今、光明燦然と輝く「世界平和の祈り」 top page 
No.2739 2000/12/03 (日) 13:30 富士宮
世界人類が平和でありますように

 人間は幾多の輪廻転生のうちに数えきれぬほどの小悟を体験し、しだいに大悟へと歩んでゆくものです。一歩前進したかと思うと後退したり、一時後退したかと思うと急速に前進するのが、人間の心境であり、人類の進歩であり、宗教の道でもあります。これは「螺旋(らせん)階段」にたとえることもできます。

 ですから、たとえ人生において逆境や苦難に遭い、後退したように見えても、「これも進歩している過程なんだ、未来は必ずよくなるんだ」と明るい未来を信じて、守護の神霊に自己の天命の完うを祈りつづけてゆくのです。過去世からの因縁を消すために、今生で他界するまで恵まれぬ運命がつづく人もおりますが、それでも「今からよくなるんだ」と神の愛を信じて祈りつづけてゆくのです。

 宗教というのは、今生の幸福だけを得る方法を教えるものではなく、永遠の人生における絶対幸福を得る方法を教えるものなのです。今生で現世利益的幸福が得られなくとも、不幸と見える人生であろうとも、貧苦でみじめな生活を暮らそうと、病苦があろうと、神への信仰を決して捨ててはなりません。永遠の幸福を得るために、神に祈りつづけるのです。そのような天に任せた生き方をしますと、過去世の因縁の流れを超越して、今生においても幸福に恵まれることがあるのです。

 五井先生の教えは、やさしいようでいて奥が深く、わかったようでいて、実はわからぬ人が多いのです。そのために自分が今まで知らなかった新しい思想に触れますと、五井先生の教えよりも進化した教えのように錯覚してしまい、せっかく五井先生の高い教えにつながりながら、低い宗教や他の思想に走ってしまう人が、間々あるのです。その理由は、その人の心境が、五井先生の教えを理解する段階には未だ達していないからで、その人の心境にとっては、五井先生の教えが、まだまだ高過ぎるのです。

 こうした場合、その人の現在の心境に応じた低い宗教団体や思想団体に入ってゆくことになるのです。私たちから見ますと、実に惜しいことですが、しかしこれもまた、その人の霊性開発の一つの段階として、体験しなければならぬことで、その修行が終わり、心境が高まれば、その心境に応じて、また一ランク上の新しい宗教思想団体へと進んでゆくのですから、温かく長い目で見てあげることが大切なのです。

 大悟の寸前には、守護神から種々の試みが霊修行者に行なわれるのですが、その一つとして、「真理の言葉に把われない心境であるか?」という試みがあります。守護神は、霊修行者に「真理の言葉」を教えます。そして、その霊修行者が「真理の言葉」に把われるか否かを、じっくりと観察するのです。もしも、信仰者が「真理の言葉」に把われますと、失格ということになり、スゴロクのように振り出しに戻されます。もしも、霊修行者の直覚が開いていて、「真理の言葉」に把われず、神への全託の祈り言を祈りつづけておりますと、守護神はその霊修行者に対して大悟の心境を授けるのです。

 五井先生の教えを完全に理解した人は、「真理の言葉」に把われることはありません。ところが五井先生の教えを理解できる人は実際には少なく、ほとんどの人が「真理の言葉」に把われてしまい、それ以上心境が上がらないまま、不自由な階層で停滞してしまうのです。この「真理の言葉」への把われを放つことは容易ではありません。それは守護の神霊に全託する祈り言よりも、「真理の言葉」を宣言するほうが、一見すると高い心境に見えるからです。「人々に自己を神のごとく偉く見せたい」という欲が少しでもありますと、その欲を満足させる「真理の言葉」という落とし穴に、すっかり陥ってしまうのです。

 五井先生の新しい「中庸光明思想」の教えが現れながらも、真理に片寄った古い「真理偏重光明思想」に把われてしまうのは惜しいことでしたが、これも一時的現象でありまして、業想念の消えてゆく姿であるのです。神のみ心にかなった真実の教えが、誤った宗教観にいつまでも覆い隠されているはずがありません。五井先生の真実の教えを復活させるために、私は天から遣わされてきました。「世界平和の祈り」は厳しい試練に鍛えられ、前にも増してその美しい輝きを放っています。私が「世界平和の祈り」を再び説き始めると、「世界平和の祈り」の超越力を改めて自覚した人々が、私のもとに集まりだしたのです。

 この地球世界は核戦争の危機で破滅寸前に見えましても、それでもなお、地球人類はたしかに進化をつづけているのです。「世界平和の祈り」は、一時、人々の記憶から忘れられ、後退したように見えましても着実に地球に根付き広がっているのです。五井先生が肉体界を去りますと、「世界平和の祈り」に情熱を燃やしていた人々も、「世界平和の祈り」をついつい忘れがちになってしまいました。やはり、多くの信仰者にとりましては、目に見える肉体を持った「世界平和の祈り」の中心者という存在が必要なのです。「世界平和の祈り」の中心者が、肉体界にいることによって、人々の信仰心は熱く燃え立つのです。

 「世界平和の祈り」は、五井先生が肉体界におわした当時だけに通用した、時代遅れの古い祈り言ではありません。「世界平和の祈りは、もう古い」という人がいますが、それはとんでもない妄見です。「世界平和の祈り」以外に、地球破滅の危機から救う方法はありません。そのためには神仏を信じている地球の宗教信仰者すべてが宗教宗派を超えて、各々の宗教教団にまつわる名誉欲や権力欲をきれいさっぱり捨てて、世界平和実現という大目標のもとに「世界平和の祈り」を祈る必要があるのです。今や宗派争いをしている時ではありません。私たちは心を一つにして「世界平和の祈り」を祈らなければならないのです。

 「世界平和の祈り」の中心者が、「この祈りではたして良いのだろうか?」とフラフラと迷っているようではいけません。今更、何を迷うことがあるでしょう。「世界平和の祈り」の大光明力を信じられないような、そんなあやふやな心で、なんで「世界平和の祈り」を広めることができるでしょう。私たちは「世界平和の祈り」を絶対力を信じております。「世界平和の祈り」を朝から夜まで一日中祈っているのは、私たちであるのです。「世界平和の祈り」の中心者は、誰でもない私たちなのです。「いや、世界平和の祈りの中心者は、私のほうだ」と主張する人がいたら、その人はどんな行法よりも「世界平和の祈り」を優先して祈らなければなりません。他の行法を優先したり併用している人が「世界平和の祈り」の中心者と言う資格はありません。「世界平和の祈り」の大光明は、私たちを中心に放射されているのです。

 五井先生によって誕生した「世界平和の祈り」は、50年間、批判や嘲笑の風雨にさらされながらも、挫けることなく、光をいよいよ増しながら、今日まで発展してまいりました。私たちは、神の厳しい試練に打ち勝ち、「世界平和の祈り」を守り抜きました。神は試練によって、私たちを鍛えて下さったのです。私たちは、神の試練によって「世界平和の祈り」の深い意味を悟ることができました。厳しい試練を乗り越えた今、「世界平和の祈り」が闇に隠れることは、もう二度とありません。「世界平和の祈り」は今、私たちと一体になって光明燦然と輝いているのです。