宮寺の現況
 宮寺村は所澤町の西二里、豊岡町の南一里半ばかりの處にありて、北は東金子村、東は藤澤村、三ケ島村、山口村、南は東京府多摩郡、西は元狭山村に接境せり。其の地略ぼ長方形をなし、南北甚だ長く、東西は短し。狭山の丘陵、村の南部に連り、柳瀬川の一枝流は丘の南より發して山口村に向かて流る、宮川、御稜川、加納川は丘の北より出づ。不老川は元狭山村より來て此の村の稍北部を横斷し、藤澤村に入て、前記の小流を併す。
 村の北部は森林多く、中部は陸田に富み。南部は山腹に據て林野を設け、谷澗に據て水田を耕せり。土質も北半は植質壌土にして南半は砂質壌土也。
 豊岡、八王子街道は東金子より來て村の西部をかすめ、入曾、狭山街道、所澤、青梅街道は並行して共に三ケ島より來り、元狭山村に出づ。
 所澤まで二里、入曾停車場まで二里弱、交通便ならず。戸數四百六十九、人口三千三百七十二、製茶、織物(綛及縞織)、養蠶等の業盛にして、夫々産出する所少なからず。農産は恐らく麥を最たりとすべし。
 この村大字の別なく、唯小字あり。十を數ふ。繩竹、矢荻(南北)、小ケ谷戸、中野(南北)、大森、山際、坊、二本木(下宿)是也。

宮寺の名稱
 宮寺の名稱に就ては其由來詳ならずと雖、武藏野話には一説を揚げたり、曰く。「古、國毎に一の景勝王院を造立し、紺紙金泥にて最勝王經を書寫し納め置くかれし事あり。武藏に此院の跡なし。案ずるに宮寺郷矢寺、宮寺山(ぐうじさん)西勝院は境内の樹木など殊の外古く、其の郷を宮寺と云ひ、其地を矢寺と云ふ。又古き國圖に宮寺町と記せり、されば西勝院は最勝院の誤にして王院の舊地か。又此地西久保と云ふ所に寄木宮とて素盞鳴尊を祀る。案ずるに出雲祝~社ならんか。此に依て此地を宮寺と云ふならん」。
 と。此説は風土記矢寺村大御堂の條にも記され、近來村人にして、故らに西勝院を最勝院と記すものあるが如しと雖、之れ大誤謬也。抑も古、國毎に国分寺を建て最勝王經を書寫し納めしめたる事はあり。未だ最勝王院なるものを設けたるを聞かざる也。殊に最勝若くは西勝を以て寺院の號とせしもの、郡内に於て既に五六以上を數ふべし。西勝を以て最勝の誤なりとなすを得ず。
 西勝院も大寺也。寄木宮も古社なるべし。宮寺町の名も意味あるべし。
然れども野話の説には賛する能はず。若し強いて宮寺の名稱に就て究明せんと欲せば余は唯~宮寺を以て之に答ふるの外あらざる也。蓋し其の昔、宮寺町の存せし處は決して交通上、産業上の利便ありて、人家群を成せしと認むる能はず。
 唯寄木宮あり。(若し寄木宮にして不可ならば其地に、更に適當なる~社ありしとするも不可ならず)西勝院の如きは其別當即ち~宮寺として、奉齎し、依て以て參詣の人あり、~威佛縁に伴ひて宮寺町の成立を來せしならん。
 ~宮寺略して宮寺と稱す。宮寺村の名稱として此以外の考案を思び浮べず。
 
宮寺の沿革                             
 宮寺及三ケ島、元狭山等の地は古の宮寺郷にして、三ケ島村長宮~社にありし所の正長元年の棟札に所謂、「武州入東郡宮寺郷」是也。又先之、七黨系圖村山黨の中に宮寺五郎家平等あるは、地名を以て氏名とせしものなるべく、名稱の益々古きを知るに足れり。
 然れども、此の邊一帯の大に開發せられしは比較的後世に属し、徳川時代に及でも、正保年代の圖によれば、宮寺の稍々西部と覺しき處より元狭山村の一部と覺しき虞にかけて、宮寺町の名稱ある外、四近悉原野なりしものゝ如し。
 然るに正保以後漸く開墾行はれ、元祿時代に至ては宮寺町の稱消えて、宮寺郷は高根、駒形、富士山、二本木、中野、大森、坊、荻原、小ケ谷戸、矢寺、堀ノ内、三ケ島の諸村に分れしが如し。其後二三の新村開け、又一二分合あり。
 明治初年に至ては既に述べたる十字を以て一村となし宮寺村と稱したりき。
 江戸時代の所属は采地にあらずんば支配地にして、明治元年知縣す。二年品川縣、次で韮山縣、四年入間縣(三大區三小區) 六年熊谷縣、九年埼玉縣、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年二本木聯合に加はり、二十二年に至て獨立して宮寺村を成す。

