がここに来た時、あんな顔したりしない。あんな風に泣きそうな顔をしたりはしないよ」
 泣きそうな顔。
 そう言われて漸く、わたしはあの時の自分がどんな顔をしていたのかを知った。
 確かに、そうかもしれない。
 あの時朋也さんがあの場所に居たら、わたしはきっと朋也さんに泣きついていた。
「そう……かもしれません」
 弱々しくもそう言葉にすると、春原さんは嬉しそうに笑う。
「でしょ? それにそうじゃなかったら、コーヒーを淹れようとして、途中で紅茶に変えたりなんてしないよ」
「ど、どうしてそれをっ?」
 思わず、そう訊き返した。だって春原さんは、そんなっ、あの時はまだ居なかったはずなのに!
「ははっ、やっぱりそうだったんだ。さっき足を冷やした時に見えたんだよ。流しの脇に、端っこを折ったコーヒー用のフィルターがあるのがさ。それに、有紀寧ちゃんがコーヒー用のカップで紅茶を出すなんてミス、するわけがないしね」
「…………」
 何もかも見透かされているようで、その実、本当にそのとおりで。
 わたしにはもう、何を言うべきなのか分からなかった。
 だから、問いかけた。もう分かっている質問を、他でもないわたし自身に。
 コーヒーを諦めたのは、誰を思い出したくなかったから?
 ドアが開いたとき、そこに誰がいてほしかった?
 今、わたしの心を痛ませるのは誰だろう?
 わたしは今、誰を求めているだろう?

「岡崎の手、掴みたいでしょ?」

 おまじないなんてしなくても、もう言葉は生まれていた。
 春原さんの真っ直ぐな瞳が、わたしを素直にさせてくれた。
 だからわたしは。
 微笑んで、しっかりと。

「……はいっ」

 春原さんの言葉に、そう答えていた。
「はい……はいっ! 掴み…たいですっ」
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙が零れる。微笑んでいるはずなのに、恥ずかしいくらい、次から次から。
 馬鹿みたい。こんなに好きなのに、どうして、どうして分からなかったんだろう。
 終わりになんてしたくない。
 わたしはもう一度、朋也さんと始めたいっ。
「うんうん、有紀寧ちゃんはどっかのバカと違って素直だねぇ」
 涙の止まらないわたしの頭を、春原さんがぽんぽんと叩いてくれる。
 温かくて、また涙がこぼれる。おかげで言えない。言いたいのに、言葉は嗚咽に消えてしまう。
 それでも言わなくちゃいけないから。わたしが今泣いていられるのは、朋也さんを好きでいられるのは、……こんなにも素直でいられるのは、春原さんのおかげだから。
 だからわたしは、涙を拭いて、
「ありがとうございます、春原さんっ」
 しっかりと、そう告げた。
 ちょっとだけ驚いて、それでも満足そうに春原さんが微笑む。わたしもつられて微笑み返した。近づいてくる時計の音。トクトクと響くわたしの鼓動。ゆっくりと世界が回り始める。いつの間にか、わたしの涙さえ春原さんの微笑みが止めていた。
「ん、それじゃ、今から岡崎のとこに行こうか。5時間目始まっちゃってるし、遅刻も早退も大して変わらないでしょ」
 よっ、と掛け声をかけながら春原さんが椅子から立ち上がる。全然気がつかなかったけど、始業のチャイムはもうとっくに鳴ってしまっていた。5時間目ももう佳境。
 わたしも春原さんに倣って立ち上がった。早退なら、かばんを教室に取りに行かなきゃ、なんて考えながら。
 でも、そこで気がついた。
「えっ、早退って、……朋也さん、学校に来てないんですか?」
 早退して会いに行くっていうことは、そういうことで。問いかけると、春原さんはどうしてか気まずそうな笑みを浮かべる。
「来てないっていうか、『来れない』が正しいかな……。岡崎のやつ、いま病院だし……ははは」
 乾いた笑い声をあげる春原さん。なにより、その言葉がわたしを驚かせた。
「病院って、どうして……。まさか朋也さん、病気なんですかっ?」
「いやぁ、その、なんというか……。最初に言ったけど、岡崎、誰に対しても『俺がフッたんだ』としか言わないからさ……」
 春原さんはそう言うけれど、わたしの中には疑問符が浮かぶばかりだった。どうしてそのことと病院が結びつくんだろう。わたしにはどうしても分からない。
「つまり、僕を含めて、世界には有紀寧ちゃんを泣かせたくない人がいっぱいいるってことだよ。ほら、とにかく行こう」
 ぽん、と春原さんに背中を押される。簡単に踏み出された最初の一歩。
 わたしは何も分からないままで、それでも足は動き始めた。
 このまま歩き続ければ、そこに朋也さんが待っている。
 朋也さんの手が、待っている。

 わたしは、今度こそ、朋也さんの手を掴もう。

 離したつもりで、本当は掴んでさえいなかった。
 想ったつもりで、いつも誰かの影を見ていた。
 だけど、今はちゃんと分かるから。わたしの気持ちが、朋也さんの痛みが。
 振り払われてしまうかもしれない。それ以前に、会ってくれないかもしれない。
 それは怖いけれど、もう足は止まらなかった。わたしは、わたしは、――本当に朋也さんが好きだから。
 だから、敢えて立ち止まる。春原さんが振り返って、それでもわたしは目を閉じた。
 交差された両腕と、胸に触れるわたしの手。繰り返すのはあの呪文。マッスグナココロ、トドク。
「OK?」
「はい、ばっちりですっ」
 そして、わたしは再び歩き出した。
 真っ直ぐな心を届けるために。


 朋也さんの手を、掴むために。



 >>了。




◆あとがき◆
というわけで、某所にて発表した『CLANNAD』の有紀寧さんSSでございましたー。
ここで公開する気はなかったんですが、せっかくアニメ化もしましたし、
なにより、あまりにも新作を発表していなかったのでwww

とにかく格好いい春原が書きたかったんですよ。
そしたら格好よすぎる春原になってしまった、というだけの話。
もっと馬鹿な子にしてもよかったのかしら。

実は別名でいろいろとゲーム系SSを書いているので、
そのうち公開するかも。
あるいは「西魔女」モノとか書けたら面白いですね。

ちなみに、この作品の執筆時期は2005年の1月です。
うひゃあ、間もなく2008年を迎えるというのに!