宮寺の小字
●繩竹
 村の南部、東京府と接し、狭山の餘脈北、西、南の三方を限り、東の一方柳瀬川に沿ふて勝樂寺村に出づペし。故に此地、地勢上明に勝樂寺に加ふべしと雖、沿革上宮寺村に属せるものゝ如し。
気候温暖、戸数二十四。
●矢萩(南北) 矢寺、荻原の二村を合して矢寺荻原と稱し、又略して矢荻と稱せしが、更に近來は矢荻を南北に分てり。繩竹の北に位し、丘陵を隔てたり。
矢寺の名稱の起原に就いては滑稽なる一説あり。採用すべからず。
●小ケ谷戸 北東は矢荻に包まれ、南は繩竹、西は中野に接す。戸数五十、東西、南北共に五町に近し。
村の殆ど全部は陸田也。
●中野(南北) 矢荻及小ケ谷戸の西にして、人家百餘、村役場、小學校、隔離病舎等皆此地にあり。
尭惠法師の北国紀行に文明十九年六月甘八日、武藏野の内、中野と云ふ處に平重俊といへるが催に因て云々
  露拂ふ道は袖より村消の草葉に歸る武藏野の原。
日高くさし昇りて云々
  夏しれる空や富士の根草の上の白雪暑き武藏野の原。
堀兼の井近き云々 など載せたるは或は此の地にや。小字北中野は普通土屋新田と稱せらる。 土屋氏の開きし新田なるか。否か。土屋家譜によれば、土屋甚助利常。天正十七年駿府に於て東照宮に謁し、奉二百石の地を采にて賜はりしこと見ゆ。天正十七年と云ふと少しく怪しむべきも、大體は然る可し。子孫相嗣此地を知行す。其墳墓今尚、長久寺跡の畑間に存す。
●大森 矢寺及中野の北方に位す。戸數五十。大森氏の采地たりき。
●山際 狭山とも稱す。中野の西南にして、狭山(山脈)の北麓に當れり。人家二十五。
●坊 中野の西に當る。陸田測量部二萬分一地圖は頗る坊村の位置を誤れり。
街道舊蹟考に曰く、坊村とは例少き村なり。最勝王院(此名稱不可)の坊などありしにや。と。
●二本木(下宿) 宮寺村の西部にして、寧ろ元狭山村二本木と接續し、地理上當然元狭山村に入る可くして、然も數回の紛争の結果今は宮寺村の中に入れり。
此村特種の部落にして、戸數三十、中央に洋風の高塔聳えたるは是れ天主教々會なりと聞えたり。
 全村悉く筬及下駄表の製造に從事し、二本木の筬の名は殊に市場に信用あり。

宮寺の社寺
◎出雲伊波比~社
  南中野にあり。山際に接せり。元寄木明~と稱し、村人は今も「ヨリヰ」様と呼べり。然るに例令焼失數回なりしと雖、社の體裁の古色深き、祭~の素盞鳥尊なる等は延喜式~名帳に出でたる出雲伊彼比~社ならんとの説出で、近年毛呂村飛來明~と共に出雲伊波比~社と稱するに至れり。
 社地は高臺にして、老樹あり。境内幽雅也。社殿も文化、文政の頃までは、本社、幣殿、拝殿、頗る整然たるものなりしが如し。社に弘治三年小田原北條よりの棟別朱印達の文書ありと云ふ。
 又石剱及御シヤク~三本ありと云ふ。村の鎮守也。社後に有名なる茶場の碑あり。
◎八幡~社 北中野南端にあり。~體は石剱にして、長六尺のもの一、四尺五寸のもの一あり。今より百四五十年前、新開地に移住せしもの井を穿たんとせしに、地下五六尋にして之を得たるなりと云ふ。小なる石剱は鍬に觸れて折れたり。
◎武塔天~社 北中野にあり。祭~不詳なれども、或は素盞鳴尊ならんと云ふ。
社地の邊は元土屋氏の祖、住せし處なりと云ふ。村持在らしが維新後民有となれり。
◎神明~社 大森の北部にあり。
◎熊野~社 矢荻にあり。
◎山祗~社 同
◎西勝院 矢荻にあり。宮寺山無量壽寺と號す。新義眞言宗にLて、多摩郡中藤村眞福寺末也。中興の開山を知養と云ひ、元和五年十一月十五日寂せり。今の本堂は草屋根にして、古風、頗る大也。山門なく、二本の大杉立てり。又閻魔堂あり。風土紀に曰く。
 相傳ふ。此寺に昔宮守西勝と云ふもの住せりと。西勝の事は記録なく、知るに由なしと雖、東鑑にも正嘉 の頃の人に宮寺藏人政員など見えたれば、西勝は其族なるにや。
と。一説也。里傳によれば寺地は宮寺五郎家平の居地にて、其の間南北朝の頃加納下野守の住せし處、今は境内に土居の跡を見る。寺は何れの頃開創せられしやを詳にせずと雖、古は今の大御堂の地に存し、慶長十年中興閉山智養。改めて加納氏の館跡に移せるなりと云ふ。文化年中火災あり、其十三年再興す。
 明治四十二年圓乘寺を合わせり。
◎大御堂 矢荻にあり。元西勝院のありし處にして、今堂宇及天王祠を存す。宮寺家平手植と稱する堂側の大杉は落雷のため枯木となれり。本尊彌陀、行基の彫刻と號す。古の額には大彌堂と記せしと云ふ。又古は別に小御堂あり、大小相對せりとも相傳ふ。
◎長久寺 北中野にあり、浄悦山涼光院と號し、眞言、眞福寺末にして、中興頼喜、正徳年代の人と傳ふれども、安政三年及明治二十二年焼失して、今殿堂の跡なく、僅に馬鳴堂(めめう)を存す。俗呼てミンメウ様と稱し、養蠶の守護~なりと云ふ。
 ~體は馬上の像、土屋氏が奈良より持ち來りし處と稱す。例祭三月十九日とす。堂の東に土屋氏の墓地あり。大石塔七基、小石塔三基、麥秀の中に立ち、人をしてそゞろに古を忍ばしむ。
明治四十二年地福寺と合す。又北中野には古小御堂ありしが廢絶の後其地に地蔵堂を建て、長久寺に附属せしめしも、今其の跡なく、僅かに殘りし小御堂の小名さへ消失するに至れり。
◎清泰寺 小ケ谷戸裏にあり。宿峯山と號し、眞言宗、中藤眞福寺未也。開山を頼榮と云ふ。三世智養元和五年寂せり。今の本堂は明治六年の造立にして、寺は今村役場たり。
◎崇巌寺跡 大森にあり。大森山と稱す。地頭大森好長の開基にして、好長法名を崇巌院と云ふ。依て寺名とせりと云ふ。寺は既に久しく廢寺たり。其の鐘及び額は清泰寺に移せり。里傳によれば大森氏幕府の許可を得ずして、寺を建て、爲めに厳命を蒙て之を毀ち佛躯を清泰寺に納めしなりと云ふ。
◎圓乗寺 小ケ谷戸にあり。眞言宗、関山智賢正保三年寂す。寺は明治四十二年西勝院に合せり。
庭前に虚明僧正の獨鈷松と稱するものありき。
◎大聖堂 坊にあり。高瀧山遍照院と號す。眞福寺未。
◎太子堂 武藏野話に曰く、坊村に古より聖徳太子堂あり、と堂は今荒たり。
◎長福事 野話に曰く、「太子堂を守りし寺は臨済にて、長福寺と云ふ。開山は桃源宗悟にて永徳二年九月四日示寂、其後寛文九年二本木へ移す。其の時の住僧は關宗玄脱なりと、今寺分と云ふ畑は長福寺の跡なる由。天文二年二月吉日と記し、三體の佛像を描ける石碑此寺境内にあり。又五輪の臺石あり。平氏長尾藤四郎とあれど年代知れず」と。長福寺今は長久寺に合せり。
◎狭山観音堂 山際にあり。西久保観音と稱す。行基作観音の像なりと云ふ。其の像は二體ありしに、一體は六部に盗まれしと傳ふ。

宮寺の古跡
◎塚場
 一丈五尺許の塚にして、新田義宗の陣地と稱す。未だ遽に首肯すべからず。
◎館跡 西勝院附近にして、土手東西五十八間、南北一町二十六間、高き處は一丈二尺、堀探き處は一丈ありと云ふ。加納下野守の築きし處にして、其初は宮寺家平の居住したる處なりと云ふ。
加納氏は元弘、正平の間、常に新田氏の下にありて戦功ありしと云ふ。

 
◎茶場碑 伊波此~社後方にあり。小碑二基、一は重關茶場碑記、(林輝の撰)、一は重建狭山茶場碑記(中村正直撰)也。
蓋し茶は僧榮西が建久二年入宋して、齎し歸りたりと稱す。之を全國五所に植え、狭山其一に居る。と云ふ。然れども里人は茶樹を以て野生に起りしものなるかの如く信ぜり。

宇治の新茶と狭山の古茶と出合ひましたよ横濱で・・・・・・・。村内俗謡の一、
居ねむり初めた狭山の茶をばゆすり起こすは我役目・・・・・。村内俗謡の一、



「入間郡誌」に載っていない~社、仏閣、その他
◎秋葉~社社
◎都稲荷~社
◎觀音堂
◎二本木~社
◎寿昌寺
◎地蔵堂
◎その他
 


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